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2023年11月25日土曜日

ドキュメンタリー監督土井敏邦氏による広河隆一氏への「公開書簡」は、さらなるセカンドレイプを誘発した

ドキュメンタリー映画監督の土井敏邦氏が、広河隆一氏への「公開書簡」を出しました。




土井敏邦氏のブログ

フェースブックでは公開設定で〈広河隆一氏への公開書簡〉

https://www.facebook.com/toshikuni.doi/posts/10231586633784778?locale=ja_JP

(この記事をアップする直前に私は土井氏のFBからブロックされました)

X(旧ツイッター)ではここです。

ブログではここです。http://doi-toshikuni.net/j/column/20231124.html 

土井氏は、『週刊文春』で広河隆一氏の性暴力告発記事が出た直後、2019年1月12日付けで「『ジャーナリスト・広河隆一』私論」と題する文章を発表しました。その文の中では、広河氏の性暴力を認め、失望しながらもその業績と自分との関係を細かく記述した上で、「ただ『紙の一部が黒いから、紙全体が黒』とする空気はどうしても納得できないのだ」と言い、

かつてジャーナリスト・広河隆一氏の仕事を仰ぎ見、目標としてきた後輩ジャーナリストとして、この「性暴力」事件で広河氏の全人格と、これまでのジャーナリストとしての、また社会活動家としての広河氏の実績が全否定されようとする動きに、私は抗(あらが)う。たとえどんな非難を浴びようともだ。

と宣言しました。そのことで土井氏は、広河氏を擁護していると多くの批判を浴びましたが、「どんな非難を浴びようとも抗う」と言っていたわりにその後全く「抗う」気配はありませんでした。それが約5年経って「本格復活」したとでもいいましょうか、①「なぜ今、広河氏の公開書簡なのか」②「広河氏への提言」③「広河隆一氏への私信」(2019年12月23日付)④「【「デイズジャパン検証委員会・報告書」を読んで】」(2020年1月9日付)と連続して一挙掲載しています(①~④と番号をつけたのは本ブログです)。③と④は過去の文書、①と②は現在の文書ということになります。

③の、2019年12月23日付の広河氏への「私信」は、「文春」報道一年後のもので、

  • 19年8月時点で、広河氏は土井氏へのメールで、自分が行なったことを「あれは恋愛だった」と言っていた。
  • 広河氏は土井氏に、ある弁護士の「性暴力」に言及しながら「過剰なMe TOO運動の生贄にされている」と主張していた。

など、広河氏は随所で主張しているような性暴力の否定と自己の被害者化を、土井氏に対してもやっていたようです。

この私信の内容は、被害者の「傷の痛み」に向き合いなさいと広河氏に強く訴えながらも、同時に「広河氏の業績は否定されてはいけない」という主張を繰り返し、「正義を説くジャーナリスㇳって所詮、実態はこんな連中なんだ!」という「空気」にたいして「いや違う!」ということを「自分の仕事と生き方を通して、社会に示し続ける」と訴えています。

この私信の中で土井氏は、語るに落ちるというのか、「正義のジャーナリスト」についた汚名は違うということを自分の「仕事と生き方を通して」示すと言っています。土井氏は、「仕事」と「生き方」が不可分であることを実は知っているのでしょう。それなのに、眼前で広河氏が、性暴力を否定するという、人間の「生き方」にあるまじき姿勢を示しているのに、広河氏の「業績を全否定せず死守する」という姿勢を変えないのです。

これは自己矛盾ではないでしょうか。その矛盾は土井氏の文章から察する限り、長年にわたる土井氏の広河氏への個人的尊敬と愛着といった私情から来ているものではないでしょうか。「正義ジャーナリストの名誉を汚さないでくれ!」というご自分の名誉にかけたこだわりとも受け取れます。

これらはどれも、「被害者目線」からかけ離れたものです。性暴力被害者は、「加害者の仕事をどこまで否定してどこから肯定するのか」といった次元で物事を感じ考えることはないでしょう。その男が目の前に現れたら、もしくはそれを想像するだけで全身の毛が逆立ちフラッシュバックが起こるでしょう。ましてや自らの性暴力を否定している加害者の「業績」の話ばかりする人間からは「セカンドレイプ」を感じるだけでしょう。

ちなみにこの「私信」の中で土井氏は、ジャーナリスト伊藤詩織さんが受けた性被害について語っていますが、被害者の伊藤さんをフルネームで言及しながら、当時から加害者として名前が知れ渡っていた、事件時は伊藤さんよりずっと有名な権力者であった山口敬之氏のことを「山口某」といって名前を隠しています。ここからも、土井氏が無意識に、被害者よりも加害者を守ろうとする傾向があるのではないかと勘ぐってしまいます。

④の、【「デイズジャパン検証委員会・報告書」を読んで】では、2019年1月の「私論」に来た数々の批判を「バッシング」と言い切って自己被害者化しています。検証委員会報告書を読み、広河氏の性暴力の悪質さに驚きながらも受け入れているようですが、「人格と実績を全否定する動きに同意できない」という考えは「揺らいでいない」と言っています。

現在の考えを語っている①の部分でも、

繰り返すが、私が「擁護」しているのは「広河氏の過去の仕事」であって、「広河氏の性暴力」ではない。

と言っています。と同時に、

最初のコラムで私が反省すべき点は、広河さんのジャーナリストとしての「実績」の抹殺に「抗おう」とするあまり、被害者の女性たちの“痛み”に思いを馳せられなかったことです。そのことは私が深く反省しなければならないことです。

とも言っています。

私(乗松聡子)は土井さんのフェースブックにこう書き込みました。

読んで「ホモソーシャル」という言葉がどんぴしゃだと思いながらコメント欄にいったらすでに別の方が書いてましたね。土井さんは最初から最後まで「自分」にとっての広河、「自分」の被害者化、「自分」と広河の関係の話しかしていません。被害者にとってあなたにとっての素晴らしい広河像と広河がやったことをどう落とし前をつけるかなんてどーでもいいことです。あなた以外は誰も関心ありませんよ。『私が反省すべき点は、広河さんのジャーナリストとしての「実績」の抹殺に「抗おう」とするあまり、被害者の女性たちの“痛み”に思いを馳せられなかったことです。そのことは私が深く反省しなければならないことです。』と本当に思っているのなら、その反省にもとづいた何か当時とは違う姿勢を見せるのかと思ったらゼロですよね。いまだに全否定はいけないとか言ってる。人権活動の中で女性を踏みにじることがどうしてできたのかなんて簡単ですよ。広河の「人権」の中に女性の人権が入ってなかった、それだけです。選択的人権活動家だったわけです。シオニストの、イスラエル人に人権はあるがパレスチナ人の人権などどうでもいいと一緒で。男には人権があるが女の人権などどうでもいい。外で人権や平和をやりながら家では妻を殴っている。そんなの左派の男には、はいて捨てるほどいますよ。それらの男たちを「業績は別だ」って言う人は、その人たちも選択的人権活動家、つまり人権蹂躙者だっていうことです。人権を踏みにじりながら業績をきずいた広河の人権活動を否定しないなら、同様に人権を踏みにじりながら業績をきずいたジャニー喜多川も否定しないんでしょうか?もう一度ご自分の文を、被害者の立場で読み直してみてください。被害者がこれを読んだらどう思うと思いますか?人の想像力を問題視するのならまずはご自分の想像力を磨いてくださいね。「広河隆一の擁護者」と言われたくないのならまずは広河と自分のことばかり考えるのをやめ、広河に人生を壊された被害者たちの立場に立ってみたらどうでしょうか?

「二次加害」についてよくまとまっているこのサイトにもリンクをはりました。

サバイバーを踏みにじる「二次加害」の暴力

特に土井氏にはこの項目を読んで欲しいです。

  • ■加害者の功績を持ちだして、加害行為を矮小化する
  • ■公に加害者を応援する、励ます
土井さんの文①を読めば、いまなぜ広河氏に「公開書簡」を書くかの理由として一つに、「広河さんのイスラエルからの報告をFBで散見したこと」、またもう一つに、最近パレスチナ、ガザについて土井氏の仕事が多く露出しているが、5年前「広河氏擁護」と批判されたブログをそのままにしていいのかとの声があると、尊敬するジャーナリストから言われたからと言っています。

要するに、いまガザの出来事をうけて、広河氏の性暴力事件についての自分の考えが自分の現在の仕事に悪影響を及ぼしては困るから、というのが今回の「公開書簡」の主要な動機であることがわかります。

私は土井さんのFBにこうも書き込みました
単純に言えば誰のために書いているのかということです。土井さんのは自分のためにしか見えないです。被害者ではなく。
が、まさしく土井氏は自分の仕事に支障があると困るから5年間放置して全く「抗う」こともしてこなかった問題を掘り起こして名誉挽回をはかったということなのでしょう。

土井さんに問いたいのです。あなたはどこを見ているのですかと。5年前は「被害者の痛みに思いを馳せなかった」と反省しているのなら、その反省に基づいた言動をしてください。

広河氏は「公開書簡」について11月24日こう返答しました。
広河氏が反省するどころか自分の性暴力を発信した媒体を訴えているという事実がまた被害者の眼前で確認されることになってしまいました。土井さんの「公開書簡」がセカンドレイプなだけではなく広河氏からのさらなるセカンドレイプを誘発したのです。


これが私から土井さんへの「提言」です。

乗松聡子

2023年3月24日金曜日

速報:広河隆一氏が文春を訴えた

 広河隆一氏は昨年12月初頭からぱたりとFacebookやTwitterでの発信をやめていたので何かが起こるとの予感があったが、3月23日、TwitterとFacebookで、株式会社文藝春秋を名誉毀損で訴えたとの報告があった。以下は氏のTwitter。Facebookでも同じ内容の報告をしている。

さる3月14日には、性犯罪の実態に合わせた刑法の改正案などが閣議決定された。「強制性交罪」を「不同意性交罪」に、「強制わいせつ罪」は「不同意わいせつ罪」に変更し、従来は「暴行や脅迫」を用いたことが構成要件になっていたが、そのような「暴行や脅迫」の要件が見直され、構成用件として、1)暴行又は脅迫を用いる 2)心身に障害を生じさせる 3)アルコール又は薬物を摂取させる 4)睡眠その他の意識が明瞭でない状態にする 5)拒絶するいとまを与えない 6)予想と異なる事態に直面させて恐怖させ、又は驚愕させる、いわゆる「フリーズ」状態、7)虐待に起因する心理的反応を生じさせる 8)経済的又は社会的関係上の地位に基づく影響力によって受ける不利益を憂慮させる の8項目が加わった。その他、時効の延長、性行為の同意ができるとされる年齢を13歳以上から16歳以上に引き上げる、性的行為を目的に子どもを手懐ける「グルーミング」にあらたな罪を設けるなどの刑法改正が、政府は今国会で成立を目指すという。(参考:NHKハフポストなどの報道)

広河隆一氏の性暴力の場合は、フォトジャーナリストを目指す等の目的で氏の事務所で働いたり、ボランティアをしたりしていた若い女性たちが被害に遭っており、明らかに氏の経済的、社会的関係上の地位を利用した性暴力であった。日本でも刑法の規定が変わり、「同意なき性」が性犯罪であるという当たり前のことがやっと認められるようになるという矢先に、広河隆一から、自身の性暴力を告発した媒体に対して訴訟を起こすという行為は、社会の動きに完全に逆行しているとしか思えない。

当の広河氏は、「この数年間、社会的なバッシングを浴び続けてきました」と言っている。自分が性暴力の加害者であることを認めていないことで受けてきた批判を「バッシング」としてしか受け止められず、自分を完全に被害者化している。そこには氏の性暴力の被害者への配慮などは片鱗も感じられず、これから裁判が進行するにおいて、被害者たちがあらゆる形でセカンドレイプ(二次加害)を受ける可能性も全く考慮していないようだ。

わたしたち「忘れない会」は、この裁判を注視し、情報を収集し、このブログ上で随時報告していくつもりだ。



2022年7月3日日曜日

広河隆一氏が否定し続ける「性暴力」問題と『広辞苑』のつまみ食い

広河隆一氏が7月5日から、沖縄の那覇市民ギャラリーで「私のウクライナ――惨禍の人々」と題する写真展を開催する予定であることがわかり、『沖縄タイムス』や『琉球新報』が批判的に報道した。その後、抗議が殺到し、写真展は中止になったというが、報道では、広河氏が「性暴力」を行ったかどうかについて、新聞社と広河氏の理解とに齟齬が見られた。

 『沖縄タイムス』(6/30)では、広河氏の性暴力やセクハラについて「性暴力が判明している人物」、「性暴力を重ねてきたことがわかっている人物」などと広河氏がしたことを「性暴力」と認定している。また『琉球新報』(6/30)でも、「性暴力を受けたというデイズジャパンの元アルバイト、アシスタントらの証言が報道され」、「(検証委員会の)報告書は深刻な性被害やセクシュアル・ハラスメント、パワハラが多数あったことを認定した」と、報道や検証委員会に依拠した上で、広河氏の行為を「性暴力」とする報道をしている。  


 しかし、広河氏本人は、一連の問題について、「自身の見解を3月にネット上で掲載したと説明」した上、「自分の中では結論に至っていない」(『琉球新報』6/30)と、一貫して自分のしたことが「性暴力」であるとは認めていないのだ。 さらに沖縄タイムスの阿部岳編集委員の6月29日付けツイートによれば、

「広河隆一氏は私の取材に対し、加害への謝罪どころか、『何をもって性暴力というのか』などと事実関係を争う姿勢に終始した。」という。そして同編集委員は「まさか、性暴力の事実全体を否認しているのか」と何度も確認したところ、広河氏は『定義による』『該当しない人はいない』などと、ごまかし続けた。」という。

この発言から見る限り、広河氏は自身の「性暴力」を否認しているようだ。自分のしたことを「性暴力」だと認めていないのであれば、やったことの反省もしていないということになり、問題の解決にはほど遠い。

阿部氏によれば、広河氏はさらに「仕事と性暴力事件を切り分けることも希望した。」という。

広河氏の性暴力は仕事上の関係者との間で起きているのだから、切り分けろというのは無理というものだ。また、「仕事」が「写真展」を指すとしたら、広河氏が自らの性暴力を認めず、反省もしていない以上、そうした人物の「写真展」を行うことに反対する人や組織が出るのは当然のことだ。そして、この写真展は中止されることになった。 


広河氏の性暴力やセクシュアル・ハラスメント、パワーハラスメントについては、被害を受けたと複数の女性が名乗り出ており、設立された検証委員会で、それらが性暴力だったと認定されている。それにもかかわらず広河氏はネット上に掲載した「手記」で、「性暴力」を否定した上で詭弁に満ちた言い訳を展開している。


 広河氏の「手記」での「性暴力」に関する記述の特徴のひとつは、自らの行為が「性暴力」ではなかったと正当化するために、『広辞苑』の「暴力」や「性暴力」の語釈を利用していることだ。冒頭で、以下の説明がされている。 

読者と用語の概念を共有する一助とするために、ここに広辞苑(岩波書店)の最新版である第7版(2018年1月12日発行)に書いてある説明をいくつか表記しておく。これは広辞苑が最も信頼できるという意味で用いているのではないが、あくまで私がどのような意味付けでこれらの言葉を用いているかということの参照のためである。  なぜならこれらの言葉を巡る環境がいま大きく変化しており、様々な解釈が表れていて、用語の統一がなければ意味がかみ合わないことがあるからだ。広辞苑による解説は専門家や活動家にとっては古い解釈とみなされることがあるかもしれないが、これを読まれる大多数の人々の解釈と理解を判断するには助けとなるのではないかと思えた。 ぼうりょく〔暴力〕 = 乱暴な力。無法な力。なぐる・けるなど、相手の身体に害をおよぼすような不当な力や行為。 せいぼうりょく〔性暴力〕 = 主に女性や幼児に対する強姦や性的ないたずら、セクシャル・ハラスメントなどの暴力的行為。 レイプ = 強姦 強姦 = 暴行・脅迫の手段を用い、または心神喪失・抗拒不能を利用して女子を姦淫すること。無理やり女性と交わること。  (二次加害、セカンドレイプも紹介されているが、割愛した) 


広河氏は、『手記』で「身体的暴力」を行使していないという点を強調し、結果的に「性暴力」も行使していないと詭弁を弄する。しかし「性暴力」は必ずしも「身体的暴力」の行使を伴うものではないことは周知の事実である。 広河氏は、『週刊文春』が「レイプをおこなった」「性暴力をふるった」と書いたのは、読者に「悪質なイメージ」を抱かせるための誇張であったと主張し、その根拠として『広辞苑』を持ち出した。

『広辞苑』では「レイプ」や「強姦」は「暴行・脅迫の手段を用い」る、あるいは「無理やり」性行為をすることだと定義している。広河氏は、そうした解釈をご都合主義的に持ち出し、自分はレイプと書かれたから、「身体的・物理的暴力による性交をおこなった」と受け止められるはずで、それは『週刊文春』が部数を伸ばすために誇張した結果なのだと、自分のしたことを棚に上げて、次のように『広辞苑』と『週刊文春』を手前勝手に我田引水している。

 広辞苑第7版(2018年刊)では、レイプと引けば強姦と書かれ、強姦を引けば「暴行・脅迫の手段を用い、または心神喪失・抗拒不能を利用して女性をおかすこと。無理やり女性と交わること。強淫。婦女暴行」と書かれ、身体的暴力の意味合いが非常に強い言葉だということが分かる。 週刊文春の読者の大多数である一般の人にとっては、私が「性暴力をふるった」と書かれれば、それは私が女性に身体的な暴力をふるったと理解される。「レイプをおこなった」と書かれれば、「身体的・物理的暴力による性交をおこなった」とほとんどの人が受け止める。


 広河氏は、これまでも自分は「強姦」や「レイプ」をしていない、「性的関係には合意があった」「恋愛だと思っていた」などと強弁している。つまり広河氏は、自分がしたことは「性暴力」ではないと否認するために「レイプ」や「性暴力」=「身体的暴力」という解釈を可能にするかのような『広辞苑』に飛びついたのだろう。 「性暴力」を「主に女性や幼児に対する強姦や性的ないたずら、セクシャル・ハラスメントなどの暴力的行為。」とする『広辞苑』の語釈だと、「女性や幼児への強姦や性的ないたずら」という表現で、女性に対し男性が一方的に性行為を強要する性犯罪のイメージが連想され、文末でも「暴力的」が強調されていることから、広河氏からすると好都合と受け止めたのかもしれない。 


『広辞苑』の語釈が、一見してわかる古い解釈であることも事実だが、広河氏はこれを「古い解釈」とみなすのは「専門家や活動家」だけであって「大多数の人々」はそうは思っていないと考えているようだ。 しかし「本人が望まなかった性的なできごとは、すべて性暴力」という上にあげた定義は、本当に、一部専門家のみが用いる用語だろうか。いや、そうではない。性に関する認識や政策が古く、後手後手に回ることが多い日本政府すら認めている定義である。日本政府の「性犯罪・性暴力とは」の説明は、以下の通りだ。 

いつ、どこで、だれと、どのような性的な関係を持つかは、あなたが決めることができます。望まない性的な行為は、性的な暴力にあたります。(内閣府・男女共同参画局) 


2001年に制定された「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律(いわゆるDV防止法)」では配偶者や恋人など親しい間柄にある相手からの「暴力」とは「身体に対する不法な攻撃であって生命又は身体に危害を及ぼすもの」「又はこれに準ずる心身に有害な影響を及ぼす言動」と定義されている。「暴力」は、決して殴る・けるなどの身体的暴力だけではないのだ。 さらに、内閣府による親密な関係における「暴力」に関する調査では、身体的暴力以外にも、心理的攻撃・経済的圧迫・性的強要などを「暴力」に含めて「暴力」の有無を調べている。どうみても、『広辞苑』が時代遅れだということになる。


 その一方広河氏は、『広辞苑』を正しく活用しているわけではなく、『広辞苑』の中で自分にとって都合のよい語彙だけをつまみ食いしているのだ。例えば、性暴力が身体的な暴力だという主張をしているが、『広辞苑』の性暴力の中には「セクシャル・ハラスメント」が含まれる。そこで「セクシャル・ハラスメント」の語釈を見てみると、「性にかかわって人間性を傷つけること。職場や学校などで、相手の意に反して、とくに女性を不快・苦痛な状態に追い込む性的なことばや行為。性的いやがらせ。セクハラ。」とある。つまり、「人間性を傷つける」や「不快・苦痛な状態に追い込む」は、決して「身体的暴力」に留まらない。むしろ、「精神的暴力」など精神面に影響をあたえる行為だと『広辞苑』は解釈しているのだ。


したがって、『広辞苑』の解釈をそのまま活用するなら、セクシャル・ハラスメントを含む「性暴力」が「身体的暴力」に限定されるとは言えなくなる。 しかし広河氏は、そうした都合の悪い用語や解釈は見なかったことにし、あくまで「性暴力」を「身体的暴力」であると強弁しているのだ。『広辞苑』に依拠しているから「大多数の人々の解釈」だと言い張っているが、実際は『広辞苑』の中からご都合主義的にピックアップして『広辞苑』の権威を悪用しているのだ。 


その一方で『広辞苑』を刊行する岩波書店には、性暴力の加害者に言い逃れの余地を残すような時代遅れの定義を見直すよう求めたい。『広辞苑』が性をめぐる実情や差別に疎い傾向があることは、第7版発行直後にLGBTの定義が間違っていたことが発覚したことからも伺える。その際は、修正を検討するということだったが、LGBTのみならず、「性暴力」のみならず、「強姦」「和姦」「性犯罪」など性に関わる関連語でも、強固な性別二元論及び、偏ったジェンダー観・セクシュアリティ観に基づいた誤った解釈がなされているように思われる。性暴力や、ジェンダーやセクシュアリティに関して、時代に立ち遅れた語釈問題は、早急に抜本的な見直しに着手する必要がある。 


『広辞苑』に問題はあってもそれで広河氏の行為の正当化が許されるわけではないことは明白だ。広河氏は自分の権力を乱用して自分のところに憧れて来た若いフォトジャーナリストの女性たちがNOとは言えない状況を作って性行為に及んだ、つまり職場での優越的立場を利用して若い女性たちの意に反する性行為を強要したのである。これが性暴力であることに疑問を差し挟む余地は微塵もない。広河氏は事前に『広辞苑』を見て、大丈夫だと思ってそれらの行為を行ったはずはなく、性暴力を行ったということを認めたくないからそれを否定するために使えそうな材料として後付けで『広辞苑』を動員したに過ぎない。『広辞苑』を悪用した広河氏の「性暴力」の解釈は、どんなことをしてでも自分の性暴力を認めないという広河氏の姿勢を顕わにしたものといえる。 


広河氏は、沖縄での写真展のために「フォトジャーナリズムに興味ある方、写真が好きな方、学生(18歳以上)歓迎します。最終日は懇親会、意見交換など行いたいと思います。」と懲りもせずに、ボランティアの募集をかけていたようだ。しかしこれまで広河氏による性暴力などの被害を受けた人たちは「フォトジャーナリズムに興味がある方」や、「写真が好きな方」たちだった。「性暴力」を誤魔化して言い逃れをするなど姑息な手段はもはや通用しない。広河氏は、まずこれまでの被害者にきちんと謝罪し、問題の解決を図るべきだ。その上で、これまで繰り返してきた性暴力やセクハラ、パワハラをもう二度と起こさないようにするのが 人としての誠実な対応だと思う。

2022年6月3日金曜日

広河隆一氏がnote弁明文で、木村嘉代子氏が広河氏擁護ブログで、それぞれ裏付けもなく『文春』取材で金銭授受があったかのように記述。記者と元社員3人は否定。

2022年3月8日、広河隆一氏は、自らの性暴力を認めることもしないまま、前文と8章で構成されている長文を「note」に発表した。女性の人権をこれだけ侵害した人間が、よくも「国際女性デー」に当てつけるかのごとくの投稿をしたと思う。自分の性暴力の禊を目的とした投稿で被害者の傷に塩を塗る行為ではないかと思うと同時に、アンチフェミニズム的な挑発にも見える。 

また、広河氏はnoteプロフィール写真に子どもの写真を使っているが、無垢な幼い子の写真で汚れた自分のイメージを洗浄しようとでもいうのだろうか。広河氏はこの被写体に許可を取っているのか。報道写真では被写体すべてに許可を取れないときもあるだろうが、これはよりによってプロフィール写真であり、広河氏は自分自身を代表する画像としてこの写真を使っているのだから報道写真の場合とは事情が違う。 

広河氏が書く性暴力についての弁明文のプロフィール写真に自らの顔写真を使うことを進んで許可する人などこの世にいるのだろうか。この被写体には人格と権利がある。広河氏は、自分のイメージ洗浄のために幼い子の顔を消費することからして、今でもやはりpredator-数々の性暴力やパワハラを行ったときと同様、自分より弱い相手を獲って喰う捕食者であることに変わりはないのではないか。 

この長文の内容は全体的に、加害者である自己の被害者化、『週刊文春』の記事とデイズジャパンの「検証報告書」が信用できるものではないという印象を作り出そうとしている文である。広河氏の被害者にとっては二次加害どころではない、とても耐えられない文章であろう。いろいろ批判すべき点はあるが、今回は一点のみ最終章の重大な問題を取り上げたい。 

最終章「欠けたピース」の中で、広河氏は、YouTube に公開された対談番組(2021年3月1日ライブ配信とある)で、DAYS JAPAN の最後の編集長であったジョー横溝氏が「デイズ社の社員が会社情報を週刊文春の田村記者にリークして収入を得ていた可能性について、重要な証言をしている」と書いている。この番組で横溝氏はその情報をデイズ社の顧問弁護士であった馬奈木厳太郎弁護士から得たと言っている。 

広河氏にとって2018年のデイズ社内でのいろいろな動きに不可解なところがあるということでそれを「欠けたピース」と呼んでいたが、対談番組で横溝氏が聞き伝えで言っていることについて、 

「つまり欠けていたピースには、創刊以来およそ15年間『DAYS JAPAN』で校正を中心に働いていた『週刊文春』の田村記者が、私のスキャンダル情報を集めるためにデイズ社の社員に金銭を支払って、社内情報提供を依頼していたということを証明するものだった。」 

と、「証明」とまで言い切ってしまっている。横溝氏も「可能性」としか言っていないのに、である。それも広河氏は、「横溝編集長と馬奈木弁護士は良好な関係にあったことから、このユーチューブでの横溝氏の証言は正しいと考えて間違いないだろう」と、裏付けでもなんでもない「良好な関係」を、あたかも根拠であるかのように語っているのである。 

最後には、「直接関係があるわけではないが」と言いながら、元『文藝春秋』と『週刊文春』の編集長を務めた木俣正剛氏が自著において、週刊誌への情報提供に対し「一銭も支払っていない」と強調している部分を引用してこの長文が終わっている。 

要するに、広河氏はこの8章の長文の最後に、自分の加害行為についての話題から完全に離れ、『週刊文春』で自分の人権侵害を告発した田村記者が、週刊誌の慣行に背いて金銭でDAYS JAPANの社員から情報を買っていたと、読者に印象づけて終えているのである。 

田村氏と4月に会話する機会があった。その際にこの部分について話題になったが、田村氏は、「情報をお金で買うようなことは一切しておらず事実無根」と言っていた。広河氏が8章で触れているDAYS JAPAN 元社員のKLI各氏(広河氏が文中で使ったアルファベット通り)にも聞いてみたところ、自分たちが田村氏から金銭を得て情報提供していたという事実は一切ないし、他の人についてもそういうことは聞いていないと言っていた。 

広河氏が、金銭授受という重大な問題について、伝聞だけで「証明だ」と騒ぎ立てることはジャーナリストの風上にも置けない人間とはいえないか。広河氏はこれを本当のことと決めつけ、何の確認手続きも踏まず、馬奈木氏の弁護士としての倫理問題にまで踏み込んでいる。 

ちなみに、このブログでも頻繁に取り上げて批判してきた、木村嘉代子氏が主に執筆をしてきたという、事実上広河隆一氏擁護を展開しているブログ「セクハラ報道と検証を考える会」でも、「週刊文春デイズジャパンのセクハラ記事は本当に正しいか?2/2 情報のリークに金銭支払いの疑いも」という見出しの記事がトップに出てくる(2022年5月30日アクセス時)。それも、ジョー横溝氏の発言を引用し、最後に、必要もないのに『週刊文春』元編集長の木俣正剛氏を引用して終わっているところも広河氏のnoteと同じである。 

「考える会」ブログの記事のほうが先なので、広河氏は、このブログを参考にしている可能性もあるし、このブログは広河氏と直接つながりがあることをすでに明らかにしているので、何の驚きもない。ブログでは「裏を取っていないため、これが事実かはわかりません」と言っているが、見出しで「情報のリークに金銭支払いの疑いも」と書いてしまっていては、その「疑い」が真実であるように印象づける意図があることは明らかだ。 

田村氏や上記の元社員の三人が、これについて広河氏や木村氏から取材を受けたということもないようだ。広河氏も木村氏も、「裏を取る」努力もせず、ただ疑惑だけを拡散したかったのであろう。 

広河氏はその後何事もなかったように復活しており、フェースブックやツイッターでの発信も行っている。noteの長文で禊は済んだと自分で勝手に判断したかのようである。このnoteの文は、自分の性暴力を認めず、『文春』記事や検証委員会批判に明け暮れることで被害者を二度、三度傷つけ、最後は裏付けもない田村記者やデイズ元社員への誹謗中傷で完結した文である。

(文責 乗松聡子)

 

2022年2月9日水曜日

#MeToo運動を歪曲し、性暴力被害者を貶める ―― 『その名を暴け』の誤訳・改変と木村嘉代子氏の書評(その2)

2)性暴力、性犯罪の被害者を貶める邦訳への改変 

次に、『その名を暴け』日本語版で、誤訳によって、性暴力を告発した被害女性を貶めていると思われる箇所を挙げよう。

なお、ここに出てくるフォード博士とは、ワインスタイン報道から約1年後、当時トランプ大統領から最高裁判事に指名されていたブレット・カバノーから高校時代に性的暴行を受けたことがあると、米国上院の司法委員会公聴会で証言したカリフォルニアの大学の心理学教授クリスティン・ブレイジー・フォード博士のことである。


 フォード博士を#MeToo運動の最高のヒーローだと見なす人がいたが、その他の人々は、彼女をペテン師――増える一方のバックラッシュに対する弁護者――と見なした〔バックラッシュとは、ある動きが高まりを見せる時に生じる反撥(はんぱつ)、揺り戻し、バッシングのこと〕。(『その名を暴け』p.10)

Some saw Ford as ultimate hero of the #MeToo movement. Others saw her as a symbol of overreach –-a living justification for the mounting backlash. (She Said ,p.4).


フォード博士が悪意をもって証言したかのように受けとられる「ペテン師」と訳しているのは問題がある。「ペテン師」とは、「巧みに人をだまして利益を得ることを常習とする者。いかさま師。詐欺師。」(精選版日本語国語大辞典)である。原著の意味は、「フォード博士を#Me Too運動の究極のヒーローと見る人もいたし、逆に彼女のことを行き過ぎの象徴――増える一方のバックラッシュを正当化できてしまうような生きた例――と見る人もいた。」くらいの意味ではないかと思われる。

しかも、フォードが公聴会での証言に至る顛末を描いた同書9章「DCに行くという約束はできない」では、同じ「ペテン」という語がトランプ大統領がフォードの告発を「民主党の『ペテン』の一部だ」という非難する語彙として使われたものでもある(She Said, p.231;『その名を暴け』p.358)。9章の原文は” con job”で、「はじめに」の ”a symbol of overreach”とは異なっている。それをよりによって、証言台に立った彼女に翻訳で「ペテン師」という言葉をチョイスするのは、内容的に適切ではないだけでなく、やっとのことで30年以上も前の被害を公の場で供述した被害者に対して、あまりにも理不尽な表現ではないか。フォード博士がもし、日本で自分のことが「ペテン師」だと訳されていることを知ったとしたら、、、と想像するだけでも、やりきれない思いがする。

邦訳では、証言台に立ったフォード博士を表す表現として、「バックラッシュに対する弁護者」も使われている。これも、バックラッシュを支持したり、バックラッシャーかと誤解する人も出てきかねない、とんでもない誤訳である。日本語版を読む人は、こうした展開を見れば、著者らはフォード博士の味方ではないと受け取りかねない。しかも、Some ・・・・, Others ・・・・ というフレーズは、・・・という人もいるし、・・・という人もいるというところだが、あたかも「その他の人々は」と、「ペテン師」や「バックラッシュの弁護者」だとみなす人が多くいたかのように訳している点も、より被害女性を貶めているように見えるのではないだろうか。


古屋氏は、「ある分野に特化した専門性の強い翻訳者ではなく、広い範囲でフットワーク軽く、時代を切り取るような翻訳」をしてきたと述べているように、幅広い分野をこなす翻訳家だ。ただ、本書がテーマにしている性暴力やジャーナリズムに関する箇所での誤訳となると、原著の主旨が誤解されかねないことが、懸念される。例えば、性暴力をなくす方向性について誤訳が見られる。”In this fractured environment, will all of us be able to forge a new set of mutually fair rules and protections?” が、「このばらばらになった状況で、男女双方にとって公平な規則と保護という新しい組み合わせを作り出すことができるのだろうか。」(She Said, p.5; 『その名を暴け』p.11)と訳されている。

ここでの“a new set of mutually fair rules and protections”は、さまざまな立場、権力関係など重層的な関係においての公平な規則と保護を想定していると思われるが、邦訳では、原文にない「男女」を訳者が挿入している。これでは、性別二元論に基づき、同性間の性暴力を排除してしまうことになり、#Me Too運動や性暴力と闘う運動がめざす方向や射程が誤解されかねない。

被害女性の語りを評価する箇所でも、意味の取り違えによる誤訳が見られる。“We saw her as the protagonist of one of the most complex and revealing “she said” stories yet, especially once we began to learn how much about her path to that Senate testimony was not publicly understood.”の邦訳で、「わたしたちはフォード博士を、『彼女が語った』話のなかでも、もっとも複雑で人柄がにじみ出る話の主人公だと見ていた。・・・」と、”revealing”を「人柄がにじみ出る」と訳している( She Said, p.4; 『その名を暴け』p.10)。しかし、フォード博士については、9章に描かれているように、公聴会で証言するまでの道のりはかなり複雑なものであり、だからこそ、今後に示唆を与える要素が大きいという意味で「最も複雑で意義深い語りの一つ」と訳すのが相当だと思われる。文脈からして、フォード博士の「人柄」といった個人の属性が評価される箇所ではないはずだ。

ジャーナリズムに関しても同様に誤訳がある。” Our Weinstein reporting took place at a time of accusations of ‘fake news,’ as the very notion of a national consensus on truth seemed to be fracturing.”の訳文が 「『ニューヨーク・タイムズ』がワインスタインについて報道したのは、『フェイク・ニュース』が非難され、『真実に対する国家の合意』という概念そのものが崩壊しているように思える時期だった」となっている(She Said, p.3; 『その名を暴け』p.8)。しかし、“national consensus on truth” を「真実に対する国家の合意」と訳出するのは誤訳であろう。「フェイクニュース」か「真実」か、を決めるのは、「国家」ではなく、「人々」のはずだから、適合的な訳は、「真実についての全米の人々の合意」あたりだと思われる。


以上述べてきたように、この本の翻訳には、フェミニズム運動や被害女性を貶める改変の他、性暴力をめぐる状況に関して、誤訳や意味の取り違えが散見される。古屋氏は、担当編集者(島崎恵氏)と協力して膨大な資料を確認し、法学部出身者ネットワークも駆使して翻訳したと語っている。それにもかかわらず、これだけミスが多いのはどうしてなのだろうか。

こうした翻訳による改変は、原著の意図や意義をも毀損しかねないと思われる。訳者の古屋美登里氏は多数の翻訳書を刊行するベテランの翻訳家のようだが、性暴力というフェミニズムに密接に関わる書籍の翻訳出版に際し、出版社サイドがフェミニズムに詳しい翻訳者を探す必要を感じていなかったとしたら、出版社サイドにも、フェミニズムの専門性への軽視があったと言わざるを得ない。(次回に続く。)


2022年2月8日火曜日

#MeToo運動を歪曲し、性暴力被害者を貶める ――『その名を暴け』の誤訳・改変と木村嘉代子氏の書評 (その1)

ジョディ・カンター、ミーガン・トゥーイー著『その名を暴け #MeTooに火をつけたジャーナリストたちの闘い』(古屋美登里訳、新潮社、2020年)は、著名な映画プロデューサーであったハーヴェイ・ワインスタインのセクシュアルハラスメントや性暴力に関する被害女性たちによる証言をニューヨーク・タイムズの女性記者二人がまとめたノンフィクションだ。

同書のポイントは、著者らが#MeToo運動やフェミニズム運動に親和的な立場から、被害女性らが性暴力を告発し、報道につながる経緯及びその後の社会の変化をも丁寧に記し、性暴力と闘うためにはどうしたらいいかを読者に考えさせていることだ。さらに、告発する女性を支えるさまざまな女性たちの連帯にスポットを当てている点も特筆に値する。住む場所も職業も全く異なり、これまで会ったこともなかった被害女性たちがカリフォルニアにある女優のプライベートな住居に集まる終章は、女性たちの連帯が実感でき、感動的ですらあった。

同書は、性暴力に切り込んだ優れたルポルタージュとして書評でも評価され、よく読まれているようである。同書の翻訳を担当した古屋美登里氏は、嫌がらせのない世の中になるよう、女性たちのために翻訳を決意したと語っている。このように同書の日本語版は、主に、性差別を明るみに出すジャーナリズムや性暴力の問題という点から読まれているようであるが、本来、同書はもっと幅広い視点から読まれるべき価値をもった書である。

同書が本来もっていたはずの価値が、日本語版では、古屋美登里氏による翻訳の際、同氏の解釈により狭められ、歪曲されているのだ。日本語版が持つ深刻な問題は以下の2点である。

1)原著は#MeToo運動やフェミニズム運動に親和的であり、敬意も払っている。だが翻訳により、フェミニズム運動を軽視し、著者らもフェミニズムに否定的であるかのような内容に改変された箇所がある。

2)翻訳により、性暴力、性犯罪の被害者を貶めるような内容に改変されている。

本稿では、<その1>で、フェミニズム運動を軽視し著者らのスタンスを歪曲している点について、<その2>で、性暴力被害者を貶めている点について、と日本語版が持つ二つの深刻な問題を2回に分けて指摘していきたい。そして、<その3>で、本ブログで度々取り上げている「セクハラ報道と検証を考える会」の木村嘉代子氏による同書書評「性犯罪を『正しく』暴く」 ジャーナリズムの神髄」(『週刊金曜日』(2021年1月29日号)の問題点を示す。

なお「セクハラ報道と検証を考える会」は、広河隆一氏の性暴力事件の被害者を疑い、その報道及び、検証報告書を批判し続けることによって加害者である広河隆一氏の事実上の擁護者となっている団体だ。また木村氏は、同会のブログ記事の大半を書いてきたと自ら暴露した人物である。

そもそも本書に注目したのは、木村嘉代子氏が同会のブログで度々本書を引用しつつ、自説を展開してきたこと、そして本書の書評を週刊誌に書いていたことが発端であった。

1) フェミニズム運動に対して否定的な邦訳への改変 

 まず、タイトルについて見ていくと、原著は、She Said:Breaking the Sexual Harassment Story That Helped Ignite a Movement と性暴力の被害に遭った女性たちが沈黙を破り語ったことを報道し、その後の#MeToo運動の広がりに大きく寄与したことをそのままタイトルにしたものだ。だが、日本語版は『その名を暴け #MeTooに火をつけたジャーナリストたちの闘い』と、ジャーナリストたちが加害者の名前を明るみに出すために闘ったという扇情的なタイトルに置き換えられている。日本語タイトルでは、原題にあった「運動(Movement)」という単語が消え、「#MeToo」になっている。これが問題なのは、日本語版の「#MeTooに火をつけたジャーナリストたちの闘い」では、著者らジャーナリストたちだけが主役として加害者と闘ったかのようなストーリーに変わっており、一人ひとりの女性の性暴力被害が語られ(She Said)、それを報道することによって、セクシュアル・ハラスメントの問題が浮き上がり、集合的な運動(Movement)へとつながっていったという、原題で浮き彫りにされている女性たちの連帯への動きが見えなくなってしまうからだ。

日本語版の翻訳内容にも原著から改変された箇所が散見される。日本語版の「はじめに」は、新潮社サイト、並びに文春オンラインで公開されているので、公開部分と原著とを照らし合わせて問題点を指摘していきたい。まず、原文で明記されていた「フェミニズム運動への敬意と連帯」が、日本語訳による誤訳及び改変により、薄められ、かつ著者らをフェミニズム運動と切り離し、フェミニズムに批判的であるかのように表現された箇所を見ていこう。

ジャーナリズムは、確かにこれまでもパラダイム・シフトを起こす役割を担ってきた。とはいえわたしたちの仕事は、変化の有様(ありさま)を伝えるだけのことで、その変化自体を長年にわたって作り上げてきたのは、先駆的なフェミニストや法律学者たちだった。アニタ・ヒル〔一九九一年、米上院司法委員会で、最高裁判事候補になっていたクラレンス・トーマスからかつて受けた性的嫌がらせについて証言した女性〕や市民活動家で#MeToo運動の創始者タラナ・バーク、さらには同業のジャーナリストたちなど、大勢の人々のおかげなのである。(『その名を暴け』p.6)

Journalism had helped inspire a paradigm shift. Our work was only one driver of that change, which had been building for years, thanks to the efforts of pioneering feminists and legal scholars; Anita Hill; Tarana Burke, the activist who founded the #Me Too movement; and many others, including our fellow journalists. (Kantor, Jodi; Twohey, Megan. She Said (pp.2-3). Penguin Publishing Group. Kindle 版. ) 

 フェミニズムとのつながりを示している箇所が誤訳されている。“Our work was only one driver of that change, which had been building for years”の邦訳「わたしたちの仕事は、変化の有様(ありさま)を伝えるだけ」 は、正確な訳ではない。著者は、ジャーナリストたちも変化の推進力の一翼である、とジャーナリストを社会変革を起こす力の内部に位置づけているのだ。しかも、アニタ・ヒル、タラナ・バークというパイオニアとして性暴力と闘ったブラック・フェミニストたちの名を挙げ、社会変革は彼女ら先達が作り上げてきたものだとも述べ、フェミニズム運動の歴史に尊敬の念を示している。この点も原著では特筆される点だ。そして最後にもう一度、同僚のジャーナリストたちに言及している。こうした原文は、著者らジャーナリストたちがフェミニストたちの闘いに連なることを示したものだと言えよう。だが、原文ではアニタ・ヒルとタラナ・バークの名前を挙げ、あくまでその後に "many others" が来ているのに対し、邦訳だと「大勢の人たちのおかげなのである」という文末が目立つことになっている。邦訳では、ヒルとバークらフェミニストの貢献が薄められ、またジャーナリストがフェミニストの動きとともにあるという含意が読み取れなくなっている。

古屋氏は、「ジョディとミーガンの視点に立って、2人の感じた世界をそのまま翻訳しているつもり」、「「口寄せ」のような感覚」で翻訳に臨んだと語っている。しかし古屋氏による実際の翻訳は、原著者がフェミニズム運動、特にブラック・フェミニストたちへの敬意と連帯を示している箇所が、誤訳により敬意が薄められるとともに、ジャーナリストをフェミニズム運動と切り離し、ジャーナリストたちもフェミニズム運動と連なっているという記述がなかったことにされている。日本語版が、原著著者らの依って立つ立場をフェミニズムとは無縁であるかのように改ざんしているのは、著者らの意図を大きく歪曲した誤訳と言えよう。

次に、誤訳によって、#MeToo運動を貶めている箇所を紹介する。

ワインスタイン報道が世に出てから数ヶ月も経たずに、#MeToo運動が爆発的な勢いで拡がり、デート・レイプから子どもへの性的虐待、男女差別、さらにはパーティでの出会いに至るまで、さまざまな問題が議論されるようになった。そのおかげで公共の場での会話は豊かになり真剣味を増したが、一方で混乱を招くことにもなった。つまり、この運動の目的は性的嫌がらせを根絶することなのか、刑事裁判システムを改革することなのか、家父長制を打ち砕くことなのか、それとも相手の感情を傷つけずに恋をすることなのか、と。その結果、裏付けのない証拠のせいで、あるいはそこまでいかなくとも、組織の変化が絶望的なまでに欠けているせいで、罪のない男性たちを傷つけることになってしまったのではないか。(『その名を暴け』 p.9)

In the months after we broke the Weinstein story, as the #MeToo movement exploded, so did new debates about topics ranging from date rape to child sexual abuse to gender discrimination and even to awkward encounters at parties. This made the public conversation feel rich and searching, but also confusing: Were the goals to eliminate sexual harassment, reform the criminal justice system, smash the patriarchy, or flirt without giving offense? Had the reckoning gone too far, with innocent men tarnished with less-than-convincing proof, or not far enough, with a frustrating lack of systemic change?(She Said , p.4)


このパラグラフ最後の原文の意味は、文脈からして「説得力のない証拠で無実の男性たちの名誉を毀損してしまう結果になってしまっているのか、逆に問題意識が足りないために、システム的な変革がイライラするほど遅い結果になってしまっているのか」となるはずだと思われる。だが日本語訳では、「その結果、裏付けのない証拠のせいで、あるいはそこまでいかなくとも、組織の変化が絶望的なまでに欠けているせいで、罪のない男性たちを傷つけることになってしまったのではないか。」とある。ワインスタイン報道、そして#MeToo運動が起きた結果、無実の男性たちが証拠もないのに、さらに組織の変化も起きないなど別の理由もあって傷つけられていると、邦訳では「罪のない男性」の「傷」が強調されるようになっているのは、構文の取り違えによる誤訳と思われる。

誤訳の結果として、#MeToo運動が冤罪を引き起こしかねない、行き過ぎた運動であるかのようなマイナスイメージを付与されることになっている。この誤訳のために、#MeToo運動が引き起こした悪しき影響が想起され、この運動を貶める方向に読まれる可能性が高いことが懸念される。(その2 に続く。)

2021年10月8日金曜日

沖縄の運動で起きたセクシュアル・ハラスメントの報道

 広河隆一氏は、いわゆる「人権派」のフォトジャーナリストで知られていただけに、2018年末の「週刊文春」を皮切りに世に知られることになった彼の長年にわたる性暴力は、「平和」「人権」のために権力と闘うと標榜している世界に衝撃を与えた。そのせいか、彼の同業者(フォトジャーナリスト、ドキュメンタリー映像作家、「チェルノブイリ」「フクシマ」など反原発の世界の人々など)とも言える人たちは概ね口を閉ざし、公に広河氏を糾弾することはほとんどなかった。私(乗松)が個人的にコンタクトをとった同業者は、1)無視する、2)広河氏の生い立ちなどを引き合いに出し同情する、3)「ああ、あんなの誰でもやっている」と矮小化するような傾向があった。同業者が、公的に懸念を表明するような記事やSNSもあったが、広河氏を結果的には擁護しているとしか思えなかったり、言い訳がましかったりするものがほとんどであった。

社会運動内のハラスメントが発覚するとき、その運動のコミュニティー全体の向き合い方が問われることになる。先日、新たに、沖縄における社会運動内の性被害が報道された。9月28日付『琉球新報』社会面で、2018年1月、沖縄の運動体の宿泊施設で、運動に関わる女性が、運動体の男性からセクシュアル・ハラスメントを受けた件だ。女性は「強い口調で何度も制止」したが、男性は女性を「どう喝」し、そこで見ていた運動体の別の男性も傍観しているだけであった。寝室に逃げ込んでも男性は寝室まで入ってきて、他の宿泊者が止めに入りようやく止まったという。どれだけ怖かったことか、想像するだけで体が震える。

私が信じられないのは、加害者、傍観者双方が今でも新聞社の取材に対し、酒を飲んでいたから「はっきりと覚えていない」「記憶がない」と話していることである。反省も誠意のひとかけらも感じられない。この運動体が謝罪文を出し、「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」共同代表の高里鈴代氏を講師に迎え勉強会までやっているのだから、この男性たちが構成員を成す運動体としては明白に事実を認定しているのである。それなのに個々の取材で「覚えていない」とは。韓国出身のフェミニスト学者の友人が、「韓国も日本も酒に酔っていることが刑罰の減免につなが」ってしまう文化であると言っていた。日本では「酒の席では多少のことは許される」という価値観自体が女性を危険に晒しているのだ。

9月28日「琉球新報」の報道は転載許可を受けてPeace Philosophy Centre のブログに転載した。ぜひまずこれを読んでほしい。識者談話として、高里鈴代氏、村上尚子弁護士のコメントも出ている。

https://peacephilosophy.blogspot.com/2021/10/by-sexual-violence-within-social.html

↑この報道に対するコメントとして、私は同紙に連載している「乗松聡子の眼」44回目として、10月3日にコラムを出した。これは私が著作権所有者なので私がテキストを転載するには問題ないということなのでここに転載する。(文中のリンクは著者が転載にあたって追加したものです)


社会運動の中の性暴力 被害者を孤立させるな

乗松聡子

9月28日の本紙社会面に「性的被害 社会運動でも」という見出しで、沖縄の社会運動の中で起こっている性差別や性暴力という人権侵害に焦点を当てた記事が出た。

「#MeToo」運動は2017年10月、米国の大物映画プロデューサーのハーベイ・ワインスタイン氏が自分の権力を使って多くの女優に性暴力を行ってきたことを「ニューヨーク・タイムズ」がスクープしたことがきっかけに拡大した。

米国の#MeTooの火付け役が米国を代表する新聞だったことに比べ、概して日本の新聞は性暴力報道に及び腰で、被害者は週刊誌に頼らざるを得ないように見えた。「人権派」フォトジャーナリストの広河隆一氏の長年にわたる性暴力を最初に報じたのも、「週刊文春」だった。

そのような状況において、沖縄の米軍基地への抵抗運動を支えてきた新聞社である「琉球新報」が敢えて運動の中の性暴力・セクハラを報じたことは画期的なことであった。私はこれまで、運動の中にいる人たちからはいろいろな話を聞いたことがあるが、沖縄のメディアが取り上げることは今までなかったと思う。

人権を重んじ差別に反対する「社会運動」でセクハラや性暴力が起きるのは、これらの世界でもいまだに圧倒的な男性支配の構造が続いているからである。ジェンダーギャップが国際的にも最悪レベルと言われる日本では、保革を問わず性差別がまん延しており、社会運動だけに真空状態が存在するはずもないのだ。自分を含む、運動の中にいる女性たちは身を持って知っている。

昨年9月ツイッターに登場した「すべての馬鹿げた革命に抗して」というアカウントは、社会運動に参加したことのある女性たち53人にアンケートを行い、うち9割以上が運動内でセクハラを体験・目撃している。そこには、「反権力」「平和」「人権」を謳う者たちがいかに自らの権力を利用して女性を踏みにじってきたかの生々しい実例が多数報告されている。

社会運動で起こるセクハラや性暴力の被害者が声を上げようとすると、「運動を割る」「権力側を利する」といった理由で隠蔽圧力がかかる。女性なら味方してくれるかというと、そうとも限らない。性差別を内面化した女性が加害者を庇ったり、「それぐらい我慢して当然だ」と言ったりするときがある。それで被害者はますます孤立感を味わう。

本紙の記事で証言した被害者・体験者はそのような圧力に負けずに声を上げた女性たちだ。もちろん活字になるケースは「氷山の一角」である。彼女らは、同じことを繰り返させないとの一心で、思い出したくもない体験を何度も再現するのに、加害者側は「知らない」「覚えていない」の一言で一蹴してしまえる。彼女らは、何も悪いことをしていないのに、加害者と顔を突き合わす可能性がある運動にもう戻ることすらできない。

これらの不条理の中で、被害者の言葉を受け取る者たちの責務は、彼女らを孤立させないことだ。いま、運動の中ではハラスメント学習会が開催され、いろいろな「気づき」が起こっているということも聞いている。本紙の記事をきっかけにこのような動きが広まることを願っている。(「アジア太平洋ジャーナル・ジャパンフォーカス」エディター)

(10月3日「乗松聡子の眼」転載 以上 デジタル版ではここ

今回のケースは3年以上経ってやっと報じられた。ここまで来るには長い道のりがあり、このケースの背後には、被害者が証言できないといった理由で報じることのできないもっとたくさんのケースがある。今回の記事の被害者の勇気、忍耐力、持久力に心から敬意を表する。

これらの記事を読んで、広河隆一氏が代表を務めていた「DAYS Japan」 の元編集者、小島亜佳莉氏がコメントをくれた。

この記事が出るまでにたくさんの苦労や実際には書けなかったことなどもあると思いますが、それでもこれだけの記事が新聞に載ったというのは本当に第一歩だと思いました。広河隆一の問題が明るみになったときに、こういった社会運動だからこその構造的な問題がもっと広く考えられるような動きになればいいと思っていたのがなかなか十分にはできなかったなという少し悔しい思いがあったのですが、またこれも一つのきっかけになるんじゃないかと思います。少しずつでも変えていけるように私も動いていきたいです。

小島氏が言うように、これは「第一歩」、始まりであり、終わりではない。沖縄から基地を減らしなくそうという運動、言論に参加してきた私としても、運動自体の中で女性やマイノリティの人権が侵害されるような運動ではいけないと思う。運動のためにもこのようなことが起きたら運動コミュニティー全体でしっかり向き合い、加害者が誠意を持って償うことが大事だ。見て見ぬ振り、なかったことにしてはいけない。

私のコラムで触れた「すべての馬鹿げた革命に抗して」のツイッターアカウントは、SEALDS運動に関与した女性たちによって始められたと、毎日新聞の記事(2020年11月8日)は報じている。女性たちはこうやって匿名で声を上げているのに男性たちはどうなのか。SEALDSに関わった男性たち、目撃した男性たちはどうして何も言わないのか。衝撃的な内容なのにもかかわらずフォロアーも2500人強、取り上げたメディアも毎日新聞だけで、社会的な注目を浴びているとは言い難い。

広河氏の被害者、沖縄の運動の被害者、SEALDSを含む日本全体のリベラル運動におけるハラスメントの被害者たちを孤立させず、自分たちの闘いのメッセージと言動が矛盾しない運動体を作り上げてこその運動だと思う。ある、運動内のハラスメントを目撃した女性はSNSで「左翼の運動業界はリベラルの皮をかぶった家父長制の権化」と言っていた。構造問題に目を向けながらも個々の事例に向き合い、被害者を孤立させずに、ハラスメントのない運動を築こう。

★★★

今回の件では他の沖縄メディアでもまだ後追い取材をしている様子はないし、運動の中でも静かな波が起こっている感覚はありますが概ねスルーされています。SNSでシェアしても「いいね」「大切だね」リアクションは一定数あっても、自分からシェアしたり声を上げる人はあまりいないです。

目をそむけないでください。無視しないでください。「貴重な記事を」とか「ご教示を感謝」とか言って関心のあるフリだけして行ってしまわないでください。「世の中には他にも重要なことがある」とか言って脱線させないでください。「自分はこういう記事を書いている」とか言ってきて、自己宣伝しないでください。私たちが提示する実例にまずは目を向けてください。被害者に思いを馳せてください。共に声を上げましょう。

21年10月7日 乗松聡子


2021年2月1日月曜日

「セクハラ報道と検証を考える会」の誤訳から見える、性暴力理解の根本的な欠落(2)

前回の記事では、「セクハラ報道と検証を考える会」による、米ニューヨークのダートセンターの性暴力報道に関する文書に誤訳が多いことを指摘した。そして、そうした誤訳により、本来は被害者の人権を守るための文書を、実際には加害者である広河氏に有利となるように利用していることを述べた。

今回の記事でも、「考える会」が誤訳をしているのみならず、英文の解釈を、自分たちの広河氏擁護の主張に都合よく使えるように改変している問題を考えてみたい。「考える会」は、「性暴力を誠実に報道するために、取材の準備からインタビューの留意点、記事構成や言葉遣いなど、細かい規定を提案している団体もあります。」といい、「性暴力の理解に甚大な影響を与える報道に規制を設ける海外団体:デイズジャパン最終報告書の検証(6)」(魚拓)(「考える会」サイト引越しに伴い、同じ記事タイトルが「デイズジャパン最終報告書の検証性暴力の理解に甚大な影響を与える報道に規制を設ける海外団体(6)」に変更)と題された記事の中でも、いくつかの米国の団体のガイダンスを紹介している。

だが、この記事でも、前回のダートセンターの文書と同様、本来は被害者の人権を守るためのガイダンスを、加害者を擁護するために恣意的に内容を改変して紹介しているのだ。 

 例えば、同会はミネソタ州の性暴力反対連合(Minnesota Coalition Against Sexual Assault, MCASA)のジャーナリスト向けガイド「Reporting on sexual violence: A guide for journalists」を紹介する中で、そのガイド中で言及されているフロリダ州にある非営利団体ジャーナリズム機関のポインター研究所(The Poynter Institute)の記述に触れている。

 そして、「考える会」は、ポインター研究所の記事から以下の箇所を抜き出している。

有罪判決を受けていない人への非難を避けるには、受動態の方が問題がない。しかし、加害者が逮捕されたら、警察の報告を引用し、加害者を主語にしたほうがいい。被害者は直接目的語にすべきである。

ここで「考える会」は、ポインター研究所がその直後に書き、このパラグラフの中で最も重要であると思われる、”Saying a victim 'performed' a sexual act unfairly assigns agency to the victim.”(被害者が性的行動を「行った」ということは、被害者に能動性を不当に与えるということだ。)という肝心な文をなぜかカットしているのだ。

 「考える会」が、「有罪判決を受けていない人への非難を避けるには、受動態の方が問題がない。」と訳した部分は、原文では”Sometimes it’s easier to use the passive voice because we don’t want to assign blame to someone who hasn’t been convicted.”と書かれている箇所だ。これは、「有罪判決を受けていない人に責任の所在をあてがうことを避けるために、受動態を使ったほうが無難な時もある。」と訳すのが適当だろう。だが、これはあくまでもこのパラグラフの前置き的な文であり、最も肝心なのは「考える会」がカットした、被害者に能動性があったかのような表現をすることが不当だとした箇所である。

 この重要な文をあえてカットした「考える会」は、『週刊文春』が広河氏の性暴力を告発した記事には「広河氏を主語にした、能動態による性行為の描写も含まれます。MCASAの基準からすると、この記事の執筆者は性暴力表現への配慮が十分ではなく、記事表現は不適切だということになります。」とつなげている。だが、本来、MCASAの文章は被害者に能動性があったかのように、すなわち被害者も合意していたと捉えられるように記述することは不当であるとし、むしろ、加害者の能動性をしっかり伝えるべきだと主張するものである。だが、これを「考える会」は、加害者の広河氏が逮捕されていないから、広河氏の行為が能動態で描かれていることが不適切だと、意味を完全にすり替えている。

 そして、「考える会」は再びダートセンターの性暴力報道のガイダンス文書を持ち出し、以下のように解説する。

「暴行を説明するときは、詳細な写実の分量のバランスを考える。多すぎるのは不当であり、少なすぎるとサバイバー(生還者)の出来事の深刻さを弱めることになる」と「正しい言葉の使用」が強調されています。

 この翻訳に対応するオリジナルの英文は以下である。

When describing an assault, try to strike a balance when deciding how much graphic detail to include. Too much can be gratuitous; too little can weaken the survivor’s case.

 「考える会」は”Too much can be gratuitous"を「多すぎるのは不当であり」と訳しているが、原文は「意味もなく過度に詳細な記述を行うべきではない」という意味であり、これに「不当」という訳語を当てるのでは、意味が全く伝わらない。また、「考える会」のいう「不当」が、誰にとって「不当」なのかも曖昧なままになっているが、この記事の文脈や、これまで指摘してきたような恣意的な解釈を踏まえると、被害者にとって「不当」だということをきちんと理解しているのか疑問である。

 ちなみに、同会がダートセンターのガイダンス文書を翻訳紹介した記事のほうでは、同じ文を「暴行を説明するために、含める図式的な詳細の分量を決める際、バランスをとるようにしてください。多すぎると余計ですし、少なすぎるとサバイバーの事件を軽視することになります。」と、「多すぎると余計」と訳している。「不当」と「余計」では意味が全く違い、同じ文書に対して異なる翻訳文を提示するのも杜撰だし、ダートセンターのガイドラインが意図している、被害者の立場に立つという視点が全く抜け落ちた訳になっている。(なお、"graphic"の訳も、「写実の」「図式的な」と異なっており、一貫していない。)

 さらに「考える会」は、ダートセンターが女性の被害者の取材の際には女性記者の同席を勧めているからとして、「広河氏の週刊誌報道に対する違和感のひとつは、サバイバー(生還者)から話を聞いているのが男性記者だけではないかと思える点です。」と、『週刊文春』記事を書いた田村栄治氏が男性であることだけをもって、記事の信頼性を貶めようとする。

 だが、『週刊文春』の報道の後、さまざまな新聞、ウェブメディア等で広河氏の性暴力やパワハラ問題が、被害者への取材も交えつつ報じられてきたが、それらの記事の多くは女性記者によるものだし、中には被害女性たちが声をあげた記事やブログもある。そして、デイズジャパンの検証委員会の中にも、被害者の聞き取りを担当した女性の委員はいる。また、例えばジャーナリストのジョン・クラカワーの『ミズーラ』は、被害者の側にたち性暴力事件を報じた大変優れた仕事だが、クラカワーは男性である。聞き取りの場に女性記者もいることが望ましいとするガイドラインそのものに問題はないが、取材に関わる人や記事を執筆する人が女性でなくてはならないわけではないし、記者が男性だというだけで、記事の信頼性が落ちるということにはならないのは当然だろう。

 そして、「考える会」は、記事を担当した記者である田村氏が男性であるために、『週刊文春』の記事の中に「不快な表現が多々」みられるとし、事例として『週刊文春』の2019年2月17日号に、広河氏が避妊具を使わなかったことについての記述があることを特に挙げて、批判を展開している。

当該記事のなかには、報じる側に女性の関与があれば、避けるであろう不快な表現も多々みられます。たとえば、避妊方法の明記です。避妊は加害性を軽減したり、サバイバー(生還者)にとって有利になったりせず、性暴力の酷さとは関係がありません。それをわざわざ書いく(ママ)のは、いかにも男性視線の猥談的な興味からに思えます。 

 もちろん加害者がたとえ避妊をしたとしても、同意を得ずに性行為を行うということは紛れもない性暴力であり、許されないのは当然だ。だが、被害者が性行為に同意をしていない中で、さらに加害者が避妊具を使わずに性暴力行為を行なったということは、被害者にとってはとてつもなく恐怖だろう。性暴力の中で避妊したかどうかは、被害者にとって自分の身を守る上で重要なことであり、だからこそ重要な情報として、証言をしたのではないか。被害者の側に立った立場を装いながらも、「考える会」は被害者の思いを全く考えず、避妊について報じることそのものを問題視しており、被害者軽視の視点を打ち出している。「考える会」は広河氏が、被害者の同意も得ないままに避妊をせず性行為を行ったことは、広河氏の性暴力行為の深刻さとは無関係だといいたいのだろうか。「考える会」の筆者が「男性視線の猥談的な興味からに思えます」というのは、自身がそう思っているということなのではないのか。

 そして、「考える会」は「日本のセクハラ報道は、加害者の悪質性を強調した個人攻撃型で、問題の背景や全容、今後の解決策につながるような内容にはなっていません。」と結論づける。ここで「加害者の悪質性」すなわち広河氏の悪質性を強調すべきではない、という「考える会」の広河氏擁護の主張がますます明らかになっている。

 「考える会」は「こうした報道は、#MeToo 運動の盛り上げの一助になるのでしょうか。」とも書くが、#MeToo 運動へのバックラッシュとしか言いようがない言論を展開している「考える会」に、上から目線でフェミニズム運動に対して、盛り上げの一助にならないなどとコメントする資格はない。これこそ性暴力の被害を軽視し、フェミニズムを見下して専門家ぶる「男性視線」以外の何者でもないだろう。

「考える会」のサイトには、性暴力報道に関する、英文ガイドラインの邦訳が掲載されていて便利だと思う人もいるかもしれない。だが、ここで見てきたように、「考える会」が提示する翻訳が「加害者擁護」の目的に影響されたものであり、時に致命的なミスや、恣意的な誤訳、文脈を無視したつまみ喰い的な引用が巧妙に混ぜられた邦訳であることを忘れてはならない。すなわち、「考える会」の翻訳に基づきこれらのガイドラインを活用することは、被害者の人権を侵害する報道につながる恐れが高く、大変危険だということだ。

 

2021年1月26日火曜日

「セクハラ報道と検証を考える会」の誤訳から見える、性暴力理解の根本的な欠落(1)

 
前回の記事(「考える会」の性暴力報道のリテラシーとは(3))では、広河隆一氏の性暴力加害を擁護する「セクハラ報道と検証を考える会」が、ニューヨークタイムズ紙などの欧米メディアを文脈を無視して褒めちぎることで、『週刊文春』など日本のメディアに掲載された広河氏の性暴力の告発記事の信憑性を貶めようとしたことを指摘した。今回の記事でも「考える会」が英語媒体の翻訳情報を恣意的に使い、曲解をも交えながら紹介することで、広河氏の性暴力を擁護するために利用していることを明らかにしたい。

「考える会」のサイトには、英語媒体からの情報や、翻訳が多く掲載されている。自分たちが英語媒体にも通じており、最先端のジャーナリズム倫理に詳しいと言いたいかのようだ。そして、「考える会」は、英語媒体の情報を「権威」として扱うのみならず、それを広河氏を擁護し、『週刊文春』や「デイズジャパン検証委員会」を批判する目的で使っている。

だが、その肝心の英語の解釈に関して、間違いや誤解が目立つ。そもそも、「セクハラ報道と検証を考える会」というサイトの団体の英語名が"The Study of Covering Sexual Harassment in the Media"とされており変だ。「会」なのに英語が"The Study…"となっているのもおかしいし、”the”も何を指しているのか不明だ。さらに、”covering”とすることで、「報道」を指したつもりなのだろうが、むしろ「隠蔽する」の方かとも思えてしまう。「メディアにおけるセクハラを隠蔽する研究」とでも言ったところか。「考える会」の実際の目的は、本サイトが今まで掲載してきた記事からも明らかなように、広河氏による性暴力やセクハラを隠蔽することにあるので、間違っているわけではないのかもしれない。

「考える会」が2020年2月11日付で出した「性暴力報道のための取材準備から記事執筆までのヒント」 (魚拓)(「考える会」サイト移転に伴い、同記事タイトルが「性暴力報道のためのガイダンス(Reporting on Sexual Violence):ダートセンター」に変更)
という記事がある。米コロンビア大学ジャーナリズム大学院のプロジェクトであるダートセンターが出している文書を翻訳したものだという。「考える会」によれば、ダートセンターは「ジャーナリストの取材活動をサポートする国際的な組織で、暴力や紛争、被害に関する革命的で倫理的なニュースの告知に専念しています。」という組織だという。

この記事が出た時、あまりに誤訳が多いことから、当会のメンバーがそれを指摘するツイートをいくつか行った。例えば以下だ。

また、当会メンバーはダートセンターにも、同センターのメールフォームを使ってメールを送っている。誤訳問題に加えて、「考える会」が加害者である広河氏擁護の目的を打ち出したサイトであることも書き加えたのだが、ダートセンターからの返答はなかった。

今回、この記事を書くにあたり、「考える会」の当該記事を久々に見てみたところ、私たちが指摘した箇所のいくつかが訂正されていることに気がついた。例えば「public policy」が「社会秩序」と誤訳されていた箇所は、「公共政策」に直っていた。ツイートで誤訳を指摘されたのを見て密かに直したのか、あるいはダートセンターから「考える会」に問い合わせがあり訂正という流れになったのかはわからない。

 いずれにせよ、誤訳よりも根本的な問題である、ダートセンターの出した文書の「考える会」による翻訳が、加害者擁護の目的のために使われているということについて、ダートセンターが何もせず、そのまま翻訳許可を与えているのは大きな問題である。同センターの活動そのものにも疑念が湧くレベルだ。コロンビア大学のジャーナリズムスクールなら、日本語ができる人が「考える会」のサイトを読み、同会の目的を確認するなどいくらでも可能だろう。それをせず、放置しているダートセンターの責任も問われるところだ。

 私たちが表立って指摘した「考える会」によるいくつかの誤訳はいつの間にか訂正されていたのだが、再び記事を読んでみたら、まだ誤訳は残っていた。どうせ直すなら、文章全体をしっかり確認しなおせばいいのに、それを怠ったのか、それとも根本的にわかっていないために、チェックし直してもなお誤訳だと気づかなかったのだろうか。

以下、いくつか「考える会」の誤訳の事例を挙げてみよう。

1)
サバイバーがどう感じているかわかると言ってはいけません―それはわからないのです。代わりに、こう言うことができます。「これがあなたにとってどんなに苦しいことかわかります」

日本語が「それはわからないのです。」と言いながら「わかります」となっているのは矛盾していて意味不明である。この翻訳文に対するオリジナルの英文は以下となる。

Never say you know how they feel – you don’t. Instead, you could say, “I appreciate how difficult this is for you”.

日本語だとknowもappreciateも「わかる」と辞書には書かれているが、ここでは「わかります」ではなく、「大変なのにありがとう」と言った感謝の気持ちを表す表現だろう。この英文の翻訳は、「サバイバーがどう感じているかがわかるとは決して言ってはいけません。あなたにはわからないからです。むしろ、『とても大変なことなのに話してくれてありがとう』ということはできます。」という感じである。この文章を翻訳する際に、「考える会」が「わかる」という言葉を使っているのは致命的だ。

2)
しかし、調査が終わっても、それを放置しないでください。この話題に関する知識は多ければ多いほどよく、特定の個人が自分たちに起きた出来事をどのように経験したかを予測することはできません。

オリジナルの英文は以下だ。

But once you have done your research, leave it at the door. It doesn’t matter how much knowledge you have on the topic, you can never predict how a particular individual experienced the events that happened to them.

「考える会」は”leave it at the door”を「それを放置しないでください」とし、さらに”It doesn’t matter how much knowledge you have on the topic”を「この話題に関する知識は多ければ多いほどいいですし」と訳している。しかしここは、「それ(調査で知ったこと)は置いておいてください。どんなにこの問題に関する知識があっても関係ありません」という意味だ。個人の経験はそれぞれ違い、その人が自身に起きたことについてどのように経験したかは、決して予測することはできないから、とダートセンターは書いているわけだが、「考える会」は全く逆に訳しており、完全な誤訳だ。

3)

紛争時における兵士のレイプは戦争犯罪です。それを不運と書き表しますが、戦争のありきたりな側面と表現するのは好ましくありません。

オリジナルの英文は以下だ。

During conflict, rape by combatants is a war crime. Describing it as an unfortunate but predictable aspect of war is not acceptable.


 この文章は「紛争時における兵士のレイプは戦争犯罪です。それを不運な、戦争の予想できる側面であると記述するのは許されることではありません。」という意味だ。つまり、戦争犯罪を単なる「不運」と書き表すべきではない、とするダートセンターの文章について、「考える会」は「不運と書き表しますが」と訳してしまっている。 
 さらに、問題はそこだけではない。「考える会」は、2020年2月の時点では「不運な人としてそれを書き表しますが、戦争のありきたりな側面というのは是認できません」と翻訳していたことが、当会メンバーの能川元一のツイートからわかる。

Google 翻訳よりひどいところもあるな。「不運な人としてそれを書き表しますが、戦争のありきたりな側面というのは是認できません」という部分とか。https://t.co/s1KMKm1sHc

— 能川元一 (@nogawam) February 17, 2020

つまり「是認できません」だったものを、「好ましくありません」と一段とソフトな表現にしてしまっているのだ。能川がツイートで「ひどい」と書いたことが影響したのだろうか。しかし、能川は「是認できません」という表現を「ひどい」と言いたかったわけではない。そもそも原文では”not acceptable”というかなり強い表現を使って言い切っている。「考える会」の戦時性暴力への問題意識の欠落も垣間見える誤訳と言えるだろう。

 3つの誤訳の例を挙げたが、性暴力報道のために気をつけるべきことを述べている記事なのに、英語の読解力の欠落とか、ケアレスミスとかいうことを超えて、根本的に原文の意味を変えてしまうレベルのミスである。性暴力報道という、通常の報道以上に細かな気を使わないといけない局面において、致命的なミスだと言えるだろう。このことからも、「考える会」が性暴力の問題に無頓着であり、被害者の人権など実は考えてもいないことが見えてくるのではないだろうか。

 性暴力被害者の人権を守るために書かれたはずのダートセンターの文書が、「考える会」の翻訳及び広河氏擁護サイトへの掲載により、加害者擁護のための文書に化けてしまったのだ。被害者の人権擁護の衣を纏っているだけに、より悪質だ。


(2021年11月28日追記: 「考える会」サイト引越しに伴い、この記事のタイトルは以前のものから変更されていたが、上記に記したミスに関してはそのまま残っていることを確認した。)


2020年10月14日水曜日

「考える会」の性暴力報道のリテラシーとは(2)ーーデイズジャパン最終検証報告書の検証(5)  米ニューヨークタイムズは「レイプ」と「合意のない性関係」を区別

 フェミニストたちが、重大な人権侵害である「性暴力」については、加害の事実を矮小化する「乱暴」などの曖昧な表現より、深刻な実態を捉えた「ごうかん(強かん)」や「レイプ」と表現すべきだと訴えてきたことについては、「考える会」の性暴力報道のリテラシーとは(1)で述べてきた。 

 ここでは、「セクハラ報道と検証を考える会」が、「デイズジャパン最終検証報告書の検証(5  米ニューヨークタイムズは「レイプ」と「合意のない性関係」を区別 において、「刑事犯の場合は”レイプ”という言葉」を使うが、それ以外では「レイプ」などの表現はあまり使わないというニューヨークタイムズと、広河氏事件について「レイプ」と報じた日本の「週刊文春」とを比較して、ニューヨークタイムズを高く評価している点について、考えたい。


 そもそも、米国の新聞・ニューヨークタイムズと、日本の週刊誌である『週刊文春』を、単純に「センセーショナルか、そうでないか」という点で比較するが、報道スタイルや取材態勢等が全く異なる媒体を比較するのは乱暴すぎると思う。 


 もちろん、ニューヨークタイムズが「レイプ」が強い意味を持つ表現だから、それより「読者にできるだけ多くの情報を提供するために、徹底的に正確に伝えようと心がけ」たというのは、正当な方策だと思う。


 一方、日本の場合、性暴力を告発する媒体としては、新聞が性暴力報道に消極的であることもあって、週刊誌での報道が多い。週刊誌の場合、あくまでその内容の如何を判断するのは読者に委ねられつつ、他の媒体では書きづらいことを表に出していく役割を担っている面はある。そして、広河氏事件についても『週刊文春』で取り上げられ、初めて広河氏が性暴力事件を起こしていることが発覚したということだ。『週刊文春』の広河氏の事件を報じる記事では「レイプ」が使われている(「あの人は私を2週間毎晩レイプした」広河隆一”性暴力”被害女性が涙の告発」)。しかしそこでの「レイプ」表現は、被害女性の発言部分であり、鉤括弧がつけられている。『週刊文春』は、被害女性の発言部分以外では「レイプ」表現を使わないというほどには、抑制的であるといえよう。いずれにしろ、米国の新聞と日本の週刊誌を単純に比較し、米国の新聞を評価するというのは、議論として粗雑すぎるのではないだろうか。


 また、「考える会」が「ニューヨークタイムズでは、セクハラ記事に“レイプ”という言葉を使わず、“合意のない性的関係”などを使用してきました」。「日本でも、“レイプ”(=強かん)は犯罪行為です(刑法177条 強制性交罪)。このニューヨークタイムズの基準に照らして考えてみましょう。」というのも乱暴な議論で、誤解を与えるものだ。


 まず、「考える会」は、「複数のジャーナリストと弁護士らが議論」しているという解説文を引いて、日本でも「“レイプ”(=強かん)は犯罪行為(刑法177条 強制性交罪)。」だから「ニューヨークタイムズの基準に照らして考えてみましょう。」と書く。しかし、このニューヨークタイムズの文章は、「レイプ」の代わりに「合意のない性的関係」を使ったことへの批判が相当届いたたためにそれへの応答として書かれたものである。そのため「レイプ」を使わなかった理由を縷縷説明したものだ。


 ニューヨークタイムズは、「キャンパスレイプ」など学生の事例で告訴されているケースでは「レイプ」表現を使ったが、裁判になっていない場合には、刑事事件という意味合いを帯びる表現ではあるものの、「性的暴行(sexual assault)」を最もよく使っているなど、性暴力をいかに表すかで苦慮していることを説明している。「合意のない性的関係」についても、性暴力の場合、「合意」の有無が重要だから、使っているものの、深刻な事例、暴力的な場合には、それよりも「性的暴行(sexual assault)」を使っているなどと状況次第で用語も変わることについて説明を加えている。だがそうしたことには触れず、ニューヨークタイムズが単に「合意のない性的関係」としてきたかのように「考える会」が書くのは、性暴力の矮小化であり、誤解を招くものだ。


 さらに、「考える会」は欧米の報道ガイドラインを礼賛するが、報道ガイドラインは刑事司法制度を基準にしている点で限界もある。ニューヨークタイムズも書いていることだが、国や州によって「レイプ」の定義が異なっているという問題もある。新聞が「レイプ」と報道しても、その意味内容が読者によって理解が異なるということになるからだ。


 

 さらに、単純に「欧米を基準に」というのが通用しない要素には、国により刑事司法制度が相当異なるという面もある。性犯罪の場合、被害の記憶を忘却しないと生き延びることができないほどダメージが大きい場合もあり、被害を認識するのに時間がかかることも多い。英国などでは、すでに性犯罪について公訴時効が撤廃されているが、日本ではいまだ短いままであり、その結果、深刻な性暴力であっても、刑事事件化しづらいという問題がある。広河氏の被害例でも時効という壁に阻まれているケースもあるのではないだろうか。


 このように「考える会」のニューヨークタイムズと週刊文春の比較は、単純すぎて、抜け落ちるものが多すぎる。報道スタイル等が異なること、報道ガイドラインと各国の刑事司法との関係、欧米と日本の刑事司法の違いなど、抜け落ちている部分にこそ考えるべき重要な点がある。これでは、「考える会」は、ただ単に広河氏の性暴力を報道した『週刊文春』の信ぴょう性を貶めようとして、「欧米」を持ち出しているだけだ、と言わざるを得ない。

2020年9月22日火曜日

「考える会」の性暴力報道のリテラシーとは(1)



今回は、「セクハラ報道と検証を考える会(以下、「考える会」と略す)」の「セクハラ報道」に関する議論を検討していきたい。

 「考える会」は、「日本における性被害をなくし、セクシャルハラスメント報道のリテラシーを考えていきたい」と設立にあたって述べる一方(「セクハラ報道と検証を考える会」設立の趣旨)、日本では海外とは異なり、性暴力を報じるための手引書などは存在せず、性暴力と報道に関する議論も起きていない(「増加する海外のセクシュアル・ハラスメント報道」)と、日本での性暴力と報道の議論が不活発であるとし、それに懸念を示す。

 さらに、「海外ではセクハラや性暴力の報道においては、使用される言葉が非常に重要とされています」などと海外の報道状況を評価する一方、日本の性暴力報道では「レイプ」を使うなど表現に問題があるとして、広河氏の性暴力を報道した週刊誌を批判している。

 そこで本稿では、「考える会」の主張する、以下の3点について順次、検討していく。

1)「考える会」が、日本では性暴力を報じるための手引書などは存在せず、性暴力と報道に関する議論も起きていないと主張している点について
2)「考える会」が『週刊文春』の「レイプ」表現を批判している点について
3)「考える会」が「セクハラ報道」と「セクハラ」を名称に掲げている点について

  まず、今回取り上げるのは、「考える会」が「日本では、セクシャルハラスメントや性暴力を報じるための特別な手引書のようなものはいまだ存在せず、そうした議論も起きていない。」と主張する点についてだ。「考える会」としては、「被害者たちを傷つけないためにも、また過度に煽る報道がなされないためにも、最低の規定は必要だ」と述べる(「増加する海外のセクシュアル・ハラスメント報道」)。要するに、性暴力やセクシャルハラスメントと報道についての議論はまだ起きてないという主張だ。

 しかし、そんなことはない。これまでフェミニズムはずっとマスメディアに対し、性暴力やセクシャルハラスメントなどの報道について、性差別という観点から抗議や議論をしたり、ガイドラインを提起してきている。そして報道も差別をしないという観点から「記者ハンドブック」や「用語の手引」などでフェミニズムの主張を取り入れている。「考える会」はそうした性暴力と報道をめぐる動きに疎いのではないか。

 以下では、日本の新聞報道において、「性暴力」関連の用語が報道でどのように扱われてきたか、そしてそれに対してフェミニズムという観点からどのような働きかけが行われてきたか、その経緯を紹介しておきたい。最後に、現在の「記者ハンドブック」や「用語の手引」での性暴力の扱いを確認しておく。

 長らく、マスメディアでは、性暴力については「(性的)いたずら」「乱暴」「婦女暴行」などと軽く大したことではないという意味を持たされた用語が使われ、問題の本質を曖昧にし、実態が矮小化されてきた歴史があった。しかし、日本でも1970 年前後にウーマンリブ運動が起き、メディア報道における性差別を問題にする流れが盛んになった。それ以降、さまざまな女性グループがメディアの性差別表現について抗議したり、TVや新聞、雑誌などにおける性差別について、問題提起を続けてきた。当時、女性運動と女性記者は性差別表現やガイドラインについて議論を積み重ねており、そうした成果も反映していると考えられる。

 例えば、1975年に生まれた「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」は、「マス・メディアの性差別を告発」することを大きな柱して取り組んできた。セクシャルハラスメントや性暴力の撤廃は、その中で、重要な課題であり続けた(「マス・メディアの性差別を告発」行動する会記録集編集委員会編『行動する女たちが拓いた道ーメキシコからニューヨークへ』(駒野陽子、未来社、1999年、p.20)。こうした流れの中で、1980年代に、「その暴力的人権侵害の本質を表現した」用語として「性暴力」が使われるようになった(宮淑子『性暴力 レイプ』(サンマーク出版、1984年)。すなわち、「性暴力」という言葉自体、「フェミニズムによる対抗言語」として生まれたものなのだ。

 「性暴力」をどう表現するかはメディアの性差別問題では、常に重要な懸案だった。マスメディアは、これまで「強姦(かん)」を「不快用語」として扱い、それゆえ「婦女暴行」「暴行」あるいは「乱暴」などと曖昧な表現に言い換えてきた。フェミニズムはそうした報道姿勢を問題にし、「強姦(かん)」罪に相当するのであれば、「強姦(かん)」と明記することを提案してきた。「不快用語」とするのは、もちろん筋違いである上、「暴行」と言い換えると、一般の暴力行為と紛らわしく、加害者の社会的責任を軽減し、犯罪や容疑の実態をあいまいにする。そのため、女性の性的・身体的自由を侵害し、心身を深く傷つける重大な人権侵害である「性暴力」の実態を捉えた表現にすべきだと、フェミニスト視点によるガイドラインを訴えてきた。『きっと変えられる性差別語ー私たちのガイドライン』(上野千鶴子・メディアの中の性差別を考える会編、三省堂、1995年)はそうしたガイドライン提案の一つだが、そこでは「いたずら」「婦女暴行」「乱暴」、「わいせつ」など性暴力を隠蔽する表現について、被害者が特定されないような十分な配慮をした上で、性暴力であることを明記した表現にするよう求めている。

 もちろん、マスメディアがすぐにフェミニズムの訴えにより人権を配慮した表現に変えたかというとそうではなかった。例えば、「メディアの中の性差別を考える会」が1991年に全国の新聞各社および、日本外国特派員協会所属の海外ジャーナリストに性差別表現について行ったアンケート調査では、「性犯罪報道において「いたずら」や「淫らな行為」という表現を使うことについてどう考えるか」という問もあった。その結果によれば、「『強姦』などの表現は読者に不快感を与えるので、好ましくない」という国内新聞社の回答が85%に達したという(「性差別的表現をめぐる新聞各社へのアンケート」メディアの中の性差別を考える会『メディアに描かれる女性像 新聞をめぐって』桂書房、1991年、pp.1790-195)。「被害者の人権に配慮して、30年前から『強姦』は使用されなくなった」と説明する社もあった。その一方、海外メディアの回答は、数は6名と少ないものの全員が、「いたずら」ではなく「強かん(レイプ)」とはっきり書くと答えていた。理由として「犯罪事実を明確にすることは、情報伝達の必須条件」「その他の表現をつかうことは偽善」などをあげており、海外と日本のメディアのギャップは大きかった。

 しかし、その後、日本でも性暴力に関して、刑法が110年ぶりのに改正されたり、報道の基準が変化したりしている。2017年には、性暴力犯罪について、従来「強姦罪」として被害者は女性で、性交のみを対象としてきたものを、被害者・加害者の性別を問わず、性交のみならず性交類似行為を含めることとし、名称も「強制性交等罪」に変わり、量刑も最低5年へと厳罰化した。この改正では、時効が短いことや、地位を利用して起こる性加害が入らないことなど残された課題も多く、2020年に見直すという付帯決議が付けられた。

 報道ガイドラインについても、共同通信社『記者ハンドブック13版』(2016年)では「被害者が特定される恐れがない場合に限り、罪名・容疑名は「強姦(ごうかん)」を使ってもよい」と被害者の人権を最大限に守った上で、加害の深刻さを示す「強姦(ごうかん)」を「容疑」としても使うことを認めた。同『記者ハンドブック』については、確認できた範囲では、少なくとも2002年度版以降は、言い換えとして「乱暴」も例には入れているものの、「女性暴行」「性的暴行」をあげるなど、単なる暴力ではなく、性暴力であることを明示する方向に進んでおり、刑法改正前の2016年度版では「強姦(ごうかん)」という罪名表記も認めている。それは、共同通信が、『記者ハンドブック』において、1990年代後半以降、「性別を理由にした社会的、制度的な差別につながらないよう注意する」などのように、「性差別」に留意するようになったことと連動した、被害者の人権への留意の結果と考えられる。

 『朝日新聞の用語の手引』(2019年)は、「ごうかん(強姦)」を「性的暴行」と言い換えるよう例示しつつ、「『強制性交罪』の旧称である『強姦罪』などは別」と注記している。これは「強姦」罪に相当するのであれば、「ごうかん(強姦)」などの罪名を明記することを認めるというものだ。共同通信社のように、「容疑名」であっても「強姦(ごうかん)」とすると踏み込んでいるところもある。ただし刑法上の罪名で使われていた「強姦」だが、「姦」という漢字が女性蔑視的だとフェミニズムからの批判があり、上述の朝日の『手引』でもそれを避けて「ごうかん」と提示されてきた経緯がある。このようにまだ問題があるとはいえ、「不快用語」として隠蔽していた時代からは一歩前進だ。

 すなわち、「考える会」がいう「日本では、セクシャルハラスメントや性暴力を報じるための特別な手引書のようなものはいまだ存在せず」という主張については、「手引書」の中で基準を示そうとしている。また、「考える会」は「そうした議論も起きていない。」と海外の報道ガイドラインのみを紹介するが、日本でも、70年代からフェミニズムが取り組んできた歴史を見落としている。議論があるにもかかわらず、報道側が取り入れるのが遅れているのは、日本のメディアが性差別や性暴力について遅れをとっていることの表れだ。いずれにしろ「考える会」の国内での「性暴力報道」についての主張は、事実とはだいぶズレていることだけは確かだ。