2020年12月2日水曜日

「考える会」の性暴力報道のリテラシーとは (3)

ここまで「セクハラ報道と検証を考える会(以下、「考える会」)」による、日本の「性暴力」と報道について、2回にわたって取り上げ、「考える会」は、性暴力とその報道について、重要な点を見落としていることを明らかにしてきた。 


「考える会」の性暴力報道のリテラシーとは(1)


「考える会」の性暴力報道のリテラシーとは(2)


 今回は、性暴力と報道についての3回目として、「考える会」が「セクハラ報道と検証を考える会」という自身の団体の名称をはじめとして、日本語の「セクハラ」という用語を使って、広河氏の性暴力を矮小化していることについて見ていきたい。日本語の「セクハラ」表現は、英語の「セクシャルハラスメント」の語が長いため、その略称として、マスメディアなどで使われることもある。だが、「セクハラ」は、「セクシャルハラスメント」のように法的な定義や解釈が付随する表現とは異なり、さまざまな意味で使われており、男性中心的な社会では、往々にして、「軽微なもの」「大したことがない」と受け止められる可能性もつきまとう表現だ。


 「考える会」は、「『セクハラ報道と検証を考える会』設立の趣意」というブログ記事において、「各メディアはこうしたデリケートな問題(セクシャルハラスメントおよび性暴力)を報道する際、ジャーナリズム倫理や人権尊重に基づき、細心の注意を払って被害者救済を最優先に伝えるよう努めて」いるとし、自らも「日本における性被害をなくし、セクシャルハラスメント報道のリテラシーを考えていきたい」としている。さらに「考える会」は、「加害者を擁護し、被害者を傷つける報道」をしないために「言葉遣い」などに注意することが重要だというのだ。つまり「考える会」は、人権を尊重し、言葉遣いなどに細心の注意を払って、被害者救済に資するよう活動する団体だと標榜しているようだ。しかし、本当にそうなのだろうか。以下、疑問を呈していきたい。


「考える会」は、「ジャーナリズム倫理」や「人権尊重」などを一般論で論ずるときは「セクシャルハラスメント」という言葉を使っておきながら、以下で示す3つの記事例のように、広河氏が登場すると見出しまで含めて積極的に「セクハラ」表現を使うようになるようだ。広河氏が犯した加害の話になると、「ジャーナリズム倫理」や「人権尊重」を論じていたことを忘れたかのようだ。



1.   「週刊文春の広河氏セクハラ記事の取材録音を入手」


2. デイズジャパン最終検証報告書の検証(15)【NYタイムズと週刊文春】日本は告発型が主流 研究者や法律家も鵜呑みに 」


3. デイズジャパン最終検証報告書の検証(16)【NYタイムズと週刊文春】セクハラ被害者1人で4ページ」 



 1番目の記事は、『週刊文春』による広河記事を批判している「考える会」が、広河取材の録音を持っているということで、広河氏本人と極めて近い関係にあることを示すものである。見出しに「セクハラ」という表現を使って、広河氏の事件を軽く見せようとしている。


2番目と3番目の記事は、日本メディアと欧米メディアを対比し、日本メディアを低く見ることで、広河氏の加害に関する報道の信憑性を貶める内容だ。広河氏の加害を矮小化しようとして「大したことではない」というニュアンスを醸し出す「セクハラ」表現を使ったものだ。このように広河氏の事件を矮小化しようとする記事内容と見出しの「セクハラ」表現が符合していることから、「考える会」が、内容と表現の双方から広河氏の加害を矮小化し、広河氏を擁護しようとしているのが見て取れる。


 さらに、「考える会」の「セクハラ」表現の使用において、もう一つ重要なのが、団体の名称に「セクハラ」を使っていることだ。冒頭で確認したように、「考える会」は言葉遣いなどに細心の注意を払い、被害者を救済する団体であるかのように書いているが、その一方で、自身の団体の名称にあいまいな意味合いを持つ「セクハラ」表現を敢えて採用している。


「考える会」が広河氏など加害者の出てくる局面に限って「セクハラ」と表記するのは、加害者側に寄り添っているということだ。上記の3つの記事例や団体の名称は、日本語の「セクハラ」表現にさまざまな意味があることに乗じて、広河氏の性暴力を軽微なものと印象づけている。


もちろん、いかなる場合にも「セクハラ」という言葉を使うことがいけないと言っているわけではないが、「考える会」の使用例は、広河氏の性暴力を矮小化する目的で使っているようにしか見えない。



このように、ある時は「報道のリテラシー」をと言い、広河氏が出て来ると途端に、恣意的に「セクハラ」を使うという「考える会」による二枚舌の行動を見せつけられると、「考える会」の主張に説得力があるようにはとても思えない。「考える会」は、広河氏の事件を矮小化しようという真の目的を、人権やらジャーナリスト倫理やらを喧伝してカムフラージュしているだけではないだろうか。



 この連載の第1回では、性暴力と報道に関するガイドラインや基準がフェミニズム運動や女性学の成果であること、そして「考える会」はそうした背景知識に無頓着なままに海外の基準を中途半端に紹介していることを指摘した。第2回では、背景などすっとばしてただひたすらニューヨークタイムズ紙を褒めちぎる反面、広河氏の性暴力を報道した週刊文春の信憑性を貶めようとしていたことを記した。そして今回は、会の名称や広河記事に、恣意的に「セクハラ」表現を用いているのは、広河氏の加害行為を単なる軽い「セクハラ」と矮小化しようとしているという疑問を示した。



「考える会」は、「報道のリテラシー」を啓蒙する、「性被害をなくす」などと言っているが、このように陰湿な形で広河氏の加害を擁護しようとするなら、「報道についてのリテラシー」を語る資格などない。いわんや、「性被害をなくす」ための団体だなどという見え透いた口上は、広河被害者の方たちをどれだけ傷つけるか、想像に難くない。