ラベル 「考える会」 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 「考える会」 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2022年6月3日金曜日

広河隆一氏がnote弁明文で、木村嘉代子氏が広河氏擁護ブログで、それぞれ裏付けもなく『文春』取材で金銭授受があったかのように記述。記者と元社員3人は否定。

2022年3月8日、広河隆一氏は、自らの性暴力を認めることもしないまま、前文と8章で構成されている長文を「note」に発表した。女性の人権をこれだけ侵害した人間が、よくも「国際女性デー」に当てつけるかのごとくの投稿をしたと思う。自分の性暴力の禊を目的とした投稿で被害者の傷に塩を塗る行為ではないかと思うと同時に、アンチフェミニズム的な挑発にも見える。 

また、広河氏はnoteプロフィール写真に子どもの写真を使っているが、無垢な幼い子の写真で汚れた自分のイメージを洗浄しようとでもいうのだろうか。広河氏はこの被写体に許可を取っているのか。報道写真では被写体すべてに許可を取れないときもあるだろうが、これはよりによってプロフィール写真であり、広河氏は自分自身を代表する画像としてこの写真を使っているのだから報道写真の場合とは事情が違う。 

広河氏が書く性暴力についての弁明文のプロフィール写真に自らの顔写真を使うことを進んで許可する人などこの世にいるのだろうか。この被写体には人格と権利がある。広河氏は、自分のイメージ洗浄のために幼い子の顔を消費することからして、今でもやはりpredator-数々の性暴力やパワハラを行ったときと同様、自分より弱い相手を獲って喰う捕食者であることに変わりはないのではないか。 

この長文の内容は全体的に、加害者である自己の被害者化、『週刊文春』の記事とデイズジャパンの「検証報告書」が信用できるものではないという印象を作り出そうとしている文である。広河氏の被害者にとっては二次加害どころではない、とても耐えられない文章であろう。いろいろ批判すべき点はあるが、今回は一点のみ最終章の重大な問題を取り上げたい。 

最終章「欠けたピース」の中で、広河氏は、YouTube に公開された対談番組(2021年3月1日ライブ配信とある)で、DAYS JAPAN の最後の編集長であったジョー横溝氏が「デイズ社の社員が会社情報を週刊文春の田村記者にリークして収入を得ていた可能性について、重要な証言をしている」と書いている。この番組で横溝氏はその情報をデイズ社の顧問弁護士であった馬奈木厳太郎弁護士から得たと言っている。 

広河氏にとって2018年のデイズ社内でのいろいろな動きに不可解なところがあるということでそれを「欠けたピース」と呼んでいたが、対談番組で横溝氏が聞き伝えで言っていることについて、 

「つまり欠けていたピースには、創刊以来およそ15年間『DAYS JAPAN』で校正を中心に働いていた『週刊文春』の田村記者が、私のスキャンダル情報を集めるためにデイズ社の社員に金銭を支払って、社内情報提供を依頼していたということを証明するものだった。」 

と、「証明」とまで言い切ってしまっている。横溝氏も「可能性」としか言っていないのに、である。それも広河氏は、「横溝編集長と馬奈木弁護士は良好な関係にあったことから、このユーチューブでの横溝氏の証言は正しいと考えて間違いないだろう」と、裏付けでもなんでもない「良好な関係」を、あたかも根拠であるかのように語っているのである。 

最後には、「直接関係があるわけではないが」と言いながら、元『文藝春秋』と『週刊文春』の編集長を務めた木俣正剛氏が自著において、週刊誌への情報提供に対し「一銭も支払っていない」と強調している部分を引用してこの長文が終わっている。 

要するに、広河氏はこの8章の長文の最後に、自分の加害行為についての話題から完全に離れ、『週刊文春』で自分の人権侵害を告発した田村記者が、週刊誌の慣行に背いて金銭でDAYS JAPANの社員から情報を買っていたと、読者に印象づけて終えているのである。 

田村氏と4月に会話する機会があった。その際にこの部分について話題になったが、田村氏は、「情報をお金で買うようなことは一切しておらず事実無根」と言っていた。広河氏が8章で触れているDAYS JAPAN 元社員のKLI各氏(広河氏が文中で使ったアルファベット通り)にも聞いてみたところ、自分たちが田村氏から金銭を得て情報提供していたという事実は一切ないし、他の人についてもそういうことは聞いていないと言っていた。 

広河氏が、金銭授受という重大な問題について、伝聞だけで「証明だ」と騒ぎ立てることはジャーナリストの風上にも置けない人間とはいえないか。広河氏はこれを本当のことと決めつけ、何の確認手続きも踏まず、馬奈木氏の弁護士としての倫理問題にまで踏み込んでいる。 

ちなみに、このブログでも頻繁に取り上げて批判してきた、木村嘉代子氏が主に執筆をしてきたという、事実上広河隆一氏擁護を展開しているブログ「セクハラ報道と検証を考える会」でも、「週刊文春デイズジャパンのセクハラ記事は本当に正しいか?2/2 情報のリークに金銭支払いの疑いも」という見出しの記事がトップに出てくる(2022年5月30日アクセス時)。それも、ジョー横溝氏の発言を引用し、最後に、必要もないのに『週刊文春』元編集長の木俣正剛氏を引用して終わっているところも広河氏のnoteと同じである。 

「考える会」ブログの記事のほうが先なので、広河氏は、このブログを参考にしている可能性もあるし、このブログは広河氏と直接つながりがあることをすでに明らかにしているので、何の驚きもない。ブログでは「裏を取っていないため、これが事実かはわかりません」と言っているが、見出しで「情報のリークに金銭支払いの疑いも」と書いてしまっていては、その「疑い」が真実であるように印象づける意図があることは明らかだ。 

田村氏や上記の元社員の三人が、これについて広河氏や木村氏から取材を受けたということもないようだ。広河氏も木村氏も、「裏を取る」努力もせず、ただ疑惑だけを拡散したかったのであろう。 

広河氏はその後何事もなかったように復活しており、フェースブックやツイッターでの発信も行っている。noteの長文で禊は済んだと自分で勝手に判断したかのようである。このnoteの文は、自分の性暴力を認めず、『文春』記事や検証委員会批判に明け暮れることで被害者を二度、三度傷つけ、最後は裏付けもない田村記者やデイズ元社員への誹謗中傷で完結した文である。

(文責 乗松聡子)

 

2022年2月13日日曜日

#MeToo運動を歪曲し、性暴力被害者を貶める ―― 『その名を暴け』の誤訳・改変と木村嘉代子氏の書評(その3)

 3) 木村嘉代子氏による『その名を暴け』書評の問題点


今回は、「セクハラ報道と検証を考える会」の記事の大半を書いてきたと自ら名乗った木村嘉代子氏が書いた本書の書評「性犯罪を『正しく』暴く」 ジャーナリズムの神髄」(『週刊金曜日』(2021年1月29日号、 p. 55)について見ていきたい。なお「セクハラ報道と検証を考える会」とは、ブログ等で広河隆一氏の性暴力事件の被害者やその報道に疑問を呈し、検証報告書を批判し続けることによって、加害者である広河隆一氏を事実上擁護している団体だ。


こうした活動を積極的に行っている木村氏が書評で書いたことは、ニューヨーク・タイムズの性暴力報道を称賛する一方、ジャーナリストの著者たちが#MeToo運動に疑問を投げかけているかのような内容だった。

著者はまた、この報道を機に、『世界中の女性が、自分の体験を話し始め』たが社会には大きな変化が起きたのだろうかと、#MeToo運動の目的、説明責任のあり方などに答えのない疑問を投げかける。(木村嘉代子「性犯罪を『正しく暴く』ジャーナリズムの神髄」『週刊金曜日』2021年1月29日号、p.55)

書評の#MeToo運動に関する部分に注目したい。「社会には大きな変化が起きたのだろうかと、#MeToo運動の目的、説明責任のあり方などに答えのない疑問を投げかける」という箇所は、#MeToo運動の目的、説明責任のあり方などがまずかったために、社会に大きな変化が起きなかった、と著者らが考えていると思ってしまいかねない。「#MeToo運動の目的」という箇所は、すでに拙稿の第一回(その1)で取り上げた「この(#MeToo)運動の目的」という箇所(「はじめに」『その名を暴け』 p.9)をピックアップしたものと思われる。ここは、翻訳者による誤訳や改変の結果、#MeToo運動が無実の男性に罪を着せたと著者が述べているかのような内容になっていた箇所で、#MeToo運動への疑問らしき含意は、原著には全くなかったことはすでに述べたところである。

古屋氏の誤訳により#MeToo運動に批判的だと読めるように歪曲された内容だったからこそ木村氏がフェミニズム運動を批判するのにうってつけと飛びついたのであろう。なお、木村氏の書評はほぼ「はじめに」だけに言及したものである。そして「#MeToo運動の目的」に該当する箇所は、「はじめに」では上記以外には見当たらなかったことを申し添えておきたい。

次に、「社会には大きな変化が起きたのだろうかと・・・答えのない疑問を投げかける。」について見ていこう。

原著の「はじめに」で「社会の変化」という箇所を確認すると、social change が2箇所 、changeが3箇所あった。その一つである「どうすればこれほどまで世間を揺るがす社会的変化が起きることになったのか? この本を書こうと思ったのはそうした疑問に答えるためだった」という箇所について、見てみよう。


閉塞感のあるこの世界で、どうすればこれほどまで世間を揺るがす社会的変化が起きることになったのか? 

この本を書こうと思ったのはそうした疑問に答えるためだった。(『その名を暴け』 pp.6-7)


In a world in which so much feels stuck, how does this sort of seismic social change occur? We embarked on this book to answer those questions. (She Said , p.2)

著者らが、女性たちが性暴力を証言したことによって「社会には大きな変化が起きた」と考え、「大きな変化が起きたのはどうしてか」という疑問から本書を執筆した、というパラグラフの一部だ。つまり、木村氏は、著者らが「大きな変化」が起きたのか疑問視している、と著者らが言明していないこと、むしろ著者らが言っていることと逆のことを書評で言わんとしているということだ。また、木村氏が用いている「説明責任」という用語については、「男性が」「前例のない説明責任を果たすことになった」(p.6)と加害男性の説明責任に関する文章はあったが、#MeToo運動の「説明責任のあり方」という文章は、「はじめに」のどこにも見つけることができなかった。

木村氏が#Me Too運動について引用している箇所は、翻訳者の古屋氏が原文の意味を取り違えたりして、フェミニズム運動に否定的だったり、フェミニズム運動を貶めるような箇所とおおよそ合致した。つまり、木村氏は、翻訳者の古屋氏が日本語版の翻訳において#Me Too運動に厳しく、フェミニズム運動を貶めるように改変した箇所に、木村氏自身の#MeToo運動に関する否定的な見方を投影させ、さらには、「説明責任」に至っては別の文脈で使われていた用語を悪用して、また「社会の変化」については、邦訳で書かれていることと真逆の内容を入れるなど事実をねじ曲げてまで、フェミニズム運動の評価を貶めていたということになる。

木村氏の書評は、古屋氏の誤訳と相まって、本書があたかも#MeToo運動に懐疑的であるかのように読めるものとなっている。ちなみに木村氏は考える会の記事やツイートで、日本のセクハラ報道を「センセーショナルに報じる」「事実をねじ曲げた」などと非難しているが、”She Said ”を『その名を暴け』に変えてしまったことにコメントもせず、また『その名を暴け』での事実のねじ曲げともいえる翻訳の改変箇所には、目をつぶっている。木村氏は、英語の翻訳家養成講座を修了したとプロフィールに書いているのであるから、翻訳のおかしな点を原著に当たって確認をとれるはずだが、それもしていないようだ。さらには、自らも自説に都合よく、邦訳をねじ曲げた書評まで書いたようだ。これでは、木村氏や「セクハラ報道と検証を考える会」の主張は、ご都合主義以外の何ものでもなく、もはや信用に値しないのではないだろうか。


本ブログでこれまで度々、広河隆一氏の事例で問題にしているように、性暴力被害を訴えるとたちまち加害者に寄り添った反論や、あたかもマスコミにタレコミをしてお金を受け取っていたかのような被害者バッシングが湧き上がってくるという実態がある。実名と顔を出して権力者の性暴力を訴えた伊藤詩織氏への2次加害の激しさは言うまでもない。

こうした被害者バッシングが、性暴力への告発をテーマとする書籍の出版に際しても例外ではないということが、今回、見て取れた。性暴力被害者の声にフォーカスした良書が『その名を暴け』というセンセーショナルなタイトルになり、性暴力被害者を貶めたり、被害者側に立つフェミニズム運動を軽視し、否定的な内容へと改変された部分を含む翻訳書として出版された。本書が本来示していたはずのフェミニズム運動へのリスペクトや、女性たちの連帯というメッセージが弱まることになったように思われるのは遺憾である。こうした事実については、今後そのようなことが起きないようにするためにも、せめて記録として残しておきたいと思う。

翻訳者の古屋美登里氏が翻訳を通して行ったこと、そして木村嘉代子氏が書評でしたことは、相手との大きな権力差や法律の壁に阻まれる中、身を削る思いでやっと声をあげた性暴力被害女性への冒涜に思われてならない。

2021年12月29日水曜日

被害者を分断する「セクハラ報道と検証を考える会」の二次加害

(お断り:以下の記事には、性暴力被害者に対する二次加害だと私たちが考える発言の引用が含まれます。閲覧いただくにあたってこの点ご承知おき下さい。) 


「セクハラ報道と検証を考える会」(以下「考える会」)の旧ブログにおいて有料記事として掲載されていた「【検証・週刊文春】強要を否定の田村記者、記事では一転「抗えないまま」に: 田村記者の取材と記事の検証(1)」という記事は新ブログに転載されていなかったが、その後加筆のうえ「週刊文春デイズジャパンのセクハラ記事は本当に正しいか?1/2 食い違う取材で得た情報と記事の内容」(以下「1/2」)及び「週刊文春デイズジャパンのセクハラ記事は本当に正しいか?2/2 情報のリークに金銭支払いの疑いも」(以下「2/2」)として掲載された。

田村栄治記者による広河隆一氏への取材の録音に依拠した『週刊文春』記事の「検証」なるものについては、すでに以下の記事で批判しておいた。

「セクハラ報道と検証を考える会」の「検証」なるものについて(1)

「セクハラ報道と検証を考える会」の「検証」なるものについて(2)

「セクハラ報道と検証を考える会」の「検証」なるものについて(3)

今回加筆された部分にも看過し難い問題があるため、ここでは加筆部分に絞って取り上げることにしたい。

まず指摘しなければならないのは「1/2」が被害者を描くそのしかたがはらむ問題点である。

この記事の特徴は、証言している「報道の仕事を志す若い女性たち」が、そのタイプによくみられる、自立心が強く、自己主張のできる女性ではなく、性的暴行に直面しても、「恐怖で言葉を発せず、抵抗もできなかった」「抗えない」といった内気で従属的な弱々しい人として描かれていることにあります。

ここで問題にされているのは『週刊文春』記事の描写方法であるが、この部分から逆に「考える会」の性暴力認識に大きな問題があることがわかる。性暴力にあった際に「抵抗」できないことを「内気で従属的な弱々しい人」という被害者の属性に起因するものとし、 「自立心が強く、自己主張のできる女性」であれば抵抗した/できたはずだとされている。抵抗できなかったこととを一方的に「内気で従属的な弱々しい」人柄と結びつける一種の犠牲者非難を行っているのは『週刊文春』ではなく、「考える会」なのである。

また『ニューヨーク・タイムズ』の記事に登場する被害者について「その何人かは、会社に抗議し、示談金で和解しています」などとしたうえで、次のように言う。

ところが、「文春」の記事に登場するのは、自分に降りかかった不幸を誰にも言えず、泣き寝入りしてしまった女性たちです。

そのため、この記事は、女性の被害者意識を強調するだけに終わっていて、#MeToo運動を盛り上げ、女性たちを応援する内容にはなっていないといえます。

「よい被害者/悪い被害者」という二分法で性暴力被害者を分断する、極めて悪質な二次加害であろう。そもそも #MeToo 運動の意義の一つは、性暴力に抵抗しあるいは自らの被害について語ることの困難さを改めて認識させたことではなかったか。ワインスタインの性暴力は長期間に渡っており、多くの被害者が沈黙を強いられてきたのであるから。先んじて声をあげた被害者の勇気を称賛するために、沈黙を強いられた被害者を貶める必要はないはずだ。まるで「模範的な被害者」が存在するかのような発想で被害者をジャッジする「考える会」の態度は、広河の被害者だけでなくワインスタインの被害者が見ても怒りを感じるものであろう。

また、「この記事は、女性の被害者意識を強調するだけに終わってい」るとか「#MeToo運動を盛り上げ、女性たちを応援する内容にはなっていない」という評価も問題だ。まず第一に、被害者の被害感情をきちんと伝えることの意味を過小評価(「だけに終わって」)している点。第二に、「女性たちを応援する内容にはなっていない」という評価も主観的な決めつけに過ぎず、事実に即しているとは思えない(そもそも『週刊文春』の狙いは「#MeToo運動を盛り上げ」ることだったのか? という疑問は措くとして)。実際には『週刊文春』の報道はかなりの関心を集め、被害者の一部がデイズジャパン社に対して民事訴訟を起こすといった動きも起きている。第三に、「そのため」という接続詞によってあたかも被害者が直ちに声を上げなかったことが「#MeToo運動を盛り上げ、女性たちを応援する内容にはなっていない」と評価する根拠となっているかのように主張されている。しかし「#MeToo運動を盛り上げ」るのに貢献する被害者/貢献しない被害者を「考える会」が選別することの問題点は先に指摘したとおりである。

また田村記者の発言に対する曲解もひどい。田村氏が取材の動機の一つに「広河氏の素顔を知らせる」ことをあげていたのを捉えて「セクハラ・性的暴行の報道は、こうした怨念を晴らすタイプでいいのでしょうか」としているのだが、根拠を欠いた決めつけとしか評しようがない。広河氏の周辺にいて薄々事情を察していた関係者は別として、多くのひとは広河氏を「いかにも性暴力を振るいそうな人物」とは思っていなかったのであるから、「広河氏の素顔を知らせる」ことが取材の動機になるのは自然なことであろう。また「怨念」というのが田村氏の感情を指しているのか被害者たちのそれを指しているのかがわかりにくい文章であるが、仮に後者なのであれば抱いていて当然の被害感情を「怨念」と表現するのも二次加害と言ってよいのではないだろうか。


「2/2」に関しては、「考える会」が自称する活動目的と実際の活動との乖離がここでも露呈していることをまず指摘したい。

この取材録音の二人の会話を聴いてなにより腹立たしいのは、女性が渾身の勇気をふるって自分の体験を告白したと思われるのに、取材した側も、取材される側も、その口調があまりにも軽々しく、女性たちの痛みに寄り添っていないところです。 

だが「考える会」は次のようなツイートによって、被害者の証言が信用に値しないかのような主張を繰り返してきた。

先に指摘した二次加害とあわせ考える時、「考える会」に対してこそ「女性たちの痛みに寄り添っていない」のではないかと指摘せざるを得ない。

またこのツイートもそうであるが、「考える会」ツイッターアカウントの投稿には繰り返し「裏取り」「裏付け」「裏づけ」という単語が登場し、検証委員会報告書や『週刊文春』報道には根拠がないという印象付けを行っている。ところが「2/2」では「考える会」がしっかりした根拠を欠いた憶測、噂の類を引き合いに出しているのである。デイズジャパンの元従業員が『週刊文春』から金銭を得て情報をリークしていた「可能性」があるというのがそれである。だがこれについて当事者の証言があるわけでもなく、「可能性がある」という会社側弁護士の認識を聞かされたというジョー横溝・元編集長の発言が参照されているに過ぎない。また仮に金銭の授受があったところで、それが直ちに『週刊文春』の報道内容の当否に関わるわけでもない。にもかかわらず、「考える会」自身「裏を取っていないため、これが事実かはわかりません」と認めているようなことをわざわざ記した理由はなんだろうか? 『週刊文春』や告発者への悪印象をつくりだすためであれば、日頃の“持論”はかなぐり捨てるのが「考える会」のやり方なのだろうか?



2021年12月27日月曜日

「『セクハラ報道と検証を考える会』についての公開質問状」への回答未着とお願いの再送

12月13日に、「セクハラ報道と検証を考える会」のブログの執筆者だとTwitterで明らかにしたフリーライター木村嘉代子氏宛に「『セクハラ報道と検証を考える会』についての公開質問状」を送付しました。回答期限を25日でお願いしていましたが、木村氏からの回答は12月27日現在、まだ届いていません。

そのため12月27日に、以下の文面で再度のお願い文章を、木村氏のサイトのメールフォームより送付し、木村氏及び「セクハラ報道と検証を考える会」のTwitterアカウントにも@にて送付についてお知らせしました。

以下、その文面です。


フリーライター 木村嘉代子様

「広河隆一氏とデイズジャパン経営陣の人権侵害を忘れない会」です。

12月13日に、「『セクハラ報道と検証を考える会』についての公開質問状」を送付し、25日までのご回答をお願いいたしました。期限の25日がすぎましたが、まだご回答をいただいておりません。

私たちは、広河隆一氏がいまだに、自身の性暴力や権力の乱用の数々の事実に誠実に向き合わないままでいることについて、深刻な問題だと考えています。そして、被害者の告発証言が信用できないものかのように言い続け、『週刊文春』などの報道記事、及び検証報告書の批判ばかりを展開することによって、事実上広河氏を擁護している匿名の「セクハラ報道と検証を考える会」にも非常に懸念を抱いてきました。私たちは、社会の公益を考えて公開質問状という形を取っております。その意義をご理解いただき、ご回答をしていただきたいと思います。

以下に再度、公開質問状を貼り付けますので、一刻も早いメールでのご回答をお願い申し上げます。なお、25日の期日までにお返事がいただけていないことについても、公表させていただきますのでご了承ください。

また、公開質問状については、当会のサイトの以下のリンクにてすでに公開しておりますことも、お伝えさせていただきます。 https://donotforgetvictims.blogspot.com/2021/12/blog-post_13.html

ご回答のほど、よろしくお願いいたします。

「広河隆一氏とデイズジャパン経営陣の人権侵害を忘れない会」」(山口智美・斉藤正美・能川元一・乗松聡子)

(木村氏へのメールでは、ここに公開質問状の本文も貼り付けました。)

2021年12月13日月曜日

「セクハラ報道と検証を考える会」についての公開質問状(フリーライター木村嘉代子氏宛)

以下の公開質問状を、フリーライターの木村嘉代子氏に宛てて、木村氏のサイトのメールフォームより12月13日に送付しました。

「セクハラ報道と検証を考える会」についての公開質問状 


 フリーライター 木村嘉代子様 

 時下益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。 

 私たちは、「広河隆一氏とデイズジャパン経営陣の人権侵害を忘れない会」と申します。フォトジャーナリスト、および株式会社デイズジャパン元代表取締役の広河隆一氏による性暴力やセクシュアルハラスメント、パワーハラスメントなどの加害行為、さらに株式会社デイズジャパンが適切に対応しなかったことによる人権侵害や、それらに関連する二次加害を許さないための活動に取り組んでいます。(会のサイト

2021年11月30日に、木村さんはTwitterにおいて、「セクハラ報道と検証を考える会」のブログに「​​これまで50本投稿しました」と明らかにされました。 私たちは、「セクハラ報道と検証を考える会」がブログやTwitterで発信する内容が、加害者である広河氏を擁護するスタンスを反映しているとし、たびたびブログで言及してきました。ですが、今まで「セクハラ報道と検証を考える会」はブログの筆者を明らかにしておらず、代表の「永谷生希」氏に関してもネット上に情報がなく、他の会員も明らかではないなど、不明な点が多くありました。この度、プロのフリーライターである木村さんが執筆に関わっていることがわかりましたので、木村さんに「セクハラ報道と検証を考える会」に関して、公開質問状を提出することにいたしました。

以下に記した質問項目に関して、ご回答をいただきたく存じます。 お忙しいところ誠に恐縮ですが、ご回答は12月25日(土)までにいただきたく、お願い申し上げます。なお、この質問状およびいただいたご回答については、私どもの会のサイトにて公開させていただきますので、ご了承ください。 

 以下、7点の質問項目です。

1) Twitterで木村さんは「セクハラ報道と検証を考える会」のブログに「50本投稿しました」と書かれていますが、現在、同会のブログには、「設立の趣意」項目を含めて、51の記事が投稿されており、実質の「ブログ記事」は50本となっています。その50記事全ての執筆者が木村さんなのでしょうか。あるいは、他にも執筆者がいらっしゃるのでしょうか。

2) 「セクハラ報道と検証を考える会」の会員数を教えてください。また、どのような人たちが会員なのでしょうか。木村さんは会員なのでしょうか。木村さん以外の会員の中に、ジャーナリスト、記者、ライター、編集者などの職業の方はいらっしゃるのでしょうか。

3) 「セクハラ報道と検証を考える会」」の代表は「永谷生希」氏とサイトに書かれていますが、永谷生希氏の情報はネットでも全く出てきません。「永谷生希」氏は木村さんの別名なのでしょうか。木村さんの別名ではなく、永谷生希氏と木村さんが別人であるという場合、永谷氏がどのような背景や実績をお持ちの方なのかを教えてください。

4)木村さんは執筆家としてさまざまな本や雑誌記事、ブログを「木村嘉代子」の名前で発表してこられたのに、デイズジャパンの検証報告書を批判するブログを匿名で書かれてきたのはなぜでしょうか。また、なぜ木村さんは、それまで匿名で書いてきたブログの執筆者であることを11月30日にTwitterで突然明らかにされたのでしょうか。

5)「セクハラ報道と検証を考える会」のブログでは、広河隆一氏から直接コメントをとったという記述があります。​​広河氏から直接コメントを取られたのは、木村さんでしょうか。また、同ブログに掲載されている広河氏への『週刊文春』インタビュー録音を入手されたのも、木村さんでしょうか。また、今回、ブログの執筆者であることを明らかにされたのは、広河氏と打ち合わせてのことなのでしょうか。

6)「セクハラ報道と検証を考える会」は「設立の趣意」で「被害者を救済する立場で彼女/彼らの声を伝えていく必要があると考えます」「日本における性被害をなくし(中略)ていきたい」、広河氏がフォトジャーナリストであるにもかかわらず「セクシャルハラスメントやパワーハラスメントに関する知識が低かったと言わざるを得ず、許せるものではありません」とうたっています。しかしながら、木村さんおよび「考える会」は、文春報道や検証報告書を批判するばかりで、「被害者を救済する立場で彼女/彼らの声を伝えていく」ことを一切していないのはなぜでしょうか。

7)60人のジャーナリストにあてて木村さんが広河氏についての『週刊文春』記事や、デイズジャパン検証報告書についての取材メールを送ったという情報を見ました。その取材メールの目的と、60人の選定基準について教えてください。

以上、ご回答をよろしくお願い申し上げます。

2021年12月13日

「広河隆一氏とデイズジャパン経営陣の人権侵害を忘れない会」
(山口智美・斉藤正美・能川元一・乗松聡子)

2021年12月7日火曜日

「セクハラ報道と検証を考える会」のブログ筆者、発覚

2020年1月からnoteでブログを立ち上げ、発信を開始した「セクハラ報道と検証を考える会」(以下、「考える会」)のブログが移転した。また、ツイッター上で送られてくる同会ブログ記事を紹介するbotも、以前より頻度が増えており、「考える会」の活動が活発化してきたように思われる。 私たち「広河隆一氏とデイズジャパン経営陣の人権侵害を忘れない会」は、「考える会」の発信が、いかにもセクハラ報道について検証するといった体裁を取りつつ、実質は加害者である広河隆一氏擁護の目的に貫かれていることを、複数の記事で指摘してきた。(当ブログ「考える会」ラベルから関連記事が閲覧できる。) 

 この「考える会」だが、サイト上では「世話人代表」であるという「永谷生希」氏という名前があるだけで、他に誰が所属しているのか、何人いるのかなどの情報が書かれていない。「永谷生希」という名前でGoogle検索をしても、情報は皆無。永谷氏の名前は会の「世話人代表」として突然登場したというわけだ。 

 だが、2021年11月30日、フリーライターの木村嘉代子氏が以下のツイートを行った。 「デイズジャパンのセクハラに関する週刊文春報道と検証報告書に疑問を感じ、これまで50本投稿しました。」と木村氏は書く。2021年12月現在、「考える会」ブログに掲載された記事数は51本。ということは、「考える会」の記事は全て木村氏執筆によるものなのではないか? 

木村氏は「私たちは考えています」とも書いており、同会には複数のメンバーがいるようなのだが、木村氏以外のメンバーについては不明で、同会の規模もわからないままだ。 木村嘉代子氏は、『朝鮮人「徴用工」問題を解きほぐす』、『なぜオートミールは海外セレブやアスリートに愛されるのか』、『外国人ナンパ男にだまされないヨーロッパの歩き方』などの著書を持ち、『週刊金曜日』などの媒体に寄稿するライターだという。

木村氏はプロのライターなのに、なぜ今に至っても「考える会」ブログの50本にも及ぶ執筆記事に署名をしていないのだろうか。さらに、「世話人代表」という「永谷生希」氏は、同会ブログ記事を全て執筆してきたと思われる木村氏の別名なのだろうか。それとも別に代表として「永谷生希」氏が存在するのかもよくわからない。

木村氏のツイッター発信を振り返ると、すでに2019年12月の段階から、デイズジャパン検証委員会の報告書について批判的なツイートを行っていた。2020年1月に「考える会」のブログが立ち上がる直前のことである。


木村氏は当事者へのヒアリングがなかったと書いているが、明らかに事実誤認であり、そのことは検証委員会のメンバーでもある太田啓子弁護士によりすぐに指摘されていた。

 

「考える会」は「セクハラ報道およびリテラシーのあり方」を考えることを活動趣旨としている。この団体の活動目的に鑑みて、メンバーを明らかにしていないどころか、代表は何者かも不明、記事の執筆は匿名という状態には疑問を感じざるを得ない。それにも増して、同会の唯一の表だった活動であるブログ記事の執筆は、プロのライターによるものだということが今回わかった。 何よりもおかしいのは、木村氏がプロの文筆業であるにもかかわらず、性暴力問題という非常にセンシティブな、苦しみ続ける被害者が存在する問題を論じる上で、匿名記事という方法を用いて自らは安全な場所に置きつつ、加害者である広河隆一氏を擁護する記事を垂れ流し続けてきたことだろう。 木村氏のみならず、影に隠れている何人いるのかもわからない同会メンバーも同じことだ。他の会員たちもジャーナリストやライターといった職業の関係者である可能性もあるのかもしれない。そうだとしたら、あまりに無責任ではないだろうか。被害者の気持ちを考えたことはあるのか。

匿名で無責任に広河氏擁護の文章を書き散らしてきた木村氏及び「考える会」だが、広河氏に問い合わせを行い回答をもらっていたり、週刊文春の広河氏への取材録音を入手するなどしており、「考える会」が広河氏との繋がりを持っていることも明白だ。

 「考える会」ブログで性暴力報道について書き続ける木村氏は、「フェミニズムやジェンダーなど女性をめぐる問題」についてのブログも執筆するが、「ブログをはじめた理由は、このところ注目されている、フェミニズムやフェミニストの考え方に、もろ手を挙げて賛同できないからです。」、「私自身、フェミニズムを専門に、学んだことはなく、フェミニストと名乗る気もありません」と述べており、フェミニズムの背景知識はかなり少なく、かつフェミニズムに批判的な考えの持ち主だということも窺える。「考える会」のブログには、英語力の問題のみならず、根本的に性暴力やジェンダー、フェミニズムに関する知識が不足していることに起因すると思われる誤訳や誤った記述も散見されるが、その背景が見えてきた。

 なぜ「考える会」が今になって活動を活発化させているのか。当会としても、「考える会」のブログ記事の批判的検証を続けつつ、今後の動きにも注意を払っていくつもりだ。

                                                                                                                    

2021年4月4日日曜日

「セクハラ報道と検証を考える会 bot」の新規ツイートについて

「考える会」bot の新ツイート

 セクハラ報道と検証を考える会(以下「考える会」)のツイッターアカウント @scshmjp が2021年4月1日に新しいツイートを行った。自動投稿されるツイートが大部分を占めるアカウントが単発で行ったツイートである。きっかけは『現代ビジネス』ウェブ版に掲載された西口想氏のコラム「ハラスメントの中で生まれた作品をどう評価すればいいのか」であるようだ。

西口氏が問題視しているのは山田洋次監督の映画『男はつらいよ お帰り 寅さん』(2019年12月27日公開)に広河隆一氏が撮影したと思しき写真が用いられており、エンドクレジットに名前が記されていることだ。西口氏は「その写真が広河の写真である必然性は物語上にはない」ことを踏まえて“なぜ差し替えなかったのか?”という問題提起を行っている。

これに対して「考える会」は次のような連続ツイートを行った。連続ツイートは2つのグループに分けることが出来る。

A:広河氏の性暴力が事実であることを前提としていることへの批判

B:写真の差し替え要求に対する批判 

これまでもにじみ出ていた広河氏を擁護しようとする意図がいまや鮮明になっている。 

Aの主張について

「考える会」は「示談書などの証拠を示さずに性犯罪を認定するのは、報道倫理に反するとみなされる」と主張するが、「証拠」の例示が「示談書」なのはなぜなのだろうか? 加害者が加害を認め両当事者の間で一定の合意がなされた場合にしか「示談書」の類は存在しないのに。たしかにツイートには「など」とありはするが、加害者が否認している事例を記事にすることへの反発を伺わせる。

他方、広河氏のケースではすでにデイズジャパンから2名の女性に慰謝料などが支払われていたことが報じられている。広河氏個人による賠償ではないにせよ、裁判所が選任した破産管財人が被害を認めたことの法的な意味は大きい。支払いが行われたこと(及びその報道)について広河氏は公的にはなんの発言も行っていない。西口氏が広河氏による性暴力が事実であったことを前提としてコラムを執筆したとしても「稚拙」などと謗られるいわれはなかろう。

なお「考える会」が『週刊文春』の記事を否定すべく公表した記事については、私たちは以下で再反論しておいた。

「セクハラ報道と検証を考える会」の「検証」なるものについて(1)〜(3)

https://donotforgetvictims.blogspot.com/2020/07/1.html

https://donotforgetvictims.blogspot.com/2020/07/2.html

https://donotforgetvictims.blogspot.com/2020/08/3.html

また「考える会」が性暴力報道一般について考察する体をとりながら実質的に広河氏を擁護するかたちになっているという点については、以下で指摘した。

セクハラ報道と検証を考える会」の誤訳から見える、性暴力理解の根本的な欠落(1)〜(2)

https://donotforgetvictims.blogspot.com/2021/01/1.html

https://donotforgetvictims.blogspot.com/2021/01/2.html

Bの主張について

西口氏が求めているのは写真の差し替えであって映画のボイコットではないのだから、これはいわゆる「藁人形たたき」に過ぎない。また自分が観ないだけでなく社会に「観ないよう促す」ことが「知る権利の侵害」だという主張も噴飯ものだ。デモ隊が映画館を封鎖するというならともかく、ボイコットに賛同しないひとは呼びかけを無視して観ることができるからである。むしろ、ある作品に性暴力加害者が関わっていることを広く知らせ問題提起しようとする動きを抑え込もうとすることの方が「知る権利」の侵害ではないか。

西口氏のコラムは「性暴力やハラスメントで告発されたアーティストの作品をどう評価するか、私たちが拠ってたつべき基準はたしかにまだ確立されていない」と慎重な立場を明らかにしたうえで、問題を「作家と作品の関係」だけではなく「観客」を含む三項関係で考えようとするものであり、“悪いことをしたやつの作品は社会から抹殺しろ”といった粗雑な議論ではない。粗雑なのはむしろ「考える会」の側の反応であろう。

2021年2月1日月曜日

「セクハラ報道と検証を考える会」の誤訳から見える、性暴力理解の根本的な欠落(2)

前回の記事では、「セクハラ報道と検証を考える会」による、米ニューヨークのダートセンターの性暴力報道に関する文書に誤訳が多いことを指摘した。そして、そうした誤訳により、本来は被害者の人権を守るための文書を、実際には加害者である広河氏に有利となるように利用していることを述べた。

今回の記事でも、「考える会」が誤訳をしているのみならず、英文の解釈を、自分たちの広河氏擁護の主張に都合よく使えるように改変している問題を考えてみたい。「考える会」は、「性暴力を誠実に報道するために、取材の準備からインタビューの留意点、記事構成や言葉遣いなど、細かい規定を提案している団体もあります。」といい、「性暴力の理解に甚大な影響を与える報道に規制を設ける海外団体:デイズジャパン最終報告書の検証(6)」(魚拓)(「考える会」サイト引越しに伴い、同じ記事タイトルが「デイズジャパン最終報告書の検証性暴力の理解に甚大な影響を与える報道に規制を設ける海外団体(6)」に変更)と題された記事の中でも、いくつかの米国の団体のガイダンスを紹介している。

だが、この記事でも、前回のダートセンターの文書と同様、本来は被害者の人権を守るためのガイダンスを、加害者を擁護するために恣意的に内容を改変して紹介しているのだ。 

 例えば、同会はミネソタ州の性暴力反対連合(Minnesota Coalition Against Sexual Assault, MCASA)のジャーナリスト向けガイド「Reporting on sexual violence: A guide for journalists」を紹介する中で、そのガイド中で言及されているフロリダ州にある非営利団体ジャーナリズム機関のポインター研究所(The Poynter Institute)の記述に触れている。

 そして、「考える会」は、ポインター研究所の記事から以下の箇所を抜き出している。

有罪判決を受けていない人への非難を避けるには、受動態の方が問題がない。しかし、加害者が逮捕されたら、警察の報告を引用し、加害者を主語にしたほうがいい。被害者は直接目的語にすべきである。

ここで「考える会」は、ポインター研究所がその直後に書き、このパラグラフの中で最も重要であると思われる、”Saying a victim 'performed' a sexual act unfairly assigns agency to the victim.”(被害者が性的行動を「行った」ということは、被害者に能動性を不当に与えるということだ。)という肝心な文をなぜかカットしているのだ。

 「考える会」が、「有罪判決を受けていない人への非難を避けるには、受動態の方が問題がない。」と訳した部分は、原文では”Sometimes it’s easier to use the passive voice because we don’t want to assign blame to someone who hasn’t been convicted.”と書かれている箇所だ。これは、「有罪判決を受けていない人に責任の所在をあてがうことを避けるために、受動態を使ったほうが無難な時もある。」と訳すのが適当だろう。だが、これはあくまでもこのパラグラフの前置き的な文であり、最も肝心なのは「考える会」がカットした、被害者に能動性があったかのような表現をすることが不当だとした箇所である。

 この重要な文をあえてカットした「考える会」は、『週刊文春』が広河氏の性暴力を告発した記事には「広河氏を主語にした、能動態による性行為の描写も含まれます。MCASAの基準からすると、この記事の執筆者は性暴力表現への配慮が十分ではなく、記事表現は不適切だということになります。」とつなげている。だが、本来、MCASAの文章は被害者に能動性があったかのように、すなわち被害者も合意していたと捉えられるように記述することは不当であるとし、むしろ、加害者の能動性をしっかり伝えるべきだと主張するものである。だが、これを「考える会」は、加害者の広河氏が逮捕されていないから、広河氏の行為が能動態で描かれていることが不適切だと、意味を完全にすり替えている。

 そして、「考える会」は再びダートセンターの性暴力報道のガイダンス文書を持ち出し、以下のように解説する。

「暴行を説明するときは、詳細な写実の分量のバランスを考える。多すぎるのは不当であり、少なすぎるとサバイバー(生還者)の出来事の深刻さを弱めることになる」と「正しい言葉の使用」が強調されています。

 この翻訳に対応するオリジナルの英文は以下である。

When describing an assault, try to strike a balance when deciding how much graphic detail to include. Too much can be gratuitous; too little can weaken the survivor’s case.

 「考える会」は”Too much can be gratuitous"を「多すぎるのは不当であり」と訳しているが、原文は「意味もなく過度に詳細な記述を行うべきではない」という意味であり、これに「不当」という訳語を当てるのでは、意味が全く伝わらない。また、「考える会」のいう「不当」が、誰にとって「不当」なのかも曖昧なままになっているが、この記事の文脈や、これまで指摘してきたような恣意的な解釈を踏まえると、被害者にとって「不当」だということをきちんと理解しているのか疑問である。

 ちなみに、同会がダートセンターのガイダンス文書を翻訳紹介した記事のほうでは、同じ文を「暴行を説明するために、含める図式的な詳細の分量を決める際、バランスをとるようにしてください。多すぎると余計ですし、少なすぎるとサバイバーの事件を軽視することになります。」と、「多すぎると余計」と訳している。「不当」と「余計」では意味が全く違い、同じ文書に対して異なる翻訳文を提示するのも杜撰だし、ダートセンターのガイドラインが意図している、被害者の立場に立つという視点が全く抜け落ちた訳になっている。(なお、"graphic"の訳も、「写実の」「図式的な」と異なっており、一貫していない。)

 さらに「考える会」は、ダートセンターが女性の被害者の取材の際には女性記者の同席を勧めているからとして、「広河氏の週刊誌報道に対する違和感のひとつは、サバイバー(生還者)から話を聞いているのが男性記者だけではないかと思える点です。」と、『週刊文春』記事を書いた田村栄治氏が男性であることだけをもって、記事の信頼性を貶めようとする。

 だが、『週刊文春』の報道の後、さまざまな新聞、ウェブメディア等で広河氏の性暴力やパワハラ問題が、被害者への取材も交えつつ報じられてきたが、それらの記事の多くは女性記者によるものだし、中には被害女性たちが声をあげた記事やブログもある。そして、デイズジャパンの検証委員会の中にも、被害者の聞き取りを担当した女性の委員はいる。また、例えばジャーナリストのジョン・クラカワーの『ミズーラ』は、被害者の側にたち性暴力事件を報じた大変優れた仕事だが、クラカワーは男性である。聞き取りの場に女性記者もいることが望ましいとするガイドラインそのものに問題はないが、取材に関わる人や記事を執筆する人が女性でなくてはならないわけではないし、記者が男性だというだけで、記事の信頼性が落ちるということにはならないのは当然だろう。

 そして、「考える会」は、記事を担当した記者である田村氏が男性であるために、『週刊文春』の記事の中に「不快な表現が多々」みられるとし、事例として『週刊文春』の2019年2月17日号に、広河氏が避妊具を使わなかったことについての記述があることを特に挙げて、批判を展開している。

当該記事のなかには、報じる側に女性の関与があれば、避けるであろう不快な表現も多々みられます。たとえば、避妊方法の明記です。避妊は加害性を軽減したり、サバイバー(生還者)にとって有利になったりせず、性暴力の酷さとは関係がありません。それをわざわざ書いく(ママ)のは、いかにも男性視線の猥談的な興味からに思えます。 

 もちろん加害者がたとえ避妊をしたとしても、同意を得ずに性行為を行うということは紛れもない性暴力であり、許されないのは当然だ。だが、被害者が性行為に同意をしていない中で、さらに加害者が避妊具を使わずに性暴力行為を行なったということは、被害者にとってはとてつもなく恐怖だろう。性暴力の中で避妊したかどうかは、被害者にとって自分の身を守る上で重要なことであり、だからこそ重要な情報として、証言をしたのではないか。被害者の側に立った立場を装いながらも、「考える会」は被害者の思いを全く考えず、避妊について報じることそのものを問題視しており、被害者軽視の視点を打ち出している。「考える会」は広河氏が、被害者の同意も得ないままに避妊をせず性行為を行ったことは、広河氏の性暴力行為の深刻さとは無関係だといいたいのだろうか。「考える会」の筆者が「男性視線の猥談的な興味からに思えます」というのは、自身がそう思っているということなのではないのか。

 そして、「考える会」は「日本のセクハラ報道は、加害者の悪質性を強調した個人攻撃型で、問題の背景や全容、今後の解決策につながるような内容にはなっていません。」と結論づける。ここで「加害者の悪質性」すなわち広河氏の悪質性を強調すべきではない、という「考える会」の広河氏擁護の主張がますます明らかになっている。

 「考える会」は「こうした報道は、#MeToo 運動の盛り上げの一助になるのでしょうか。」とも書くが、#MeToo 運動へのバックラッシュとしか言いようがない言論を展開している「考える会」に、上から目線でフェミニズム運動に対して、盛り上げの一助にならないなどとコメントする資格はない。これこそ性暴力の被害を軽視し、フェミニズムを見下して専門家ぶる「男性視線」以外の何者でもないだろう。

「考える会」のサイトには、性暴力報道に関する、英文ガイドラインの邦訳が掲載されていて便利だと思う人もいるかもしれない。だが、ここで見てきたように、「考える会」が提示する翻訳が「加害者擁護」の目的に影響されたものであり、時に致命的なミスや、恣意的な誤訳、文脈を無視したつまみ喰い的な引用が巧妙に混ぜられた邦訳であることを忘れてはならない。すなわち、「考える会」の翻訳に基づきこれらのガイドラインを活用することは、被害者の人権を侵害する報道につながる恐れが高く、大変危険だということだ。

 

2021年1月26日火曜日

「セクハラ報道と検証を考える会」の誤訳から見える、性暴力理解の根本的な欠落(1)

 
前回の記事(「考える会」の性暴力報道のリテラシーとは(3))では、広河隆一氏の性暴力加害を擁護する「セクハラ報道と検証を考える会」が、ニューヨークタイムズ紙などの欧米メディアを文脈を無視して褒めちぎることで、『週刊文春』など日本のメディアに掲載された広河氏の性暴力の告発記事の信憑性を貶めようとしたことを指摘した。今回の記事でも「考える会」が英語媒体の翻訳情報を恣意的に使い、曲解をも交えながら紹介することで、広河氏の性暴力を擁護するために利用していることを明らかにしたい。

「考える会」のサイトには、英語媒体からの情報や、翻訳が多く掲載されている。自分たちが英語媒体にも通じており、最先端のジャーナリズム倫理に詳しいと言いたいかのようだ。そして、「考える会」は、英語媒体の情報を「権威」として扱うのみならず、それを広河氏を擁護し、『週刊文春』や「デイズジャパン検証委員会」を批判する目的で使っている。

だが、その肝心の英語の解釈に関して、間違いや誤解が目立つ。そもそも、「セクハラ報道と検証を考える会」というサイトの団体の英語名が"The Study of Covering Sexual Harassment in the Media"とされており変だ。「会」なのに英語が"The Study…"となっているのもおかしいし、”the”も何を指しているのか不明だ。さらに、”covering”とすることで、「報道」を指したつもりなのだろうが、むしろ「隠蔽する」の方かとも思えてしまう。「メディアにおけるセクハラを隠蔽する研究」とでも言ったところか。「考える会」の実際の目的は、本サイトが今まで掲載してきた記事からも明らかなように、広河氏による性暴力やセクハラを隠蔽することにあるので、間違っているわけではないのかもしれない。

「考える会」が2020年2月11日付で出した「性暴力報道のための取材準備から記事執筆までのヒント」 (魚拓)(「考える会」サイト移転に伴い、同記事タイトルが「性暴力報道のためのガイダンス(Reporting on Sexual Violence):ダートセンター」に変更)
という記事がある。米コロンビア大学ジャーナリズム大学院のプロジェクトであるダートセンターが出している文書を翻訳したものだという。「考える会」によれば、ダートセンターは「ジャーナリストの取材活動をサポートする国際的な組織で、暴力や紛争、被害に関する革命的で倫理的なニュースの告知に専念しています。」という組織だという。

この記事が出た時、あまりに誤訳が多いことから、当会のメンバーがそれを指摘するツイートをいくつか行った。例えば以下だ。

また、当会メンバーはダートセンターにも、同センターのメールフォームを使ってメールを送っている。誤訳問題に加えて、「考える会」が加害者である広河氏擁護の目的を打ち出したサイトであることも書き加えたのだが、ダートセンターからの返答はなかった。

今回、この記事を書くにあたり、「考える会」の当該記事を久々に見てみたところ、私たちが指摘した箇所のいくつかが訂正されていることに気がついた。例えば「public policy」が「社会秩序」と誤訳されていた箇所は、「公共政策」に直っていた。ツイートで誤訳を指摘されたのを見て密かに直したのか、あるいはダートセンターから「考える会」に問い合わせがあり訂正という流れになったのかはわからない。

 いずれにせよ、誤訳よりも根本的な問題である、ダートセンターの出した文書の「考える会」による翻訳が、加害者擁護の目的のために使われているということについて、ダートセンターが何もせず、そのまま翻訳許可を与えているのは大きな問題である。同センターの活動そのものにも疑念が湧くレベルだ。コロンビア大学のジャーナリズムスクールなら、日本語ができる人が「考える会」のサイトを読み、同会の目的を確認するなどいくらでも可能だろう。それをせず、放置しているダートセンターの責任も問われるところだ。

 私たちが表立って指摘した「考える会」によるいくつかの誤訳はいつの間にか訂正されていたのだが、再び記事を読んでみたら、まだ誤訳は残っていた。どうせ直すなら、文章全体をしっかり確認しなおせばいいのに、それを怠ったのか、それとも根本的にわかっていないために、チェックし直してもなお誤訳だと気づかなかったのだろうか。

以下、いくつか「考える会」の誤訳の事例を挙げてみよう。

1)
サバイバーがどう感じているかわかると言ってはいけません―それはわからないのです。代わりに、こう言うことができます。「これがあなたにとってどんなに苦しいことかわかります」

日本語が「それはわからないのです。」と言いながら「わかります」となっているのは矛盾していて意味不明である。この翻訳文に対するオリジナルの英文は以下となる。

Never say you know how they feel – you don’t. Instead, you could say, “I appreciate how difficult this is for you”.

日本語だとknowもappreciateも「わかる」と辞書には書かれているが、ここでは「わかります」ではなく、「大変なのにありがとう」と言った感謝の気持ちを表す表現だろう。この英文の翻訳は、「サバイバーがどう感じているかがわかるとは決して言ってはいけません。あなたにはわからないからです。むしろ、『とても大変なことなのに話してくれてありがとう』ということはできます。」という感じである。この文章を翻訳する際に、「考える会」が「わかる」という言葉を使っているのは致命的だ。

2)
しかし、調査が終わっても、それを放置しないでください。この話題に関する知識は多ければ多いほどよく、特定の個人が自分たちに起きた出来事をどのように経験したかを予測することはできません。

オリジナルの英文は以下だ。

But once you have done your research, leave it at the door. It doesn’t matter how much knowledge you have on the topic, you can never predict how a particular individual experienced the events that happened to them.

「考える会」は”leave it at the door”を「それを放置しないでください」とし、さらに”It doesn’t matter how much knowledge you have on the topic”を「この話題に関する知識は多ければ多いほどいいですし」と訳している。しかしここは、「それ(調査で知ったこと)は置いておいてください。どんなにこの問題に関する知識があっても関係ありません」という意味だ。個人の経験はそれぞれ違い、その人が自身に起きたことについてどのように経験したかは、決して予測することはできないから、とダートセンターは書いているわけだが、「考える会」は全く逆に訳しており、完全な誤訳だ。

3)

紛争時における兵士のレイプは戦争犯罪です。それを不運と書き表しますが、戦争のありきたりな側面と表現するのは好ましくありません。

オリジナルの英文は以下だ。

During conflict, rape by combatants is a war crime. Describing it as an unfortunate but predictable aspect of war is not acceptable.


 この文章は「紛争時における兵士のレイプは戦争犯罪です。それを不運な、戦争の予想できる側面であると記述するのは許されることではありません。」という意味だ。つまり、戦争犯罪を単なる「不運」と書き表すべきではない、とするダートセンターの文章について、「考える会」は「不運と書き表しますが」と訳してしまっている。 
 さらに、問題はそこだけではない。「考える会」は、2020年2月の時点では「不運な人としてそれを書き表しますが、戦争のありきたりな側面というのは是認できません」と翻訳していたことが、当会メンバーの能川元一のツイートからわかる。

Google 翻訳よりひどいところもあるな。「不運な人としてそれを書き表しますが、戦争のありきたりな側面というのは是認できません」という部分とか。https://t.co/s1KMKm1sHc

— 能川元一 (@nogawam) February 17, 2020

つまり「是認できません」だったものを、「好ましくありません」と一段とソフトな表現にしてしまっているのだ。能川がツイートで「ひどい」と書いたことが影響したのだろうか。しかし、能川は「是認できません」という表現を「ひどい」と言いたかったわけではない。そもそも原文では”not acceptable”というかなり強い表現を使って言い切っている。「考える会」の戦時性暴力への問題意識の欠落も垣間見える誤訳と言えるだろう。

 3つの誤訳の例を挙げたが、性暴力報道のために気をつけるべきことを述べている記事なのに、英語の読解力の欠落とか、ケアレスミスとかいうことを超えて、根本的に原文の意味を変えてしまうレベルのミスである。性暴力報道という、通常の報道以上に細かな気を使わないといけない局面において、致命的なミスだと言えるだろう。このことからも、「考える会」が性暴力の問題に無頓着であり、被害者の人権など実は考えてもいないことが見えてくるのではないだろうか。

 性暴力被害者の人権を守るために書かれたはずのダートセンターの文書が、「考える会」の翻訳及び広河氏擁護サイトへの掲載により、加害者擁護のための文書に化けてしまったのだ。被害者の人権擁護の衣を纏っているだけに、より悪質だ。


(2021年11月28日追記: 「考える会」サイト引越しに伴い、この記事のタイトルは以前のものから変更されていたが、上記に記したミスに関してはそのまま残っていることを確認した。)


2020年12月2日水曜日

「考える会」の性暴力報道のリテラシーとは (3)

ここまで「セクハラ報道と検証を考える会(以下、「考える会」)」による、日本の「性暴力」と報道について、2回にわたって取り上げ、「考える会」は、性暴力とその報道について、重要な点を見落としていることを明らかにしてきた。 


「考える会」の性暴力報道のリテラシーとは(1)


「考える会」の性暴力報道のリテラシーとは(2)


 今回は、性暴力と報道についての3回目として、「考える会」が「セクハラ報道と検証を考える会」という自身の団体の名称をはじめとして、日本語の「セクハラ」という用語を使って、広河氏の性暴力を矮小化していることについて見ていきたい。日本語の「セクハラ」表現は、英語の「セクシャルハラスメント」の語が長いため、その略称として、マスメディアなどで使われることもある。だが、「セクハラ」は、「セクシャルハラスメント」のように法的な定義や解釈が付随する表現とは異なり、さまざまな意味で使われており、男性中心的な社会では、往々にして、「軽微なもの」「大したことがない」と受け止められる可能性もつきまとう表現だ。


 「考える会」は、「『セクハラ報道と検証を考える会』設立の趣意」というブログ記事において、「各メディアはこうしたデリケートな問題(セクシャルハラスメントおよび性暴力)を報道する際、ジャーナリズム倫理や人権尊重に基づき、細心の注意を払って被害者救済を最優先に伝えるよう努めて」いるとし、自らも「日本における性被害をなくし、セクシャルハラスメント報道のリテラシーを考えていきたい」としている。さらに「考える会」は、「加害者を擁護し、被害者を傷つける報道」をしないために「言葉遣い」などに注意することが重要だというのだ。つまり「考える会」は、人権を尊重し、言葉遣いなどに細心の注意を払って、被害者救済に資するよう活動する団体だと標榜しているようだ。しかし、本当にそうなのだろうか。以下、疑問を呈していきたい。


「考える会」は、「ジャーナリズム倫理」や「人権尊重」などを一般論で論ずるときは「セクシャルハラスメント」という言葉を使っておきながら、以下で示す3つの記事例のように、広河氏が登場すると見出しまで含めて積極的に「セクハラ」表現を使うようになるようだ。広河氏が犯した加害の話になると、「ジャーナリズム倫理」や「人権尊重」を論じていたことを忘れたかのようだ。



1.   「週刊文春の広河氏セクハラ記事の取材録音を入手」


2. デイズジャパン最終検証報告書の検証(15)【NYタイムズと週刊文春】日本は告発型が主流 研究者や法律家も鵜呑みに 」


3. デイズジャパン最終検証報告書の検証(16)【NYタイムズと週刊文春】セクハラ被害者1人で4ページ」 



 1番目の記事は、『週刊文春』による広河記事を批判している「考える会」が、広河取材の録音を持っているということで、広河氏本人と極めて近い関係にあることを示すものである。見出しに「セクハラ」という表現を使って、広河氏の事件を軽く見せようとしている。


2番目と3番目の記事は、日本メディアと欧米メディアを対比し、日本メディアを低く見ることで、広河氏の加害に関する報道の信憑性を貶める内容だ。広河氏の加害を矮小化しようとして「大したことではない」というニュアンスを醸し出す「セクハラ」表現を使ったものだ。このように広河氏の事件を矮小化しようとする記事内容と見出しの「セクハラ」表現が符合していることから、「考える会」が、内容と表現の双方から広河氏の加害を矮小化し、広河氏を擁護しようとしているのが見て取れる。


 さらに、「考える会」の「セクハラ」表現の使用において、もう一つ重要なのが、団体の名称に「セクハラ」を使っていることだ。冒頭で確認したように、「考える会」は言葉遣いなどに細心の注意を払い、被害者を救済する団体であるかのように書いているが、その一方で、自身の団体の名称にあいまいな意味合いを持つ「セクハラ」表現を敢えて採用している。


「考える会」が広河氏など加害者の出てくる局面に限って「セクハラ」と表記するのは、加害者側に寄り添っているということだ。上記の3つの記事例や団体の名称は、日本語の「セクハラ」表現にさまざまな意味があることに乗じて、広河氏の性暴力を軽微なものと印象づけている。


もちろん、いかなる場合にも「セクハラ」という言葉を使うことがいけないと言っているわけではないが、「考える会」の使用例は、広河氏の性暴力を矮小化する目的で使っているようにしか見えない。



このように、ある時は「報道のリテラシー」をと言い、広河氏が出て来ると途端に、恣意的に「セクハラ」を使うという「考える会」による二枚舌の行動を見せつけられると、「考える会」の主張に説得力があるようにはとても思えない。「考える会」は、広河氏の事件を矮小化しようという真の目的を、人権やらジャーナリスト倫理やらを喧伝してカムフラージュしているだけではないだろうか。



 この連載の第1回では、性暴力と報道に関するガイドラインや基準がフェミニズム運動や女性学の成果であること、そして「考える会」はそうした背景知識に無頓着なままに海外の基準を中途半端に紹介していることを指摘した。第2回では、背景などすっとばしてただひたすらニューヨークタイムズ紙を褒めちぎる反面、広河氏の性暴力を報道した週刊文春の信憑性を貶めようとしていたことを記した。そして今回は、会の名称や広河記事に、恣意的に「セクハラ」表現を用いているのは、広河氏の加害行為を単なる軽い「セクハラ」と矮小化しようとしているという疑問を示した。



「考える会」は、「報道のリテラシー」を啓蒙する、「性被害をなくす」などと言っているが、このように陰湿な形で広河氏の加害を擁護しようとするなら、「報道についてのリテラシー」を語る資格などない。いわんや、「性被害をなくす」ための団体だなどという見え透いた口上は、広河被害者の方たちをどれだけ傷つけるか、想像に難くない。




2020年10月14日水曜日

「考える会」の性暴力報道のリテラシーとは(2)ーーデイズジャパン最終検証報告書の検証(5)  米ニューヨークタイムズは「レイプ」と「合意のない性関係」を区別

 フェミニストたちが、重大な人権侵害である「性暴力」については、加害の事実を矮小化する「乱暴」などの曖昧な表現より、深刻な実態を捉えた「ごうかん(強かん)」や「レイプ」と表現すべきだと訴えてきたことについては、「考える会」の性暴力報道のリテラシーとは(1)で述べてきた。 

 ここでは、「セクハラ報道と検証を考える会」が、「デイズジャパン最終検証報告書の検証(5  米ニューヨークタイムズは「レイプ」と「合意のない性関係」を区別 において、「刑事犯の場合は”レイプ”という言葉」を使うが、それ以外では「レイプ」などの表現はあまり使わないというニューヨークタイムズと、広河氏事件について「レイプ」と報じた日本の「週刊文春」とを比較して、ニューヨークタイムズを高く評価している点について、考えたい。


 そもそも、米国の新聞・ニューヨークタイムズと、日本の週刊誌である『週刊文春』を、単純に「センセーショナルか、そうでないか」という点で比較するが、報道スタイルや取材態勢等が全く異なる媒体を比較するのは乱暴すぎると思う。 


 もちろん、ニューヨークタイムズが「レイプ」が強い意味を持つ表現だから、それより「読者にできるだけ多くの情報を提供するために、徹底的に正確に伝えようと心がけ」たというのは、正当な方策だと思う。


 一方、日本の場合、性暴力を告発する媒体としては、新聞が性暴力報道に消極的であることもあって、週刊誌での報道が多い。週刊誌の場合、あくまでその内容の如何を判断するのは読者に委ねられつつ、他の媒体では書きづらいことを表に出していく役割を担っている面はある。そして、広河氏事件についても『週刊文春』で取り上げられ、初めて広河氏が性暴力事件を起こしていることが発覚したということだ。『週刊文春』の広河氏の事件を報じる記事では「レイプ」が使われている(「あの人は私を2週間毎晩レイプした」広河隆一”性暴力”被害女性が涙の告発」)。しかしそこでの「レイプ」表現は、被害女性の発言部分であり、鉤括弧がつけられている。『週刊文春』は、被害女性の発言部分以外では「レイプ」表現を使わないというほどには、抑制的であるといえよう。いずれにしろ、米国の新聞と日本の週刊誌を単純に比較し、米国の新聞を評価するというのは、議論として粗雑すぎるのではないだろうか。


 また、「考える会」が「ニューヨークタイムズでは、セクハラ記事に“レイプ”という言葉を使わず、“合意のない性的関係”などを使用してきました」。「日本でも、“レイプ”(=強かん)は犯罪行為です(刑法177条 強制性交罪)。このニューヨークタイムズの基準に照らして考えてみましょう。」というのも乱暴な議論で、誤解を与えるものだ。


 まず、「考える会」は、「複数のジャーナリストと弁護士らが議論」しているという解説文を引いて、日本でも「“レイプ”(=強かん)は犯罪行為(刑法177条 強制性交罪)。」だから「ニューヨークタイムズの基準に照らして考えてみましょう。」と書く。しかし、このニューヨークタイムズの文章は、「レイプ」の代わりに「合意のない性的関係」を使ったことへの批判が相当届いたたためにそれへの応答として書かれたものである。そのため「レイプ」を使わなかった理由を縷縷説明したものだ。


 ニューヨークタイムズは、「キャンパスレイプ」など学生の事例で告訴されているケースでは「レイプ」表現を使ったが、裁判になっていない場合には、刑事事件という意味合いを帯びる表現ではあるものの、「性的暴行(sexual assault)」を最もよく使っているなど、性暴力をいかに表すかで苦慮していることを説明している。「合意のない性的関係」についても、性暴力の場合、「合意」の有無が重要だから、使っているものの、深刻な事例、暴力的な場合には、それよりも「性的暴行(sexual assault)」を使っているなどと状況次第で用語も変わることについて説明を加えている。だがそうしたことには触れず、ニューヨークタイムズが単に「合意のない性的関係」としてきたかのように「考える会」が書くのは、性暴力の矮小化であり、誤解を招くものだ。


 さらに、「考える会」は欧米の報道ガイドラインを礼賛するが、報道ガイドラインは刑事司法制度を基準にしている点で限界もある。ニューヨークタイムズも書いていることだが、国や州によって「レイプ」の定義が異なっているという問題もある。新聞が「レイプ」と報道しても、その意味内容が読者によって理解が異なるということになるからだ。


 

 さらに、単純に「欧米を基準に」というのが通用しない要素には、国により刑事司法制度が相当異なるという面もある。性犯罪の場合、被害の記憶を忘却しないと生き延びることができないほどダメージが大きい場合もあり、被害を認識するのに時間がかかることも多い。英国などでは、すでに性犯罪について公訴時効が撤廃されているが、日本ではいまだ短いままであり、その結果、深刻な性暴力であっても、刑事事件化しづらいという問題がある。広河氏の被害例でも時効という壁に阻まれているケースもあるのではないだろうか。


 このように「考える会」のニューヨークタイムズと週刊文春の比較は、単純すぎて、抜け落ちるものが多すぎる。報道スタイル等が異なること、報道ガイドラインと各国の刑事司法との関係、欧米と日本の刑事司法の違いなど、抜け落ちている部分にこそ考えるべき重要な点がある。これでは、「考える会」は、ただ単に広河氏の性暴力を報道した『週刊文春』の信ぴょう性を貶めようとして、「欧米」を持ち出しているだけだ、と言わざるを得ない。

2020年9月22日火曜日

「考える会」の性暴力報道のリテラシーとは(1)



今回は、「セクハラ報道と検証を考える会(以下、「考える会」と略す)」の「セクハラ報道」に関する議論を検討していきたい。

 「考える会」は、「日本における性被害をなくし、セクシャルハラスメント報道のリテラシーを考えていきたい」と設立にあたって述べる一方(「セクハラ報道と検証を考える会」設立の趣旨)、日本では海外とは異なり、性暴力を報じるための手引書などは存在せず、性暴力と報道に関する議論も起きていない(「増加する海外のセクシュアル・ハラスメント報道」)と、日本での性暴力と報道の議論が不活発であるとし、それに懸念を示す。

 さらに、「海外ではセクハラや性暴力の報道においては、使用される言葉が非常に重要とされています」などと海外の報道状況を評価する一方、日本の性暴力報道では「レイプ」を使うなど表現に問題があるとして、広河氏の性暴力を報道した週刊誌を批判している。

 そこで本稿では、「考える会」の主張する、以下の3点について順次、検討していく。

1)「考える会」が、日本では性暴力を報じるための手引書などは存在せず、性暴力と報道に関する議論も起きていないと主張している点について
2)「考える会」が『週刊文春』の「レイプ」表現を批判している点について
3)「考える会」が「セクハラ報道」と「セクハラ」を名称に掲げている点について

  まず、今回取り上げるのは、「考える会」が「日本では、セクシャルハラスメントや性暴力を報じるための特別な手引書のようなものはいまだ存在せず、そうした議論も起きていない。」と主張する点についてだ。「考える会」としては、「被害者たちを傷つけないためにも、また過度に煽る報道がなされないためにも、最低の規定は必要だ」と述べる(「増加する海外のセクシュアル・ハラスメント報道」)。要するに、性暴力やセクシャルハラスメントと報道についての議論はまだ起きてないという主張だ。

 しかし、そんなことはない。これまでフェミニズムはずっとマスメディアに対し、性暴力やセクシャルハラスメントなどの報道について、性差別という観点から抗議や議論をしたり、ガイドラインを提起してきている。そして報道も差別をしないという観点から「記者ハンドブック」や「用語の手引」などでフェミニズムの主張を取り入れている。「考える会」はそうした性暴力と報道をめぐる動きに疎いのではないか。

 以下では、日本の新聞報道において、「性暴力」関連の用語が報道でどのように扱われてきたか、そしてそれに対してフェミニズムという観点からどのような働きかけが行われてきたか、その経緯を紹介しておきたい。最後に、現在の「記者ハンドブック」や「用語の手引」での性暴力の扱いを確認しておく。

 長らく、マスメディアでは、性暴力については「(性的)いたずら」「乱暴」「婦女暴行」などと軽く大したことではないという意味を持たされた用語が使われ、問題の本質を曖昧にし、実態が矮小化されてきた歴史があった。しかし、日本でも1970 年前後にウーマンリブ運動が起き、メディア報道における性差別を問題にする流れが盛んになった。それ以降、さまざまな女性グループがメディアの性差別表現について抗議したり、TVや新聞、雑誌などにおける性差別について、問題提起を続けてきた。当時、女性運動と女性記者は性差別表現やガイドラインについて議論を積み重ねており、そうした成果も反映していると考えられる。

 例えば、1975年に生まれた「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」は、「マス・メディアの性差別を告発」することを大きな柱して取り組んできた。セクシャルハラスメントや性暴力の撤廃は、その中で、重要な課題であり続けた(「マス・メディアの性差別を告発」行動する会記録集編集委員会編『行動する女たちが拓いた道ーメキシコからニューヨークへ』(駒野陽子、未来社、1999年、p.20)。こうした流れの中で、1980年代に、「その暴力的人権侵害の本質を表現した」用語として「性暴力」が使われるようになった(宮淑子『性暴力 レイプ』(サンマーク出版、1984年)。すなわち、「性暴力」という言葉自体、「フェミニズムによる対抗言語」として生まれたものなのだ。

 「性暴力」をどう表現するかはメディアの性差別問題では、常に重要な懸案だった。マスメディアは、これまで「強姦(かん)」を「不快用語」として扱い、それゆえ「婦女暴行」「暴行」あるいは「乱暴」などと曖昧な表現に言い換えてきた。フェミニズムはそうした報道姿勢を問題にし、「強姦(かん)」罪に相当するのであれば、「強姦(かん)」と明記することを提案してきた。「不快用語」とするのは、もちろん筋違いである上、「暴行」と言い換えると、一般の暴力行為と紛らわしく、加害者の社会的責任を軽減し、犯罪や容疑の実態をあいまいにする。そのため、女性の性的・身体的自由を侵害し、心身を深く傷つける重大な人権侵害である「性暴力」の実態を捉えた表現にすべきだと、フェミニスト視点によるガイドラインを訴えてきた。『きっと変えられる性差別語ー私たちのガイドライン』(上野千鶴子・メディアの中の性差別を考える会編、三省堂、1995年)はそうしたガイドライン提案の一つだが、そこでは「いたずら」「婦女暴行」「乱暴」、「わいせつ」など性暴力を隠蔽する表現について、被害者が特定されないような十分な配慮をした上で、性暴力であることを明記した表現にするよう求めている。

 もちろん、マスメディアがすぐにフェミニズムの訴えにより人権を配慮した表現に変えたかというとそうではなかった。例えば、「メディアの中の性差別を考える会」が1991年に全国の新聞各社および、日本外国特派員協会所属の海外ジャーナリストに性差別表現について行ったアンケート調査では、「性犯罪報道において「いたずら」や「淫らな行為」という表現を使うことについてどう考えるか」という問もあった。その結果によれば、「『強姦』などの表現は読者に不快感を与えるので、好ましくない」という国内新聞社の回答が85%に達したという(「性差別的表現をめぐる新聞各社へのアンケート」メディアの中の性差別を考える会『メディアに描かれる女性像 新聞をめぐって』桂書房、1991年、pp.1790-195)。「被害者の人権に配慮して、30年前から『強姦』は使用されなくなった」と説明する社もあった。その一方、海外メディアの回答は、数は6名と少ないものの全員が、「いたずら」ではなく「強かん(レイプ)」とはっきり書くと答えていた。理由として「犯罪事実を明確にすることは、情報伝達の必須条件」「その他の表現をつかうことは偽善」などをあげており、海外と日本のメディアのギャップは大きかった。

 しかし、その後、日本でも性暴力に関して、刑法が110年ぶりのに改正されたり、報道の基準が変化したりしている。2017年には、性暴力犯罪について、従来「強姦罪」として被害者は女性で、性交のみを対象としてきたものを、被害者・加害者の性別を問わず、性交のみならず性交類似行為を含めることとし、名称も「強制性交等罪」に変わり、量刑も最低5年へと厳罰化した。この改正では、時効が短いことや、地位を利用して起こる性加害が入らないことなど残された課題も多く、2020年に見直すという付帯決議が付けられた。

 報道ガイドラインについても、共同通信社『記者ハンドブック13版』(2016年)では「被害者が特定される恐れがない場合に限り、罪名・容疑名は「強姦(ごうかん)」を使ってもよい」と被害者の人権を最大限に守った上で、加害の深刻さを示す「強姦(ごうかん)」を「容疑」としても使うことを認めた。同『記者ハンドブック』については、確認できた範囲では、少なくとも2002年度版以降は、言い換えとして「乱暴」も例には入れているものの、「女性暴行」「性的暴行」をあげるなど、単なる暴力ではなく、性暴力であることを明示する方向に進んでおり、刑法改正前の2016年度版では「強姦(ごうかん)」という罪名表記も認めている。それは、共同通信が、『記者ハンドブック』において、1990年代後半以降、「性別を理由にした社会的、制度的な差別につながらないよう注意する」などのように、「性差別」に留意するようになったことと連動した、被害者の人権への留意の結果と考えられる。

 『朝日新聞の用語の手引』(2019年)は、「ごうかん(強姦)」を「性的暴行」と言い換えるよう例示しつつ、「『強制性交罪』の旧称である『強姦罪』などは別」と注記している。これは「強姦」罪に相当するのであれば、「ごうかん(強姦)」などの罪名を明記することを認めるというものだ。共同通信社のように、「容疑名」であっても「強姦(ごうかん)」とすると踏み込んでいるところもある。ただし刑法上の罪名で使われていた「強姦」だが、「姦」という漢字が女性蔑視的だとフェミニズムからの批判があり、上述の朝日の『手引』でもそれを避けて「ごうかん」と提示されてきた経緯がある。このようにまだ問題があるとはいえ、「不快用語」として隠蔽していた時代からは一歩前進だ。

 すなわち、「考える会」がいう「日本では、セクシャルハラスメントや性暴力を報じるための特別な手引書のようなものはいまだ存在せず」という主張については、「手引書」の中で基準を示そうとしている。また、「考える会」は「そうした議論も起きていない。」と海外の報道ガイドラインのみを紹介するが、日本でも、70年代からフェミニズムが取り組んできた歴史を見落としている。議論があるにもかかわらず、報道側が取り入れるのが遅れているのは、日本のメディアが性差別や性暴力について遅れをとっていることの表れだ。いずれにしろ「考える会」の国内での「性暴力報道」についての主張は、事実とはだいぶズレていることだけは確かだ。

2020年8月2日日曜日

「セクハラ報道と検証を考える会」の「検証」なるものについて(3)

お断り:本記事が公開された後に「セクハラ報道と検証を考える会」のブログが移転(新ブログはこちら)しているのだが、以下で検証の対象とした記事「【検証・週刊文春】強要を否定の田村記者、記事では一転「抗えないまま」に: 田村記者の取材と記事の検証(1)」は移転されておらず現在閲覧することができなくなっている。

『週刊文春』2020年1月3日・10日号に掲載された田村栄治氏による記事(その電子版はこちら)について「セクハラ報道と検証を考える会」(以下「考える会」)が発表した「【検証・週刊文春】強要を否定の田村記者、記事では一転「抗えないまま」に: 田村記者の取材と記事の検証(1)」について、これまで2回にわたってとりあげてきた。

「セクハラ報道と検証を考える会」の「検証」なるものについて(1)
「セクハラ報道と検証を考える会」の「検証」なるものについて(2)

本稿では残った部分について検討したい。目次では次のようになっている項目である。
4人の女性のケース/田村氏「これもね、片方の話ですけども」
立場を利用したハラスメント行為のケース/裏取りの痕跡は記事になし
谷口真由美氏、事実を創作して広河氏を批判
※4人の女性のケース/田村氏「これもね、片方の話ですけども」
これは『週刊文春』の記事では「この3人のほか、12~17年にDAYSにかかわった女性4人からも、広河氏にセクハラを受けたという証言を得ている」としてまとめられている部分に関する批判である。広河氏からもごく簡単に話を聞いただけであり、女性たちの訴えについて「それ以外の裏とりをしていないよう」だ、とされている。
たしかに「裏とり」はできていないのかもしれない。しかし『週刊文春』の記事でもここは各女性の訴えの概略を箇条書きにしているだけの箇所である。しかも「という証言を得ている」とされているだけで、証言の評価には踏み込んでいない。

「考える会」はつづいて、記事の結び部分のやりとりをとりあげる。記事では田村氏の「女性たちは傷ついています」という追及に対して広河氏が「僕のせいじゃないでしょ」と答えたことになっている。「考える会」は「広河氏が被害者たちを突き放すように感じられる」と記事の記述を評したうえで、録音によれば「僕のせいじゃないでしょ」は被害者の一人が「今も通院している」と追及されたことに対する返答だ、と記事を批判する。
しかし被害者が「傷ついている」ことについて「僕のせいじゃないでしょ」と否認するのと、通院の原因について「僕のせいじゃないでしょ」と否認することの間に、いったいどんな違いがあるというのだろうか? 田村氏は「通院」の原因が「傷ついている」ことにあるという前提で取材しているのであるから(そして広河氏も田村氏のそうした認識は理解していることが伺える)、通院の原因が自分にはないと否認することは、すなわち「傷ついた」ことの責任が自分にはないという否認に他ならないはずである。


※立場を利用したハラスメント行為のケース/裏取りの痕跡は記事になし
この項で「考える会」が依拠しているのは、録音されたという次のようなやりとりである。
田村氏:当時編集長ですね。著名なジャーナリストであるという立場をある意味、 利用してですね、女性を...
広河:嫌がる人をそうしたらそうなるんですね......僕の仕事に対してあこがれてる人が、僕に近づいてくることもありますね。それとは違うと僕は思っていましたから。立場を利用してその人をどうにかしたという意識は僕にはまったくないですね。
この広河氏の返答が記事では「(女性たちは)僕に魅力を感じたり憧れたりしたのであって、僕は職を利用したつもりはない」とまとめられているのが不当だ、というのである。
このように、取材において、広河氏の発言は仕事にあこがれて近づいてくることと、女性と関係することは別であるという認識を述べています。しかし、週刊文春 の記事では、「僕の仕事にあこがれている」が、「僕に魅力を感じたり憧れたりした」に言い換えられています。
(https://note.com/scshm/n/n11474824b6e2)
たしかに表面的な文言だけを取り出せば「僕の仕事に」が「僕に」に変わってはいる。しかし広河氏は女性たちが「僕の仕事」に魅力を感じて近づいてくることとは「違う」と思っている、と語ったのである。女性たちが「僕の仕事」にあこがれているのを利用したのではないというのであれば、女性たちはなにゆえに広河氏と性的関係を持ったと広河氏は主張したかったのであろうか? 「僕に魅力を感じた」からだ−−女性たちは編集長としての自分の仕事にではなく自分自身に魅力を感じて近づいてきたのだから職権乱用ではない−−と主張しようとしている、というのは多くの人間にとってまず頭に浮かぶ自然な解釈であろう。もちろんこれが唯一可能な解釈だと言うつもりはない。しかし田村氏の解釈が適切でないというのなら、より蓋然性の高い解釈を「考える会」は提示すべきであろう。あるいは、「考える会」は広河氏に問い合わせを行って返答をもらえるような立場にあるわけだから、田村氏に「裏取り」を要求するだけでなく「考える会」として広河氏に真意を問いただせばよかったのではないだろうか。

※谷口真由美氏、事実を創作して広河氏を批判
「考える会」は最後に「こうした週刊誌報道を鵜呑みにして、広河氏への批判を展開した人たちのリテラシーの低さは見過ごせない」と主張し、その例として「メディアにおけるセクハラを考える会」の代表として谷口真由美・大阪国際大准教授が2018年12月26日に Facebook にポストした記事をあげている。
「事実を創作」というのは谷口氏のポストに「このように、人権派のフォトジャーナリストを標榜していた人が、身近にいる女性の存在、そして人権をあまりに軽んじてきたこと、「私に魅力があるから彼女たちがホテルまでついてきた」、それにより「同意があった」と主張するのは到底看過することができません」という一文があることを指している。「彼女たちがホテルまでついてきた」は「実際の録音記録にも、記事にも」ないから「谷口さんの創作」だ、というのである。しかし『週刊文春』の記事に基づいた広河氏の主張の要約として、「私に魅力があるから彼女たちがホテルまでついてきた」とすることが不当だとは思えない(「僕の仕事」と「僕」については前項を参照)。すると問題はせいぜい「 」の使用法でしかないということになる。たしかに「 」の主たる用法は引用であることを明示するというものである。厳密さが要求されるケースであれば、文字通りの引用ではない要約には別の記号を用いるという工夫をすることもあるだろう。しかしこれは SNS への投稿である。記事の内容と食い違うというならともかく要約としては妥当なのであるから、「事実を創作」という批判はまったくあたらない。
さらに「考える会」は谷口氏が「週刊誌報道をそのまま受けて批判しています」ともしている。しかし谷口氏のポストには「私たちの会では、告発した女性たちから、本件につき直接相談も受けており、告発内容が事実であると信じるに足る情報を得ています」とはっきり書かれているのである。これを「週刊誌報道をそのまま受けて」と評することこそ「事実を創作」という非難に値するのではないだろうか?

総括
3回にわたって「考える会」による告発記事(と記事への反響)に対する「検証」を検討してきたわけだが、いずれの主張も表面的な、些細な違いをまるで重大な齟齬であるかのように言い立てるものばかりであった。取材の録音という材料まで入手していながらこのように些末な主張しかできなかったという事実は、むしろ『週刊文春』の記事の信憑性を高めたといってよかろう。また「考える会」の論の運びのところどころに、“レイプ神話”やセクシズムと親和的な発想がみられることも明らかにできたと思われる。





2020年7月27日月曜日

「セクハラ報道と検証を考える会」の「検証」なるものについて(2)

お断り:本記事が公開された後に「セクハラ報道と検証を考える会」のブログが移転(新ブログはこちら)しているのだが、以下で検証の対象とした記事「【検証・週刊文春】強要を否定の田村記者、記事では一転「抗えないまま」に: 田村記者の取材と記事の検証(1)」は移転されておらず現在閲覧することができなくなっている。

前回に続き「セクハラ報道と検証を考える会」(以下「考える会」)の2020年3月8日付け記事「【検証・週刊文春】強要を否定の田村記者、記事では一転「抗えないまま」に: 田村記者の取材と記事の検証(1)」をとりあげ、その「検証」の内実を問いたい。今回扱うのは有料記事となる以下の部分である。
麻子さんのケース/田村氏「無理やりとは言っていないです」

智子さんのケース/田村氏「今回のお話では関係ないです」

智子さんのケース/田村氏「そのことは本人の口からは言っていませんでした」

『週刊文春』2020年1月3日・10日号に掲載された田村栄治氏による記事についてはこちらを参照していただきたい。

※麻子さんのケース/田村氏「無理やりとは言っていないです」

記事の記述が「麻子さんにNOという選択肢はなかった」となっているのに対し、取材中に田村氏が「そこは合意があったと僕は考えていいと思います」と発言していることが、「そのことと違う記事をなぜ書いた」のかと批判の対象となっている。
しかしこの田村氏の発言が広河氏の「望まない人間、そのまま嫌がる人間なんか、僕は連れて行きませんけど」(下線は引用者)という発言を受けたものであることを考えれば、この批判は当たらない。『週刊文春』の記事には次のような箇所がある。
 麻子さんによると、その夜、2人は新宿駅西口で落ち合ってタクシーに乗った。広河氏は「靖国通りに」「ここで曲がって」などと運転手に指示し、歌舞伎町のホテル街へと車を向かわせた。入口に噴水があるホテルに入り、麻子さんは広河氏とセックスをした。終えると、電車で帰宅したという。
「考える会」がとりあげているやりとりはこのうち「ホテルに入り」までの経緯についてである。田村氏が「そこ」と言っているのも同様である。記事でもホテルに着くまでに明示的な「ノー」の意思表示があったとは(そしてそれを広河氏が無視したとは)書かれていない。「考える会」が「ホテルにまでついていったのだから性行為についても同意していたのだ」を暗黙の前提としているのではないか、という疑惑が湧く。そのような前提を排するなら「そこは合意があったと僕は考えていいと思います」と(性行為について)「NOという選択肢はなかった」の間には矛盾は存在しないからである。
なお「考える会」が「望まない人間、そのまま嫌がる人間なんか、僕は連れて行きませんけど」として引用している広河氏の弁明については、『週刊文春』の記事でも、田村氏と広河氏のやりとりを抜粋した部分で(きちんと読めば麻子さんのケースであることがわかる文脈で)「望まない人間を僕は無理やりホテルに連れて行きません」というかたちで紹介されている、ということも申し添えておく。

※智子さんのケース/田村氏「今回のお話では関係ないです」

『週刊文春』の第1弾記事で「この2人の他にも、広河氏にヌード撮影をされたと証言する女性がいる」として3番目に登場する女性に関する「考える会」の主張は、録音によれば「ヌード撮影したのには合理的な理由」があったことがわかるのに田村氏はそれを記事に書かず、「あたかも広河氏がヌード撮影を強要したように印象付け」た、というものである(ただしその「合理的な理由」については「プライバシーにかかわるため公開しません」とされており、読者には伺い知れないものとなっている)。また取材中に田村氏はこの女性について「その方は、そのことはぼやかしています。その方は性被害については...」「その方は性被害、その方じゃない方で」と発言し、広河氏の「放射能汚染のときに、現地に連れて行って汚染の酷いところに入った、と。そのことで僕を訴えている人 なんですね、その人は。それは性被害とは関係ないんですね」という問いに対しても「はい。今回のお話では関係ないです」と答えた、とされている。
しかし『週刊文春』の記事を読めば、「途中で広河さんの鼻息が荒くなってきて、気持ち悪くなりました」という女性の記憶や「今夜は部屋を取ってあるから」という広河氏の誘いかけについての証言は記されているものの、このケースで広河氏がヌード撮影を“強要”したとは書かれていないことがわかる。この女性のケースは次のような主張を導くために紹介されているのである(下線は引用者)。
 こうしたヌード撮影は当事者間の合意があれば問題ないと考える人もいるかもしれない。しかし、「写真を職業とする者が立場を利用して私的に求めるのは、職業倫理にもとるセクハラ行為」という認識が、欧米などのメディアで活動する写真家たちの間では確立されている。
普通に読めば、このケースは先の2つのケースと同じような“強要”とは言えないかもしれないが、だからといって問題ないというわけではない……という扱いをされていることは明白だろう。智子さんも「どういうふうに撮られるのか興味もありました」と証言すると同時に「これからお世話になる師匠なので断りにくかったですし」とも語っており、広河氏の優越的な地位が影響していたことを伺わせる。また警戒区域での強引な撮影については(この女性に対する)ヌード撮影よりもはるかに多くの文字数を割いてとりあげられており、「性被害」よりも広河氏のパワハラ体質に力点をおいた記述になっている。その意味で田村氏の「はい。今回のお話では関係ないです」という発言と記事とに齟齬はない。

※智子さんのケース/田村氏「そのことは本人の口からは言っていませんでした」

これはデイズジャパン検証委員会「報告書」の次のような箇所に関係した主張である(94〜95ページ)。
(6) アシスタント女性からの抗議
ア 証言
〔中略。警戒区域での強引な撮影とそのことを『DAYS JAPAN』編集部に抗議した経緯についての証言が紹介されている。引用者〕
イ 広河氏の対応
 検証委員会が関係者に「広河氏のハラスメントについて何か聞いたことはないか」と尋ねたのに対し、限られた調査範囲の中であるにも関わらず 5 人もの人が「原発近くに連れていかれたとして女性から抗議を受けたという件は知っているが、それについては広河さんから後日、その女性から勘違いだったと謝罪されたと聞いている」と述べた。このことからすれば、広河氏は周囲に「あの時の女性からは後日謝罪を受けた」と何度も繰り返し話していたのだろうと思われる。
 この「謝罪」とはどういうことだったのか、当該女性にどのようなことだったのか確認したところ、以下の通りだった。その女性は広河氏によって、事前に約束もなかったのに放射線量が高い原発近くに連れていかれたことや、ヌード写真を撮影されることを断れなかったことなどを知人に相談していた。広河氏に抗議した後、相談を聞いた人から「聞かなかったことにしてほしい」「(この業界 で仕事をしたいなら)広河さんとの関係は修復したほうがいい」という趣旨のことを言われたことが あり、弱気になってしまっていた時期、偶然、デイズジャパン社の近くのカフェで広河氏と顔を合わせてしまう機会があった。その際女性は、動揺したこともあり、挨拶した上で、「福島でのことは別に、今後も仕事ではよろしくお願いします。先日は感情的になってしまいました」という趣旨のことを述べたことはあったが、原発近くに連れていかれたこと自体の抗議を撤回する趣旨では全くなかった。
 検証委員会は、女性からそのことを確認したことを広河氏に伝え、「女性は、あなたに抗議したことを勘違いだったと撤回したわけではないと言っているが」と伝えたが、広河氏は「私は謝罪と受け取った」と反論した。
「考える会」が録音から引用しているのは、この「謝罪」について田村氏が女性に「確かめ」たのかと広河氏が問うたところ田村氏が本人からは聞いていないと返答、さらに執拗に問いただす広河氏に対して田村氏が「それは、いまのお話は、性被害のお話しですか? 広河さん、その方の性被害は僕は今問題にしてないんですよ」と問い返すまでのやりとりである。「考える会」の意図は必ずしも明らかではないが、目次において田村氏の「そのことは本人の口からは言っていませんでした」という発言が強調されていることを踏まえると、女性の抗議に対して広河氏が編集長降板を約束したにもかかわらずその約束が反故にされた、という趣旨の記述が『週刊文春』の記事にあることを問題にしているのであろう。女性から「謝罪」があったのなら降板の約束も無効ではないか、というわけだ。
しかし田村氏から見れば、女性が自分の取材に対して編集部への抗議について話している以上、「謝罪」して抗議を撤回したという認識を持っていないことは、改めて問うまでもなく明らかなことであろう。「考える会」が引用したやりとりはむしろ、警戒区域でどのような取材を行ったかという事実よりも、自分に対する「謝罪」の有無にこだわる広河氏の姿勢について強い印象を残す。仕事のうえで強い影響力をもつ広河氏との関係の破綻を避けようとする若い女性の言葉を「謝罪」だと受け止める広河氏の姿を強調することは、広河氏が自身の優越的な立場にいかに無自覚であるかを示すことになりかねないと思われるのだが、「考える会」にはそのような認識が欠けているようである。


2020年7月21日火曜日

「セクハラ報道と検証を考える会」の「検証」なるものについて(1)

お断り:本記事が公開された後に「セクハラ報道と検証を考える会」のブログが移転(新ブログはこちら)しているのだが、以下で検証の対象とした記事「【検証・週刊文春】強要を否定の田村記者、記事では一転「抗えないまま」に: 田村記者の取材と記事の検証(1)」は移転されておらず現在閲覧することができなくなっている。

2020年の1月から note 上で活動を始めた「セクハラ報道と検証を考える会」(以下「考える会」)。会の名称からすると「セクハラ」報道一般に関する問題意識から発足しているようにみえるが、設立の趣意を記した記事ではデイズジャパン検証委員会の「報告書」を「検証」することが目的として掲げられ、現にその後2ヶ月半の間に公開された記事の大半は検証委員会「報告書」を批判するものとなっている。事実上広河隆一氏を擁護することを目的として活動してきた、と言っても過言ではないだろう。
本稿では「報告書」批判ではない数少ない記事の一つである「【検証・週刊文春】強要を否定の田村記者、記事では一転「抗えないまま」に: 田村記者の取材と記事の検証(1)」をとりあげ、「考える会」の「検証」の内実を検証してみたい。なお、2020年3月8日に「(1)」が公開された後、本稿執筆時点まで「(2)」以降は公開されていない。

この記事で「検証」の対象となっているのは『週刊文春』2020年1月3日・10日号に掲載された田村栄治氏による記事(その電子版はこちら)である。「考える会」が「関係者」から入手したという田村氏と広河氏のやりとりの録音が参照されており、その録音の一部はこちらで公開されている。記事の目次は以下の通りである。
杏子さんのケース:田村氏「強要とは言っていません」

杏子さんのケース:田村氏「無理やり撮ったとは言っていない」

麻子さんのケース/田村氏「無理やりとは言っていないです」

智子さんのケース/田村氏「今回のお話では関係ないです」

智子さんのケース/田村氏「そのことは本人の口からは言っていませんでした」

4人の女性のケース/田村氏「これもね、片方の話ですけども」

立場を利用したハラスメント行為のケース/裏取りの痕跡は記事になし

谷口真由美氏、事実を創作して広河氏を批判


「杏子さんのケース:田村氏「強要とは言っていません」
」で問題とされているのは、録音された次のようなやりとりである(強調は原文)。
田村:(ホテルの)部屋に行ったら、その場で、入ったらすぐのように関係を持たされた、と。
広河:強要したんですか?
田村:いや強要とは言っていません。まぁ、本人は、断る間もなく、という言い方をしてますけども。そこは、広河さんそういうことは…
広河:断る間もなく、そういうことをするってあり得ないですよ。
田村:そうですか。まぁ、それは本人がおっしゃっていたことなんですけど。
これに対して『週刊文春』記事では「あっという間にベッドに移動させられ、抗えないままセックスが終わった」となっており、内容が「符合」しないというのだ。
しかしこれは明らかに言いがかりというものであろう。仮に広河氏の「強要したんですか?」という問いに対して田村氏が「そうですね」などと答えていたら「考える会」はどうコメントしただろうか? 「田村氏は予断をもって取材していた」と批判するのではないだろうか? 一方の当事者である広河氏に取材するにあたって、もう一方の当事者である杏子さんの主張に対する取材者の最終的な判断を留保しておくことは当然である。この時点で田村氏が「強要したとは言ってません」と発言し、取材の結果記事を執筆する際に「強要があった」と(執筆者および編集部の責任において)判断しそう書いたとしても、そのことだけで不誠実と謗られるいわれはあるまい。まして田村氏は「強要した」という書き方は避け、あくまで杏子さんの認識として「抗えないまま」と書いているのである。


「杏子さんのケース:田村氏「無理やり撮ったとは言っていない」
」の場合も同様である。杏子さんら複数の被害者から“裸の写真を撮られた”という訴えがあることについて、録音では広河氏の「嫌がっているのを、僕が無理やり撮ったということですか?」という問いに対して田村氏が「そうは言っていないですけど」と答えていることをとりあげ、記事中で「とくに断りもなく何枚か撮られた」という杏子さんの証言を引用していることが問題視されている。しかし『週刊文春』の記事は広河氏に取材した時点での田村氏の心証を記しているのではなく、広河氏への取材を終えたうえでの田村氏の心証に基づいて書かれているのであるから、両者が「符合しない」というのは無意味な主張であろう。

さらに田村氏は裸の写真を撮った理由を執拗に尋ねたとし、つぎのようなやりとりを紹介している。
田村氏:なぜ裸じゃなければ駄目なんですか?
広河:裸じゃなきゃダメだなんて僕は言っていません。これ以上その質問に対しては腹が立ってきます。……あなたの中で女性の裸に興味がまったくないんだったら別ですが。
「考える会」としては広河氏を擁護する目的で紹介したのであろうこのやりとりから、性暴力に関する広河氏の認識の甘さを読み取ることができると当会は考える。写真であれ映画や絵画や彫刻であれ、人間の裸をモチーフとすることはモデルにとって侵襲的たりうる手法であって、「裸」であることの必然性や制作プロセスの適正さが問われることはいまや常識と言ってよい。2018年には写真家・荒木経惟氏のモデルをつとめていた女性がネットで荒木氏によるハラスメントを告発していることを広河氏と「考える会」は知らなかったのだろうか? 
また、「女性の裸に興味がまったくないんだったら別ですが」という広河氏の発言は田村氏の“劣情”に訴えかけて自己弁護する目論見なのだろうが、広河氏がヘテロセクシズムを、そして「女の裸に興味を持ってこそ男」という男性観を自明の前提としていることが露呈してしまっている。


「田村記者の取材と記事の検証」のこれ以降の部分は有料となっているので、また稿を改めてとりあげることにしたい。