2020年9月22日火曜日

「考える会」の性暴力報道のリテラシーとは(1)



今回は、「セクハラ報道と検証を考える会(以下、「考える会」と略す)」の「セクハラ報道」に関する議論を検討していきたい。

 「考える会」は、「日本における性被害をなくし、セクシャルハラスメント報道のリテラシーを考えていきたい」と設立にあたって述べる一方(「セクハラ報道と検証を考える会」設立の趣旨)、日本では海外とは異なり、性暴力を報じるための手引書などは存在せず、性暴力と報道に関する議論も起きていない(「増加する海外のセクシュアル・ハラスメント報道」)と、日本での性暴力と報道の議論が不活発であるとし、それに懸念を示す。

 さらに、「海外ではセクハラや性暴力の報道においては、使用される言葉が非常に重要とされています」などと海外の報道状況を評価する一方、日本の性暴力報道では「レイプ」を使うなど表現に問題があるとして、広河氏の性暴力を報道した週刊誌を批判している。

 そこで本稿では、「考える会」の主張する、以下の3点について順次、検討していく。

1)「考える会」が、日本では性暴力を報じるための手引書などは存在せず、性暴力と報道に関する議論も起きていないと主張している点について
2)「考える会」が『週刊文春』の「レイプ」表現を批判している点について
3)「考える会」が「セクハラ報道」と「セクハラ」を名称に掲げている点について

  まず、今回取り上げるのは、「考える会」が「日本では、セクシャルハラスメントや性暴力を報じるための特別な手引書のようなものはいまだ存在せず、そうした議論も起きていない。」と主張する点についてだ。「考える会」としては、「被害者たちを傷つけないためにも、また過度に煽る報道がなされないためにも、最低の規定は必要だ」と述べる(「増加する海外のセクシュアル・ハラスメント報道」)。要するに、性暴力やセクシャルハラスメントと報道についての議論はまだ起きてないという主張だ。

 しかし、そんなことはない。これまでフェミニズムはずっとマスメディアに対し、性暴力やセクシャルハラスメントなどの報道について、性差別という観点から抗議や議論をしたり、ガイドラインを提起してきている。そして報道も差別をしないという観点から「記者ハンドブック」や「用語の手引」などでフェミニズムの主張を取り入れている。「考える会」はそうした性暴力と報道をめぐる動きに疎いのではないか。

 以下では、日本の新聞報道において、「性暴力」関連の用語が報道でどのように扱われてきたか、そしてそれに対してフェミニズムという観点からどのような働きかけが行われてきたか、その経緯を紹介しておきたい。最後に、現在の「記者ハンドブック」や「用語の手引」での性暴力の扱いを確認しておく。

 長らく、マスメディアでは、性暴力については「(性的)いたずら」「乱暴」「婦女暴行」などと軽く大したことではないという意味を持たされた用語が使われ、問題の本質を曖昧にし、実態が矮小化されてきた歴史があった。しかし、日本でも1970 年前後にウーマンリブ運動が起き、メディア報道における性差別を問題にする流れが盛んになった。それ以降、さまざまな女性グループがメディアの性差別表現について抗議したり、TVや新聞、雑誌などにおける性差別について、問題提起を続けてきた。当時、女性運動と女性記者は性差別表現やガイドラインについて議論を積み重ねており、そうした成果も反映していると考えられる。

 例えば、1975年に生まれた「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」は、「マス・メディアの性差別を告発」することを大きな柱して取り組んできた。セクシャルハラスメントや性暴力の撤廃は、その中で、重要な課題であり続けた(「マス・メディアの性差別を告発」行動する会記録集編集委員会編『行動する女たちが拓いた道ーメキシコからニューヨークへ』(駒野陽子、未来社、1999年、p.20)。こうした流れの中で、1980年代に、「その暴力的人権侵害の本質を表現した」用語として「性暴力」が使われるようになった(宮淑子『性暴力 レイプ』(サンマーク出版、1984年)。すなわち、「性暴力」という言葉自体、「フェミニズムによる対抗言語」として生まれたものなのだ。

 「性暴力」をどう表現するかはメディアの性差別問題では、常に重要な懸案だった。マスメディアは、これまで「強姦(かん)」を「不快用語」として扱い、それゆえ「婦女暴行」「暴行」あるいは「乱暴」などと曖昧な表現に言い換えてきた。フェミニズムはそうした報道姿勢を問題にし、「強姦(かん)」罪に相当するのであれば、「強姦(かん)」と明記することを提案してきた。「不快用語」とするのは、もちろん筋違いである上、「暴行」と言い換えると、一般の暴力行為と紛らわしく、加害者の社会的責任を軽減し、犯罪や容疑の実態をあいまいにする。そのため、女性の性的・身体的自由を侵害し、心身を深く傷つける重大な人権侵害である「性暴力」の実態を捉えた表現にすべきだと、フェミニスト視点によるガイドラインを訴えてきた。『きっと変えられる性差別語ー私たちのガイドライン』(上野千鶴子・メディアの中の性差別を考える会編、三省堂、1995年)はそうしたガイドライン提案の一つだが、そこでは「いたずら」「婦女暴行」「乱暴」、「わいせつ」など性暴力を隠蔽する表現について、被害者が特定されないような十分な配慮をした上で、性暴力であることを明記した表現にするよう求めている。

 もちろん、マスメディアがすぐにフェミニズムの訴えにより人権を配慮した表現に変えたかというとそうではなかった。例えば、「メディアの中の性差別を考える会」が1991年に全国の新聞各社および、日本外国特派員協会所属の海外ジャーナリストに性差別表現について行ったアンケート調査では、「性犯罪報道において「いたずら」や「淫らな行為」という表現を使うことについてどう考えるか」という問もあった。その結果によれば、「『強姦』などの表現は読者に不快感を与えるので、好ましくない」という国内新聞社の回答が85%に達したという(「性差別的表現をめぐる新聞各社へのアンケート」メディアの中の性差別を考える会『メディアに描かれる女性像 新聞をめぐって』桂書房、1991年、pp.1790-195)。「被害者の人権に配慮して、30年前から『強姦』は使用されなくなった」と説明する社もあった。その一方、海外メディアの回答は、数は6名と少ないものの全員が、「いたずら」ではなく「強かん(レイプ)」とはっきり書くと答えていた。理由として「犯罪事実を明確にすることは、情報伝達の必須条件」「その他の表現をつかうことは偽善」などをあげており、海外と日本のメディアのギャップは大きかった。

 しかし、その後、日本でも性暴力に関して、刑法が110年ぶりのに改正されたり、報道の基準が変化したりしている。2017年には、性暴力犯罪について、従来「強姦罪」として被害者は女性で、性交のみを対象としてきたものを、被害者・加害者の性別を問わず、性交のみならず性交類似行為を含めることとし、名称も「強制性交等罪」に変わり、量刑も最低5年へと厳罰化した。この改正では、時効が短いことや、地位を利用して起こる性加害が入らないことなど残された課題も多く、2020年に見直すという付帯決議が付けられた。

 報道ガイドラインについても、共同通信社『記者ハンドブック13版』(2016年)では「被害者が特定される恐れがない場合に限り、罪名・容疑名は「強姦(ごうかん)」を使ってもよい」と被害者の人権を最大限に守った上で、加害の深刻さを示す「強姦(ごうかん)」を「容疑」としても使うことを認めた。同『記者ハンドブック』については、確認できた範囲では、少なくとも2002年度版以降は、言い換えとして「乱暴」も例には入れているものの、「女性暴行」「性的暴行」をあげるなど、単なる暴力ではなく、性暴力であることを明示する方向に進んでおり、刑法改正前の2016年度版では「強姦(ごうかん)」という罪名表記も認めている。それは、共同通信が、『記者ハンドブック』において、1990年代後半以降、「性別を理由にした社会的、制度的な差別につながらないよう注意する」などのように、「性差別」に留意するようになったことと連動した、被害者の人権への留意の結果と考えられる。

 『朝日新聞の用語の手引』(2019年)は、「ごうかん(強姦)」を「性的暴行」と言い換えるよう例示しつつ、「『強制性交罪』の旧称である『強姦罪』などは別」と注記している。これは「強姦」罪に相当するのであれば、「ごうかん(強姦)」などの罪名を明記することを認めるというものだ。共同通信社のように、「容疑名」であっても「強姦(ごうかん)」とすると踏み込んでいるところもある。ただし刑法上の罪名で使われていた「強姦」だが、「姦」という漢字が女性蔑視的だとフェミニズムからの批判があり、上述の朝日の『手引』でもそれを避けて「ごうかん」と提示されてきた経緯がある。このようにまだ問題があるとはいえ、「不快用語」として隠蔽していた時代からは一歩前進だ。

 すなわち、「考える会」がいう「日本では、セクシャルハラスメントや性暴力を報じるための特別な手引書のようなものはいまだ存在せず」という主張については、「手引書」の中で基準を示そうとしている。また、「考える会」は「そうした議論も起きていない。」と海外の報道ガイドラインのみを紹介するが、日本でも、70年代からフェミニズムが取り組んできた歴史を見落としている。議論があるにもかかわらず、報道側が取り入れるのが遅れているのは、日本のメディアが性差別や性暴力について遅れをとっていることの表れだ。いずれにしろ「考える会」の国内での「性暴力報道」についての主張は、事実とはだいぶズレていることだけは確かだ。