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2023年11月25日土曜日

ドキュメンタリー監督土井敏邦氏による広河隆一氏への「公開書簡」は、さらなるセカンドレイプを誘発した

ドキュメンタリー映画監督の土井敏邦氏が、広河隆一氏への「公開書簡」を出しました。




土井敏邦氏のブログ

フェースブックでは公開設定で〈広河隆一氏への公開書簡〉

https://www.facebook.com/toshikuni.doi/posts/10231586633784778?locale=ja_JP

(この記事をアップする直前に私は土井氏のFBからブロックされました)

X(旧ツイッター)ではここです。

ブログではここです。http://doi-toshikuni.net/j/column/20231124.html 

土井氏は、『週刊文春』で広河隆一氏の性暴力告発記事が出た直後、2019年1月12日付けで「『ジャーナリスト・広河隆一』私論」と題する文章を発表しました。その文の中では、広河氏の性暴力を認め、失望しながらもその業績と自分との関係を細かく記述した上で、「ただ『紙の一部が黒いから、紙全体が黒』とする空気はどうしても納得できないのだ」と言い、

かつてジャーナリスト・広河隆一氏の仕事を仰ぎ見、目標としてきた後輩ジャーナリストとして、この「性暴力」事件で広河氏の全人格と、これまでのジャーナリストとしての、また社会活動家としての広河氏の実績が全否定されようとする動きに、私は抗(あらが)う。たとえどんな非難を浴びようともだ。

と宣言しました。そのことで土井氏は、広河氏を擁護していると多くの批判を浴びましたが、「どんな非難を浴びようとも抗う」と言っていたわりにその後全く「抗う」気配はありませんでした。それが約5年経って「本格復活」したとでもいいましょうか、①「なぜ今、広河氏の公開書簡なのか」②「広河氏への提言」③「広河隆一氏への私信」(2019年12月23日付)④「【「デイズジャパン検証委員会・報告書」を読んで】」(2020年1月9日付)と連続して一挙掲載しています(①~④と番号をつけたのは本ブログです)。③と④は過去の文書、①と②は現在の文書ということになります。

③の、2019年12月23日付の広河氏への「私信」は、「文春」報道一年後のもので、

  • 19年8月時点で、広河氏は土井氏へのメールで、自分が行なったことを「あれは恋愛だった」と言っていた。
  • 広河氏は土井氏に、ある弁護士の「性暴力」に言及しながら「過剰なMe TOO運動の生贄にされている」と主張していた。

など、広河氏は随所で主張しているような性暴力の否定と自己の被害者化を、土井氏に対してもやっていたようです。

この私信の内容は、被害者の「傷の痛み」に向き合いなさいと広河氏に強く訴えながらも、同時に「広河氏の業績は否定されてはいけない」という主張を繰り返し、「正義を説くジャーナリスㇳって所詮、実態はこんな連中なんだ!」という「空気」にたいして「いや違う!」ということを「自分の仕事と生き方を通して、社会に示し続ける」と訴えています。

この私信の中で土井氏は、語るに落ちるというのか、「正義のジャーナリスト」についた汚名は違うということを自分の「仕事と生き方を通して」示すと言っています。土井氏は、「仕事」と「生き方」が不可分であることを実は知っているのでしょう。それなのに、眼前で広河氏が、性暴力を否定するという、人間の「生き方」にあるまじき姿勢を示しているのに、広河氏の「業績を全否定せず死守する」という姿勢を変えないのです。

これは自己矛盾ではないでしょうか。その矛盾は土井氏の文章から察する限り、長年にわたる土井氏の広河氏への個人的尊敬と愛着といった私情から来ているものではないでしょうか。「正義ジャーナリストの名誉を汚さないでくれ!」というご自分の名誉にかけたこだわりとも受け取れます。

これらはどれも、「被害者目線」からかけ離れたものです。性暴力被害者は、「加害者の仕事をどこまで否定してどこから肯定するのか」といった次元で物事を感じ考えることはないでしょう。その男が目の前に現れたら、もしくはそれを想像するだけで全身の毛が逆立ちフラッシュバックが起こるでしょう。ましてや自らの性暴力を否定している加害者の「業績」の話ばかりする人間からは「セカンドレイプ」を感じるだけでしょう。

ちなみにこの「私信」の中で土井氏は、ジャーナリスト伊藤詩織さんが受けた性被害について語っていますが、被害者の伊藤さんをフルネームで言及しながら、当時から加害者として名前が知れ渡っていた、事件時は伊藤さんよりずっと有名な権力者であった山口敬之氏のことを「山口某」といって名前を隠しています。ここからも、土井氏が無意識に、被害者よりも加害者を守ろうとする傾向があるのではないかと勘ぐってしまいます。

④の、【「デイズジャパン検証委員会・報告書」を読んで】では、2019年1月の「私論」に来た数々の批判を「バッシング」と言い切って自己被害者化しています。検証委員会報告書を読み、広河氏の性暴力の悪質さに驚きながらも受け入れているようですが、「人格と実績を全否定する動きに同意できない」という考えは「揺らいでいない」と言っています。

現在の考えを語っている①の部分でも、

繰り返すが、私が「擁護」しているのは「広河氏の過去の仕事」であって、「広河氏の性暴力」ではない。

と言っています。と同時に、

最初のコラムで私が反省すべき点は、広河さんのジャーナリストとしての「実績」の抹殺に「抗おう」とするあまり、被害者の女性たちの“痛み”に思いを馳せられなかったことです。そのことは私が深く反省しなければならないことです。

とも言っています。

私(乗松聡子)は土井さんのフェースブックにこう書き込みました。

読んで「ホモソーシャル」という言葉がどんぴしゃだと思いながらコメント欄にいったらすでに別の方が書いてましたね。土井さんは最初から最後まで「自分」にとっての広河、「自分」の被害者化、「自分」と広河の関係の話しかしていません。被害者にとってあなたにとっての素晴らしい広河像と広河がやったことをどう落とし前をつけるかなんてどーでもいいことです。あなた以外は誰も関心ありませんよ。『私が反省すべき点は、広河さんのジャーナリストとしての「実績」の抹殺に「抗おう」とするあまり、被害者の女性たちの“痛み”に思いを馳せられなかったことです。そのことは私が深く反省しなければならないことです。』と本当に思っているのなら、その反省にもとづいた何か当時とは違う姿勢を見せるのかと思ったらゼロですよね。いまだに全否定はいけないとか言ってる。人権活動の中で女性を踏みにじることがどうしてできたのかなんて簡単ですよ。広河の「人権」の中に女性の人権が入ってなかった、それだけです。選択的人権活動家だったわけです。シオニストの、イスラエル人に人権はあるがパレスチナ人の人権などどうでもいいと一緒で。男には人権があるが女の人権などどうでもいい。外で人権や平和をやりながら家では妻を殴っている。そんなの左派の男には、はいて捨てるほどいますよ。それらの男たちを「業績は別だ」って言う人は、その人たちも選択的人権活動家、つまり人権蹂躙者だっていうことです。人権を踏みにじりながら業績をきずいた広河の人権活動を否定しないなら、同様に人権を踏みにじりながら業績をきずいたジャニー喜多川も否定しないんでしょうか?もう一度ご自分の文を、被害者の立場で読み直してみてください。被害者がこれを読んだらどう思うと思いますか?人の想像力を問題視するのならまずはご自分の想像力を磨いてくださいね。「広河隆一の擁護者」と言われたくないのならまずは広河と自分のことばかり考えるのをやめ、広河に人生を壊された被害者たちの立場に立ってみたらどうでしょうか?

「二次加害」についてよくまとまっているこのサイトにもリンクをはりました。

サバイバーを踏みにじる「二次加害」の暴力

特に土井氏にはこの項目を読んで欲しいです。

  • ■加害者の功績を持ちだして、加害行為を矮小化する
  • ■公に加害者を応援する、励ます
土井さんの文①を読めば、いまなぜ広河氏に「公開書簡」を書くかの理由として一つに、「広河さんのイスラエルからの報告をFBで散見したこと」、またもう一つに、最近パレスチナ、ガザについて土井氏の仕事が多く露出しているが、5年前「広河氏擁護」と批判されたブログをそのままにしていいのかとの声があると、尊敬するジャーナリストから言われたからと言っています。

要するに、いまガザの出来事をうけて、広河氏の性暴力事件についての自分の考えが自分の現在の仕事に悪影響を及ぼしては困るから、というのが今回の「公開書簡」の主要な動機であることがわかります。

私は土井さんのFBにこうも書き込みました
単純に言えば誰のために書いているのかということです。土井さんのは自分のためにしか見えないです。被害者ではなく。
が、まさしく土井氏は自分の仕事に支障があると困るから5年間放置して全く「抗う」こともしてこなかった問題を掘り起こして名誉挽回をはかったということなのでしょう。

土井さんに問いたいのです。あなたはどこを見ているのですかと。5年前は「被害者の痛みに思いを馳せなかった」と反省しているのなら、その反省に基づいた言動をしてください。

広河氏は「公開書簡」について11月24日こう返答しました。
広河氏が反省するどころか自分の性暴力を発信した媒体を訴えているという事実がまた被害者の眼前で確認されることになってしまいました。土井さんの「公開書簡」がセカンドレイプなだけではなく広河氏からのさらなるセカンドレイプを誘発したのです。


これが私から土井さんへの「提言」です。

乗松聡子

2023年3月24日金曜日

速報:広河隆一氏が文春を訴えた

 広河隆一氏は昨年12月初頭からぱたりとFacebookやTwitterでの発信をやめていたので何かが起こるとの予感があったが、3月23日、TwitterとFacebookで、株式会社文藝春秋を名誉毀損で訴えたとの報告があった。以下は氏のTwitter。Facebookでも同じ内容の報告をしている。

さる3月14日には、性犯罪の実態に合わせた刑法の改正案などが閣議決定された。「強制性交罪」を「不同意性交罪」に、「強制わいせつ罪」は「不同意わいせつ罪」に変更し、従来は「暴行や脅迫」を用いたことが構成要件になっていたが、そのような「暴行や脅迫」の要件が見直され、構成用件として、1)暴行又は脅迫を用いる 2)心身に障害を生じさせる 3)アルコール又は薬物を摂取させる 4)睡眠その他の意識が明瞭でない状態にする 5)拒絶するいとまを与えない 6)予想と異なる事態に直面させて恐怖させ、又は驚愕させる、いわゆる「フリーズ」状態、7)虐待に起因する心理的反応を生じさせる 8)経済的又は社会的関係上の地位に基づく影響力によって受ける不利益を憂慮させる の8項目が加わった。その他、時効の延長、性行為の同意ができるとされる年齢を13歳以上から16歳以上に引き上げる、性的行為を目的に子どもを手懐ける「グルーミング」にあらたな罪を設けるなどの刑法改正が、政府は今国会で成立を目指すという。(参考:NHKハフポストなどの報道)

広河隆一氏の性暴力の場合は、フォトジャーナリストを目指す等の目的で氏の事務所で働いたり、ボランティアをしたりしていた若い女性たちが被害に遭っており、明らかに氏の経済的、社会的関係上の地位を利用した性暴力であった。日本でも刑法の規定が変わり、「同意なき性」が性犯罪であるという当たり前のことがやっと認められるようになるという矢先に、広河隆一から、自身の性暴力を告発した媒体に対して訴訟を起こすという行為は、社会の動きに完全に逆行しているとしか思えない。

当の広河氏は、「この数年間、社会的なバッシングを浴び続けてきました」と言っている。自分が性暴力の加害者であることを認めていないことで受けてきた批判を「バッシング」としてしか受け止められず、自分を完全に被害者化している。そこには氏の性暴力の被害者への配慮などは片鱗も感じられず、これから裁判が進行するにおいて、被害者たちがあらゆる形でセカンドレイプ(二次加害)を受ける可能性も全く考慮していないようだ。

わたしたち「忘れない会」は、この裁判を注視し、情報を収集し、このブログ上で随時報告していくつもりだ。



2022年11月13日日曜日

広河隆一氏のツイッターアカウントが公開アカウントに

 2022年11月12日、広河隆一氏が突如自身のツイッターアカウントの「鍵」を外し、公開アカウントに移行した。

リツイートが可能になったことをアピールしていることから、氏が自身の活動を広く周知させることを望んでいることが伺われる。

私たちは「告発」以降の広河氏の活動のうち公になっているものを把握し、彼が自身に対する告発の意味を依然として理解できていないことを当ブログで明らかにしてきた。きちんとした反省も謝罪もないままに公然と活動を再開することは被害者に対する二次加害になりかねない。公開アカウントへの移行を批判するとともに、今後とも氏の活動を注視してゆくことを宣言しておく。 

2022年6月3日金曜日

広河隆一氏がnote弁明文で、木村嘉代子氏が広河氏擁護ブログで、それぞれ裏付けもなく『文春』取材で金銭授受があったかのように記述。記者と元社員3人は否定。

2022年3月8日、広河隆一氏は、自らの性暴力を認めることもしないまま、前文と8章で構成されている長文を「note」に発表した。女性の人権をこれだけ侵害した人間が、よくも「国際女性デー」に当てつけるかのごとくの投稿をしたと思う。自分の性暴力の禊を目的とした投稿で被害者の傷に塩を塗る行為ではないかと思うと同時に、アンチフェミニズム的な挑発にも見える。 

また、広河氏はnoteプロフィール写真に子どもの写真を使っているが、無垢な幼い子の写真で汚れた自分のイメージを洗浄しようとでもいうのだろうか。広河氏はこの被写体に許可を取っているのか。報道写真では被写体すべてに許可を取れないときもあるだろうが、これはよりによってプロフィール写真であり、広河氏は自分自身を代表する画像としてこの写真を使っているのだから報道写真の場合とは事情が違う。 

広河氏が書く性暴力についての弁明文のプロフィール写真に自らの顔写真を使うことを進んで許可する人などこの世にいるのだろうか。この被写体には人格と権利がある。広河氏は、自分のイメージ洗浄のために幼い子の顔を消費することからして、今でもやはりpredator-数々の性暴力やパワハラを行ったときと同様、自分より弱い相手を獲って喰う捕食者であることに変わりはないのではないか。 

この長文の内容は全体的に、加害者である自己の被害者化、『週刊文春』の記事とデイズジャパンの「検証報告書」が信用できるものではないという印象を作り出そうとしている文である。広河氏の被害者にとっては二次加害どころではない、とても耐えられない文章であろう。いろいろ批判すべき点はあるが、今回は一点のみ最終章の重大な問題を取り上げたい。 

最終章「欠けたピース」の中で、広河氏は、YouTube に公開された対談番組(2021年3月1日ライブ配信とある)で、DAYS JAPAN の最後の編集長であったジョー横溝氏が「デイズ社の社員が会社情報を週刊文春の田村記者にリークして収入を得ていた可能性について、重要な証言をしている」と書いている。この番組で横溝氏はその情報をデイズ社の顧問弁護士であった馬奈木厳太郎弁護士から得たと言っている。 

広河氏にとって2018年のデイズ社内でのいろいろな動きに不可解なところがあるということでそれを「欠けたピース」と呼んでいたが、対談番組で横溝氏が聞き伝えで言っていることについて、 

「つまり欠けていたピースには、創刊以来およそ15年間『DAYS JAPAN』で校正を中心に働いていた『週刊文春』の田村記者が、私のスキャンダル情報を集めるためにデイズ社の社員に金銭を支払って、社内情報提供を依頼していたということを証明するものだった。」 

と、「証明」とまで言い切ってしまっている。横溝氏も「可能性」としか言っていないのに、である。それも広河氏は、「横溝編集長と馬奈木弁護士は良好な関係にあったことから、このユーチューブでの横溝氏の証言は正しいと考えて間違いないだろう」と、裏付けでもなんでもない「良好な関係」を、あたかも根拠であるかのように語っているのである。 

最後には、「直接関係があるわけではないが」と言いながら、元『文藝春秋』と『週刊文春』の編集長を務めた木俣正剛氏が自著において、週刊誌への情報提供に対し「一銭も支払っていない」と強調している部分を引用してこの長文が終わっている。 

要するに、広河氏はこの8章の長文の最後に、自分の加害行為についての話題から完全に離れ、『週刊文春』で自分の人権侵害を告発した田村記者が、週刊誌の慣行に背いて金銭でDAYS JAPANの社員から情報を買っていたと、読者に印象づけて終えているのである。 

田村氏と4月に会話する機会があった。その際にこの部分について話題になったが、田村氏は、「情報をお金で買うようなことは一切しておらず事実無根」と言っていた。広河氏が8章で触れているDAYS JAPAN 元社員のKLI各氏(広河氏が文中で使ったアルファベット通り)にも聞いてみたところ、自分たちが田村氏から金銭を得て情報提供していたという事実は一切ないし、他の人についてもそういうことは聞いていないと言っていた。 

広河氏が、金銭授受という重大な問題について、伝聞だけで「証明だ」と騒ぎ立てることはジャーナリストの風上にも置けない人間とはいえないか。広河氏はこれを本当のことと決めつけ、何の確認手続きも踏まず、馬奈木氏の弁護士としての倫理問題にまで踏み込んでいる。 

ちなみに、このブログでも頻繁に取り上げて批判してきた、木村嘉代子氏が主に執筆をしてきたという、事実上広河隆一氏擁護を展開しているブログ「セクハラ報道と検証を考える会」でも、「週刊文春デイズジャパンのセクハラ記事は本当に正しいか?2/2 情報のリークに金銭支払いの疑いも」という見出しの記事がトップに出てくる(2022年5月30日アクセス時)。それも、ジョー横溝氏の発言を引用し、最後に、必要もないのに『週刊文春』元編集長の木俣正剛氏を引用して終わっているところも広河氏のnoteと同じである。 

「考える会」ブログの記事のほうが先なので、広河氏は、このブログを参考にしている可能性もあるし、このブログは広河氏と直接つながりがあることをすでに明らかにしているので、何の驚きもない。ブログでは「裏を取っていないため、これが事実かはわかりません」と言っているが、見出しで「情報のリークに金銭支払いの疑いも」と書いてしまっていては、その「疑い」が真実であるように印象づける意図があることは明らかだ。 

田村氏や上記の元社員の三人が、これについて広河氏や木村氏から取材を受けたということもないようだ。広河氏も木村氏も、「裏を取る」努力もせず、ただ疑惑だけを拡散したかったのであろう。 

広河氏はその後何事もなかったように復活しており、フェースブックやツイッターでの発信も行っている。noteの長文で禊は済んだと自分で勝手に判断したかのようである。このnoteの文は、自分の性暴力を認めず、『文春』記事や検証委員会批判に明け暮れることで被害者を二度、三度傷つけ、最後は裏付けもない田村記者やデイズ元社員への誹謗中傷で完結した文である。

(文責 乗松聡子)

 

2021年12月29日水曜日

被害者を分断する「セクハラ報道と検証を考える会」の二次加害

(お断り:以下の記事には、性暴力被害者に対する二次加害だと私たちが考える発言の引用が含まれます。閲覧いただくにあたってこの点ご承知おき下さい。) 


「セクハラ報道と検証を考える会」(以下「考える会」)の旧ブログにおいて有料記事として掲載されていた「【検証・週刊文春】強要を否定の田村記者、記事では一転「抗えないまま」に: 田村記者の取材と記事の検証(1)」という記事は新ブログに転載されていなかったが、その後加筆のうえ「週刊文春デイズジャパンのセクハラ記事は本当に正しいか?1/2 食い違う取材で得た情報と記事の内容」(以下「1/2」)及び「週刊文春デイズジャパンのセクハラ記事は本当に正しいか?2/2 情報のリークに金銭支払いの疑いも」(以下「2/2」)として掲載された。

田村栄治記者による広河隆一氏への取材の録音に依拠した『週刊文春』記事の「検証」なるものについては、すでに以下の記事で批判しておいた。

「セクハラ報道と検証を考える会」の「検証」なるものについて(1)

「セクハラ報道と検証を考える会」の「検証」なるものについて(2)

「セクハラ報道と検証を考える会」の「検証」なるものについて(3)

今回加筆された部分にも看過し難い問題があるため、ここでは加筆部分に絞って取り上げることにしたい。

まず指摘しなければならないのは「1/2」が被害者を描くそのしかたがはらむ問題点である。

この記事の特徴は、証言している「報道の仕事を志す若い女性たち」が、そのタイプによくみられる、自立心が強く、自己主張のできる女性ではなく、性的暴行に直面しても、「恐怖で言葉を発せず、抵抗もできなかった」「抗えない」といった内気で従属的な弱々しい人として描かれていることにあります。

ここで問題にされているのは『週刊文春』記事の描写方法であるが、この部分から逆に「考える会」の性暴力認識に大きな問題があることがわかる。性暴力にあった際に「抵抗」できないことを「内気で従属的な弱々しい人」という被害者の属性に起因するものとし、 「自立心が強く、自己主張のできる女性」であれば抵抗した/できたはずだとされている。抵抗できなかったこととを一方的に「内気で従属的な弱々しい」人柄と結びつける一種の犠牲者非難を行っているのは『週刊文春』ではなく、「考える会」なのである。

また『ニューヨーク・タイムズ』の記事に登場する被害者について「その何人かは、会社に抗議し、示談金で和解しています」などとしたうえで、次のように言う。

ところが、「文春」の記事に登場するのは、自分に降りかかった不幸を誰にも言えず、泣き寝入りしてしまった女性たちです。

そのため、この記事は、女性の被害者意識を強調するだけに終わっていて、#MeToo運動を盛り上げ、女性たちを応援する内容にはなっていないといえます。

「よい被害者/悪い被害者」という二分法で性暴力被害者を分断する、極めて悪質な二次加害であろう。そもそも #MeToo 運動の意義の一つは、性暴力に抵抗しあるいは自らの被害について語ることの困難さを改めて認識させたことではなかったか。ワインスタインの性暴力は長期間に渡っており、多くの被害者が沈黙を強いられてきたのであるから。先んじて声をあげた被害者の勇気を称賛するために、沈黙を強いられた被害者を貶める必要はないはずだ。まるで「模範的な被害者」が存在するかのような発想で被害者をジャッジする「考える会」の態度は、広河の被害者だけでなくワインスタインの被害者が見ても怒りを感じるものであろう。

また、「この記事は、女性の被害者意識を強調するだけに終わってい」るとか「#MeToo運動を盛り上げ、女性たちを応援する内容にはなっていない」という評価も問題だ。まず第一に、被害者の被害感情をきちんと伝えることの意味を過小評価(「だけに終わって」)している点。第二に、「女性たちを応援する内容にはなっていない」という評価も主観的な決めつけに過ぎず、事実に即しているとは思えない(そもそも『週刊文春』の狙いは「#MeToo運動を盛り上げ」ることだったのか? という疑問は措くとして)。実際には『週刊文春』の報道はかなりの関心を集め、被害者の一部がデイズジャパン社に対して民事訴訟を起こすといった動きも起きている。第三に、「そのため」という接続詞によってあたかも被害者が直ちに声を上げなかったことが「#MeToo運動を盛り上げ、女性たちを応援する内容にはなっていない」と評価する根拠となっているかのように主張されている。しかし「#MeToo運動を盛り上げ」るのに貢献する被害者/貢献しない被害者を「考える会」が選別することの問題点は先に指摘したとおりである。

また田村記者の発言に対する曲解もひどい。田村氏が取材の動機の一つに「広河氏の素顔を知らせる」ことをあげていたのを捉えて「セクハラ・性的暴行の報道は、こうした怨念を晴らすタイプでいいのでしょうか」としているのだが、根拠を欠いた決めつけとしか評しようがない。広河氏の周辺にいて薄々事情を察していた関係者は別として、多くのひとは広河氏を「いかにも性暴力を振るいそうな人物」とは思っていなかったのであるから、「広河氏の素顔を知らせる」ことが取材の動機になるのは自然なことであろう。また「怨念」というのが田村氏の感情を指しているのか被害者たちのそれを指しているのかがわかりにくい文章であるが、仮に後者なのであれば抱いていて当然の被害感情を「怨念」と表現するのも二次加害と言ってよいのではないだろうか。


「2/2」に関しては、「考える会」が自称する活動目的と実際の活動との乖離がここでも露呈していることをまず指摘したい。

この取材録音の二人の会話を聴いてなにより腹立たしいのは、女性が渾身の勇気をふるって自分の体験を告白したと思われるのに、取材した側も、取材される側も、その口調があまりにも軽々しく、女性たちの痛みに寄り添っていないところです。 

だが「考える会」は次のようなツイートによって、被害者の証言が信用に値しないかのような主張を繰り返してきた。

先に指摘した二次加害とあわせ考える時、「考える会」に対してこそ「女性たちの痛みに寄り添っていない」のではないかと指摘せざるを得ない。

またこのツイートもそうであるが、「考える会」ツイッターアカウントの投稿には繰り返し「裏取り」「裏付け」「裏づけ」という単語が登場し、検証委員会報告書や『週刊文春』報道には根拠がないという印象付けを行っている。ところが「2/2」では「考える会」がしっかりした根拠を欠いた憶測、噂の類を引き合いに出しているのである。デイズジャパンの元従業員が『週刊文春』から金銭を得て情報をリークしていた「可能性」があるというのがそれである。だがこれについて当事者の証言があるわけでもなく、「可能性がある」という会社側弁護士の認識を聞かされたというジョー横溝・元編集長の発言が参照されているに過ぎない。また仮に金銭の授受があったところで、それが直ちに『週刊文春』の報道内容の当否に関わるわけでもない。にもかかわらず、「考える会」自身「裏を取っていないため、これが事実かはわかりません」と認めているようなことをわざわざ記した理由はなんだろうか? 『週刊文春』や告発者への悪印象をつくりだすためであれば、日頃の“持論”はかなぐり捨てるのが「考える会」のやり方なのだろうか?



2020年8月2日日曜日

「セクハラ報道と検証を考える会」の「検証」なるものについて(3)

お断り:本記事が公開された後に「セクハラ報道と検証を考える会」のブログが移転(新ブログはこちら)しているのだが、以下で検証の対象とした記事「【検証・週刊文春】強要を否定の田村記者、記事では一転「抗えないまま」に: 田村記者の取材と記事の検証(1)」は移転されておらず現在閲覧することができなくなっている。

『週刊文春』2020年1月3日・10日号に掲載された田村栄治氏による記事(その電子版はこちら)について「セクハラ報道と検証を考える会」(以下「考える会」)が発表した「【検証・週刊文春】強要を否定の田村記者、記事では一転「抗えないまま」に: 田村記者の取材と記事の検証(1)」について、これまで2回にわたってとりあげてきた。

「セクハラ報道と検証を考える会」の「検証」なるものについて(1)
「セクハラ報道と検証を考える会」の「検証」なるものについて(2)

本稿では残った部分について検討したい。目次では次のようになっている項目である。
4人の女性のケース/田村氏「これもね、片方の話ですけども」
立場を利用したハラスメント行為のケース/裏取りの痕跡は記事になし
谷口真由美氏、事実を創作して広河氏を批判
※4人の女性のケース/田村氏「これもね、片方の話ですけども」
これは『週刊文春』の記事では「この3人のほか、12~17年にDAYSにかかわった女性4人からも、広河氏にセクハラを受けたという証言を得ている」としてまとめられている部分に関する批判である。広河氏からもごく簡単に話を聞いただけであり、女性たちの訴えについて「それ以外の裏とりをしていないよう」だ、とされている。
たしかに「裏とり」はできていないのかもしれない。しかし『週刊文春』の記事でもここは各女性の訴えの概略を箇条書きにしているだけの箇所である。しかも「という証言を得ている」とされているだけで、証言の評価には踏み込んでいない。

「考える会」はつづいて、記事の結び部分のやりとりをとりあげる。記事では田村氏の「女性たちは傷ついています」という追及に対して広河氏が「僕のせいじゃないでしょ」と答えたことになっている。「考える会」は「広河氏が被害者たちを突き放すように感じられる」と記事の記述を評したうえで、録音によれば「僕のせいじゃないでしょ」は被害者の一人が「今も通院している」と追及されたことに対する返答だ、と記事を批判する。
しかし被害者が「傷ついている」ことについて「僕のせいじゃないでしょ」と否認するのと、通院の原因について「僕のせいじゃないでしょ」と否認することの間に、いったいどんな違いがあるというのだろうか? 田村氏は「通院」の原因が「傷ついている」ことにあるという前提で取材しているのであるから(そして広河氏も田村氏のそうした認識は理解していることが伺える)、通院の原因が自分にはないと否認することは、すなわち「傷ついた」ことの責任が自分にはないという否認に他ならないはずである。


※立場を利用したハラスメント行為のケース/裏取りの痕跡は記事になし
この項で「考える会」が依拠しているのは、録音されたという次のようなやりとりである。
田村氏:当時編集長ですね。著名なジャーナリストであるという立場をある意味、 利用してですね、女性を...
広河:嫌がる人をそうしたらそうなるんですね......僕の仕事に対してあこがれてる人が、僕に近づいてくることもありますね。それとは違うと僕は思っていましたから。立場を利用してその人をどうにかしたという意識は僕にはまったくないですね。
この広河氏の返答が記事では「(女性たちは)僕に魅力を感じたり憧れたりしたのであって、僕は職を利用したつもりはない」とまとめられているのが不当だ、というのである。
このように、取材において、広河氏の発言は仕事にあこがれて近づいてくることと、女性と関係することは別であるという認識を述べています。しかし、週刊文春 の記事では、「僕の仕事にあこがれている」が、「僕に魅力を感じたり憧れたりした」に言い換えられています。
(https://note.com/scshm/n/n11474824b6e2)
たしかに表面的な文言だけを取り出せば「僕の仕事に」が「僕に」に変わってはいる。しかし広河氏は女性たちが「僕の仕事」に魅力を感じて近づいてくることとは「違う」と思っている、と語ったのである。女性たちが「僕の仕事」にあこがれているのを利用したのではないというのであれば、女性たちはなにゆえに広河氏と性的関係を持ったと広河氏は主張したかったのであろうか? 「僕に魅力を感じた」からだ−−女性たちは編集長としての自分の仕事にではなく自分自身に魅力を感じて近づいてきたのだから職権乱用ではない−−と主張しようとしている、というのは多くの人間にとってまず頭に浮かぶ自然な解釈であろう。もちろんこれが唯一可能な解釈だと言うつもりはない。しかし田村氏の解釈が適切でないというのなら、より蓋然性の高い解釈を「考える会」は提示すべきであろう。あるいは、「考える会」は広河氏に問い合わせを行って返答をもらえるような立場にあるわけだから、田村氏に「裏取り」を要求するだけでなく「考える会」として広河氏に真意を問いただせばよかったのではないだろうか。

※谷口真由美氏、事実を創作して広河氏を批判
「考える会」は最後に「こうした週刊誌報道を鵜呑みにして、広河氏への批判を展開した人たちのリテラシーの低さは見過ごせない」と主張し、その例として「メディアにおけるセクハラを考える会」の代表として谷口真由美・大阪国際大准教授が2018年12月26日に Facebook にポストした記事をあげている。
「事実を創作」というのは谷口氏のポストに「このように、人権派のフォトジャーナリストを標榜していた人が、身近にいる女性の存在、そして人権をあまりに軽んじてきたこと、「私に魅力があるから彼女たちがホテルまでついてきた」、それにより「同意があった」と主張するのは到底看過することができません」という一文があることを指している。「彼女たちがホテルまでついてきた」は「実際の録音記録にも、記事にも」ないから「谷口さんの創作」だ、というのである。しかし『週刊文春』の記事に基づいた広河氏の主張の要約として、「私に魅力があるから彼女たちがホテルまでついてきた」とすることが不当だとは思えない(「僕の仕事」と「僕」については前項を参照)。すると問題はせいぜい「 」の使用法でしかないということになる。たしかに「 」の主たる用法は引用であることを明示するというものである。厳密さが要求されるケースであれば、文字通りの引用ではない要約には別の記号を用いるという工夫をすることもあるだろう。しかしこれは SNS への投稿である。記事の内容と食い違うというならともかく要約としては妥当なのであるから、「事実を創作」という批判はまったくあたらない。
さらに「考える会」は谷口氏が「週刊誌報道をそのまま受けて批判しています」ともしている。しかし谷口氏のポストには「私たちの会では、告発した女性たちから、本件につき直接相談も受けており、告発内容が事実であると信じるに足る情報を得ています」とはっきり書かれているのである。これを「週刊誌報道をそのまま受けて」と評することこそ「事実を創作」という非難に値するのではないだろうか?

総括
3回にわたって「考える会」による告発記事(と記事への反響)に対する「検証」を検討してきたわけだが、いずれの主張も表面的な、些細な違いをまるで重大な齟齬であるかのように言い立てるものばかりであった。取材の録音という材料まで入手していながらこのように些末な主張しかできなかったという事実は、むしろ『週刊文春』の記事の信憑性を高めたといってよかろう。また「考える会」の論の運びのところどころに、“レイプ神話”やセクシズムと親和的な発想がみられることも明らかにできたと思われる。





2020年7月27日月曜日

「セクハラ報道と検証を考える会」の「検証」なるものについて(2)

お断り:本記事が公開された後に「セクハラ報道と検証を考える会」のブログが移転(新ブログはこちら)しているのだが、以下で検証の対象とした記事「【検証・週刊文春】強要を否定の田村記者、記事では一転「抗えないまま」に: 田村記者の取材と記事の検証(1)」は移転されておらず現在閲覧することができなくなっている。

前回に続き「セクハラ報道と検証を考える会」(以下「考える会」)の2020年3月8日付け記事「【検証・週刊文春】強要を否定の田村記者、記事では一転「抗えないまま」に: 田村記者の取材と記事の検証(1)」をとりあげ、その「検証」の内実を問いたい。今回扱うのは有料記事となる以下の部分である。
麻子さんのケース/田村氏「無理やりとは言っていないです」

智子さんのケース/田村氏「今回のお話では関係ないです」

智子さんのケース/田村氏「そのことは本人の口からは言っていませんでした」

『週刊文春』2020年1月3日・10日号に掲載された田村栄治氏による記事についてはこちらを参照していただきたい。

※麻子さんのケース/田村氏「無理やりとは言っていないです」

記事の記述が「麻子さんにNOという選択肢はなかった」となっているのに対し、取材中に田村氏が「そこは合意があったと僕は考えていいと思います」と発言していることが、「そのことと違う記事をなぜ書いた」のかと批判の対象となっている。
しかしこの田村氏の発言が広河氏の「望まない人間、そのまま嫌がる人間なんか、僕は連れて行きませんけど」(下線は引用者)という発言を受けたものであることを考えれば、この批判は当たらない。『週刊文春』の記事には次のような箇所がある。
 麻子さんによると、その夜、2人は新宿駅西口で落ち合ってタクシーに乗った。広河氏は「靖国通りに」「ここで曲がって」などと運転手に指示し、歌舞伎町のホテル街へと車を向かわせた。入口に噴水があるホテルに入り、麻子さんは広河氏とセックスをした。終えると、電車で帰宅したという。
「考える会」がとりあげているやりとりはこのうち「ホテルに入り」までの経緯についてである。田村氏が「そこ」と言っているのも同様である。記事でもホテルに着くまでに明示的な「ノー」の意思表示があったとは(そしてそれを広河氏が無視したとは)書かれていない。「考える会」が「ホテルにまでついていったのだから性行為についても同意していたのだ」を暗黙の前提としているのではないか、という疑惑が湧く。そのような前提を排するなら「そこは合意があったと僕は考えていいと思います」と(性行為について)「NOという選択肢はなかった」の間には矛盾は存在しないからである。
なお「考える会」が「望まない人間、そのまま嫌がる人間なんか、僕は連れて行きませんけど」として引用している広河氏の弁明については、『週刊文春』の記事でも、田村氏と広河氏のやりとりを抜粋した部分で(きちんと読めば麻子さんのケースであることがわかる文脈で)「望まない人間を僕は無理やりホテルに連れて行きません」というかたちで紹介されている、ということも申し添えておく。

※智子さんのケース/田村氏「今回のお話では関係ないです」

『週刊文春』の第1弾記事で「この2人の他にも、広河氏にヌード撮影をされたと証言する女性がいる」として3番目に登場する女性に関する「考える会」の主張は、録音によれば「ヌード撮影したのには合理的な理由」があったことがわかるのに田村氏はそれを記事に書かず、「あたかも広河氏がヌード撮影を強要したように印象付け」た、というものである(ただしその「合理的な理由」については「プライバシーにかかわるため公開しません」とされており、読者には伺い知れないものとなっている)。また取材中に田村氏はこの女性について「その方は、そのことはぼやかしています。その方は性被害については...」「その方は性被害、その方じゃない方で」と発言し、広河氏の「放射能汚染のときに、現地に連れて行って汚染の酷いところに入った、と。そのことで僕を訴えている人 なんですね、その人は。それは性被害とは関係ないんですね」という問いに対しても「はい。今回のお話では関係ないです」と答えた、とされている。
しかし『週刊文春』の記事を読めば、「途中で広河さんの鼻息が荒くなってきて、気持ち悪くなりました」という女性の記憶や「今夜は部屋を取ってあるから」という広河氏の誘いかけについての証言は記されているものの、このケースで広河氏がヌード撮影を“強要”したとは書かれていないことがわかる。この女性のケースは次のような主張を導くために紹介されているのである(下線は引用者)。
 こうしたヌード撮影は当事者間の合意があれば問題ないと考える人もいるかもしれない。しかし、「写真を職業とする者が立場を利用して私的に求めるのは、職業倫理にもとるセクハラ行為」という認識が、欧米などのメディアで活動する写真家たちの間では確立されている。
普通に読めば、このケースは先の2つのケースと同じような“強要”とは言えないかもしれないが、だからといって問題ないというわけではない……という扱いをされていることは明白だろう。智子さんも「どういうふうに撮られるのか興味もありました」と証言すると同時に「これからお世話になる師匠なので断りにくかったですし」とも語っており、広河氏の優越的な地位が影響していたことを伺わせる。また警戒区域での強引な撮影については(この女性に対する)ヌード撮影よりもはるかに多くの文字数を割いてとりあげられており、「性被害」よりも広河氏のパワハラ体質に力点をおいた記述になっている。その意味で田村氏の「はい。今回のお話では関係ないです」という発言と記事とに齟齬はない。

※智子さんのケース/田村氏「そのことは本人の口からは言っていませんでした」

これはデイズジャパン検証委員会「報告書」の次のような箇所に関係した主張である(94〜95ページ)。
(6) アシスタント女性からの抗議
ア 証言
〔中略。警戒区域での強引な撮影とそのことを『DAYS JAPAN』編集部に抗議した経緯についての証言が紹介されている。引用者〕
イ 広河氏の対応
 検証委員会が関係者に「広河氏のハラスメントについて何か聞いたことはないか」と尋ねたのに対し、限られた調査範囲の中であるにも関わらず 5 人もの人が「原発近くに連れていかれたとして女性から抗議を受けたという件は知っているが、それについては広河さんから後日、その女性から勘違いだったと謝罪されたと聞いている」と述べた。このことからすれば、広河氏は周囲に「あの時の女性からは後日謝罪を受けた」と何度も繰り返し話していたのだろうと思われる。
 この「謝罪」とはどういうことだったのか、当該女性にどのようなことだったのか確認したところ、以下の通りだった。その女性は広河氏によって、事前に約束もなかったのに放射線量が高い原発近くに連れていかれたことや、ヌード写真を撮影されることを断れなかったことなどを知人に相談していた。広河氏に抗議した後、相談を聞いた人から「聞かなかったことにしてほしい」「(この業界 で仕事をしたいなら)広河さんとの関係は修復したほうがいい」という趣旨のことを言われたことが あり、弱気になってしまっていた時期、偶然、デイズジャパン社の近くのカフェで広河氏と顔を合わせてしまう機会があった。その際女性は、動揺したこともあり、挨拶した上で、「福島でのことは別に、今後も仕事ではよろしくお願いします。先日は感情的になってしまいました」という趣旨のことを述べたことはあったが、原発近くに連れていかれたこと自体の抗議を撤回する趣旨では全くなかった。
 検証委員会は、女性からそのことを確認したことを広河氏に伝え、「女性は、あなたに抗議したことを勘違いだったと撤回したわけではないと言っているが」と伝えたが、広河氏は「私は謝罪と受け取った」と反論した。
「考える会」が録音から引用しているのは、この「謝罪」について田村氏が女性に「確かめ」たのかと広河氏が問うたところ田村氏が本人からは聞いていないと返答、さらに執拗に問いただす広河氏に対して田村氏が「それは、いまのお話は、性被害のお話しですか? 広河さん、その方の性被害は僕は今問題にしてないんですよ」と問い返すまでのやりとりである。「考える会」の意図は必ずしも明らかではないが、目次において田村氏の「そのことは本人の口からは言っていませんでした」という発言が強調されていることを踏まえると、女性の抗議に対して広河氏が編集長降板を約束したにもかかわらずその約束が反故にされた、という趣旨の記述が『週刊文春』の記事にあることを問題にしているのであろう。女性から「謝罪」があったのなら降板の約束も無効ではないか、というわけだ。
しかし田村氏から見れば、女性が自分の取材に対して編集部への抗議について話している以上、「謝罪」して抗議を撤回したという認識を持っていないことは、改めて問うまでもなく明らかなことであろう。「考える会」が引用したやりとりはむしろ、警戒区域でどのような取材を行ったかという事実よりも、自分に対する「謝罪」の有無にこだわる広河氏の姿勢について強い印象を残す。仕事のうえで強い影響力をもつ広河氏との関係の破綻を避けようとする若い女性の言葉を「謝罪」だと受け止める広河氏の姿を強調することは、広河氏が自身の優越的な立場にいかに無自覚であるかを示すことになりかねないと思われるのだが、「考える会」にはそのような認識が欠けているようである。


2020年7月21日火曜日

「セクハラ報道と検証を考える会」の「検証」なるものについて(1)

お断り:本記事が公開された後に「セクハラ報道と検証を考える会」のブログが移転(新ブログはこちら)しているのだが、以下で検証の対象とした記事「【検証・週刊文春】強要を否定の田村記者、記事では一転「抗えないまま」に: 田村記者の取材と記事の検証(1)」は移転されておらず現在閲覧することができなくなっている。

2020年の1月から note 上で活動を始めた「セクハラ報道と検証を考える会」(以下「考える会」)。会の名称からすると「セクハラ」報道一般に関する問題意識から発足しているようにみえるが、設立の趣意を記した記事ではデイズジャパン検証委員会の「報告書」を「検証」することが目的として掲げられ、現にその後2ヶ月半の間に公開された記事の大半は検証委員会「報告書」を批判するものとなっている。事実上広河隆一氏を擁護することを目的として活動してきた、と言っても過言ではないだろう。
本稿では「報告書」批判ではない数少ない記事の一つである「【検証・週刊文春】強要を否定の田村記者、記事では一転「抗えないまま」に: 田村記者の取材と記事の検証(1)」をとりあげ、「考える会」の「検証」の内実を検証してみたい。なお、2020年3月8日に「(1)」が公開された後、本稿執筆時点まで「(2)」以降は公開されていない。

この記事で「検証」の対象となっているのは『週刊文春』2020年1月3日・10日号に掲載された田村栄治氏による記事(その電子版はこちら)である。「考える会」が「関係者」から入手したという田村氏と広河氏のやりとりの録音が参照されており、その録音の一部はこちらで公開されている。記事の目次は以下の通りである。
杏子さんのケース:田村氏「強要とは言っていません」

杏子さんのケース:田村氏「無理やり撮ったとは言っていない」

麻子さんのケース/田村氏「無理やりとは言っていないです」

智子さんのケース/田村氏「今回のお話では関係ないです」

智子さんのケース/田村氏「そのことは本人の口からは言っていませんでした」

4人の女性のケース/田村氏「これもね、片方の話ですけども」

立場を利用したハラスメント行為のケース/裏取りの痕跡は記事になし

谷口真由美氏、事実を創作して広河氏を批判


「杏子さんのケース:田村氏「強要とは言っていません」
」で問題とされているのは、録音された次のようなやりとりである(強調は原文)。
田村:(ホテルの)部屋に行ったら、その場で、入ったらすぐのように関係を持たされた、と。
広河:強要したんですか?
田村:いや強要とは言っていません。まぁ、本人は、断る間もなく、という言い方をしてますけども。そこは、広河さんそういうことは…
広河:断る間もなく、そういうことをするってあり得ないですよ。
田村:そうですか。まぁ、それは本人がおっしゃっていたことなんですけど。
これに対して『週刊文春』記事では「あっという間にベッドに移動させられ、抗えないままセックスが終わった」となっており、内容が「符合」しないというのだ。
しかしこれは明らかに言いがかりというものであろう。仮に広河氏の「強要したんですか?」という問いに対して田村氏が「そうですね」などと答えていたら「考える会」はどうコメントしただろうか? 「田村氏は予断をもって取材していた」と批判するのではないだろうか? 一方の当事者である広河氏に取材するにあたって、もう一方の当事者である杏子さんの主張に対する取材者の最終的な判断を留保しておくことは当然である。この時点で田村氏が「強要したとは言ってません」と発言し、取材の結果記事を執筆する際に「強要があった」と(執筆者および編集部の責任において)判断しそう書いたとしても、そのことだけで不誠実と謗られるいわれはあるまい。まして田村氏は「強要した」という書き方は避け、あくまで杏子さんの認識として「抗えないまま」と書いているのである。


「杏子さんのケース:田村氏「無理やり撮ったとは言っていない」
」の場合も同様である。杏子さんら複数の被害者から“裸の写真を撮られた”という訴えがあることについて、録音では広河氏の「嫌がっているのを、僕が無理やり撮ったということですか?」という問いに対して田村氏が「そうは言っていないですけど」と答えていることをとりあげ、記事中で「とくに断りもなく何枚か撮られた」という杏子さんの証言を引用していることが問題視されている。しかし『週刊文春』の記事は広河氏に取材した時点での田村氏の心証を記しているのではなく、広河氏への取材を終えたうえでの田村氏の心証に基づいて書かれているのであるから、両者が「符合しない」というのは無意味な主張であろう。

さらに田村氏は裸の写真を撮った理由を執拗に尋ねたとし、つぎのようなやりとりを紹介している。
田村氏:なぜ裸じゃなければ駄目なんですか?
広河:裸じゃなきゃダメだなんて僕は言っていません。これ以上その質問に対しては腹が立ってきます。……あなたの中で女性の裸に興味がまったくないんだったら別ですが。
「考える会」としては広河氏を擁護する目的で紹介したのであろうこのやりとりから、性暴力に関する広河氏の認識の甘さを読み取ることができると当会は考える。写真であれ映画や絵画や彫刻であれ、人間の裸をモチーフとすることはモデルにとって侵襲的たりうる手法であって、「裸」であることの必然性や制作プロセスの適正さが問われることはいまや常識と言ってよい。2018年には写真家・荒木経惟氏のモデルをつとめていた女性がネットで荒木氏によるハラスメントを告発していることを広河氏と「考える会」は知らなかったのだろうか? 
また、「女性の裸に興味がまったくないんだったら別ですが」という広河氏の発言は田村氏の“劣情”に訴えかけて自己弁護する目論見なのだろうが、広河氏がヘテロセクシズムを、そして「女の裸に興味を持ってこそ男」という男性観を自明の前提としていることが露呈してしまっている。


「田村記者の取材と記事の検証」のこれ以降の部分は有料となっているので、また稿を改めてとりあげることにしたい。



2020年5月31日日曜日

「一般財団法人 日本フォトジャーナリズム協会」のフェースブック上の「通告書」は二次加害である


広河隆一氏(フォトジャーナリスト、及び株式会社デイズジャパン前代表取締役)の性暴力とパワハラが広く知られるようになったきっかけを作った、『週刊文春』の2019年1月3・10日号「7人の女性が#MeToo セックス要求、ヌード撮影『世界的人権派ジャーナリスト<広河隆一>の性暴力を告発する』」、同年2月7日号「新たな女性が涙の告発『広河隆一は私を二週間毎晩レイプした』」をはじめ、『文春オンライン』でこの問題について記事を書き続けているジャーナリスト田村栄治氏による最新記事「“性暴力”広河隆一氏が設立した“人権団体” 大物写真家たちはなぜ守ろうとするのか」(2020年4月28日)がネットで公開された。

その後すぐ、この記事で批判の対象となっている「一般財団法人 日本フォトジャーナリズム協会」が、この記事の著者である田村氏に抗議と謝罪を要求し、文春オンラインにも文書回答を求める「通告書」をフェースブックで発表した。私たちは今回のブログ投稿で、この「通告書」は二次加害(セカンドレイプ)であるということを指摘したい。

★★★

上記の文春オンライン記事は、広河氏が2018年11月に設立した一般財団法人「日本フォトジャーナリズム協会」(以下、「協会」と略すこともある)が、広河氏の人権侵害が発覚した後にも存続し続けていることに疑問を投げかけている。記事が指摘するように、広河氏は「DAYS JAPAN」(デイズジャパン)誌上において、2018年11月20日付けで、2019年3月号限りでの休刊を宣言しているがその際に、
世界的なフォトジャーナリズムのコンテストとなった「DAYS国際フォトジャーナリズム大賞」については、非営利の「一般財団法人日本フォトジャーナリズム協会」を設立し、1年間の休止期間の後、ボランティアの方々の手で2019年秋の募集開始から再開したいと考えています。
と述べている。これを見るだけでも、著者の田村氏が言うように、広河氏は「日本フォトジャーナリズム協会」を「DAYS JAPAN」誌休刊後の「活動の足場」にしようとしていたことがわかる。広河氏の長年にわたる人権侵害が明るみになるのは、この休刊宣言から一ヶ月後のことだった(『週刊文春』2019年1月3・10日号は前年12月26日発売だった)。

田村氏の今回の記事によると、その半年後、2019年6月に広河氏はこの協会の役員を「写真界の重鎮や、広河氏との交流のあった社会的影響力のある人々など」8人に総入れ替えしている。広河氏から代表理事になるように頼まれ引き受けた内堀毅氏は、田村氏の取材に対し、広河氏の問題は知っていつつも「それとは切り離してやっていければいい」と語ったという。理事の一人である田沼武能氏も、この団体はいま「広河さんとは一切関係ありません」と言ったという。

しかし記事は、新役員が「広河人脈」であることに加え、「日本フォトジャーナリズム協会」の基本財産500万円のうち半分は広河氏が拠出しており、同協会の「目的」も設立時と全く変わっていないことに言及、さらにこの協会は株式会社デイズジャパンが設置した検証委員会による検証に対しても協力を拒否し、広河氏自身もこの協会の新役員が誰なのかを検証委に伝えなかったと指摘する。最後に、広河氏の性暴力を受けた一人の女性の次のような言葉を引用して記事は終わっている。
「被害に遭った女性たちは誰一人、広河氏側から何の救済も補償もされていません。広河氏が資金を投じて設立した団体なのに、『被害者の声は関係ない、自分たちは大事な活動をしている』というのであれば、ジャーナリズムという大義を振りかざして女性たちを黙らせてきた広河氏と何ら変わりません。被害の実態を無視しないでください。」
 (文春オンライン記事全文はここを参照してください。)

4月28日に出たこの記事を受け、5月1日に、「ワセダクロニクル」編集長の渡辺周氏がウェブサイトで、「ワセダクロニクル」の編集幹事を務めていた木村英昭氏が「日本フォトジャーナリズム協会」の理事を務めていたということに対して謝罪し、5月1日付で、木村氏が「ワセダクロニクル編集幹事および特定非営利活動法人ワセダクロニクルの理事を辞任」し、「ワセダクロニクルのメンバーから退会」したことを報告した。渡辺氏は、「元々は広河氏が作った団体で活動することは性暴力の被害に遭った方々の気持ちをふみにじるものです。ワセダクロニクルの理念とはあいいれません」と述べている。

さて、当の「日本フォトジャーナリズム協会」はどうかといえば、それまでウェブサイトも持たず、SNSでの存在もなく、何をやっているかも一般にわかる存在ではなかったのに、文春オンライン記事の発表後に突然フェースブックのページを作り、その最初の投稿として、4月30日付けで、田村氏に抗議し謝罪を求め文春オンラインにも文書での回答を求める、代理人の弁護士による「通告書(謝罪要求書)」を公開した。

この通告書は、1-4の項目に分かれているが、到底説得力があるとはいえるものではなく、おまけに、広河氏の性暴力の事実や被害者の存在に疑いを投げかけるかの如くの表現を使っている。以下、この項目に呼応する形でコメントしたいと思う。(原文は、ここを見てください。

項目1では、この記事で日本フォトジャーナリズム協会を広河氏の「思いが込められた団体」と言っていることから、協会の「活動継続が広河氏のための活動であるかのようにこじつけ」、これが事実に基づかないとしている。しかしこの記事では、協会が「広河氏のための活動」をしているなどとは言っていない。言ってもいないことを勝手に想像し、それが「事実に基づかない」とケチをつけるのはおかしいのではないだろうか。この場合「事実に基づかない」のはご自分たちの勝手な想像であって、田村氏の書いていることではない。

また、広河氏の「思いが込められた」という表現についてだが、この協会は広河氏が設立し、広河氏が半分出資し、設立目的も変わっておらず、役員が変わったと言っても広河人脈で構成されている。それに加え、この協会として、一度も公に広河氏の性暴力やパワハラを糾弾し、広河氏との決別を宣言するようなこともなかった。そのような団体が、広河氏の「思いが込められた」と呼ばれるのは当然ではないのか。

また協会は、田村氏の記事にある、協会が「被害者の傷口に塩を塗ってまで継続させていくことに、どれほどの価値があるというのか」と問うている部分の、「被害者の傷口に塩を塗る」という表現についても「誹謗」であると言っているが、実際田村氏は被害者の一人から、協会が「被害者の声を全く顧み」ていないと感じている言葉を取っているのである。「被害者の傷口に塩を塗る」と書かれたことを協会が「誹謗」と断定するやり方は、協会がまさしく被害者の声を顧みていないことを証明してしまったことになる。

項目2では、この記事が、代表理事の内堀毅氏の参加を、「同団体を『DAYS JAPANを休刊した後の活動拠点にする意思』という広河氏の思惑への賛同であるかのように描き出している」と言って怒っている。まず、この記事はそうは言っていない。しかし、内堀氏に「広河氏の思惑への賛同」の意思がなかったとしても、この団体は、先述のように「DAYS国際フォトジャーナリズム大賞」を引き継ぐと広河氏が宣言している。この記事で取材された内堀氏も、「DAYSの国際大賞は大変なので別のものになるかもしれませんが、いずれフォトジャーナリズムの賞をやり、セミナーも開きたいと思っています」と語っている。

繰り返すが、この協会が、公的に広河氏の性暴力とパワハラを糾弾し、広河氏との決別を宣言し、被害者に寄り添った姿勢を見せ、被害者を支援し、フォトジャーナリズムの世界からセクハラやパワハラをなくすような活動を行ってきたというのなら、「広河氏と一緒にしないでくれ」という主張をする資格もあるのかもしれないが、この団体はそのようなことを一切やっていない。やっていないどころか、上に示したようにこの「通告書」でも被害者の声を顧みないような様子があるし、「通告書」の3項目でその真逆ともいえる記述をしている。まさしく「被害者の傷口に塩を塗る」としか思えない表現である。
「念のために改めていえば、報道されている広河氏のセクハラ事件なるものについて、同団体の役員でこれを肯定する者など誰一人いない。」

「セクハラ事件なるもの」???セクハラ事件をどうしてそのまま「セクハラ事件」と言えないのか。「なるもの」という表現を敢えて付け足すことによって、「人によってはセクハラ事件と呼んでいるもの」と言っているように聞こえる。「これを肯定する者など誰一人いない」などと自慢げに言っているが、それでは協会の役員たちは、性暴力を犯し、それに向き合わない広河氏に対してこれまで同業者としてどれだけ真剣に怒りを表明してきたのか。私たちには全く見えてこない。

広河氏の性暴力・セクハラ・パワハラが多数あったことは検証委員会で事実認定がされている。しかし4月28日の文春オンライン記事を読むと、内堀氏はどうやらこの検証委さえ疑っていたらしい。記事によると、検証委の聞き取りを拒否したことについて聞かれて「検証委の調査は偏っていて中立ではないと感じた」と述べているという。

この「通告書」の第3項目で協会はさらに、

「複数いるとされる被害者女性のうち」

と言っている。「複数いるとされる」???どうしてここでまた、「される」という、しっかりわかっていないかのような表現を使うのか。

これらを見ると、日本フォトジャーナリズム協会は、広河氏の性暴力、セクハラの事実や被害者の訴えを軽視しているのではないかと思うのである。

項目4については、文春記事に、広河氏や株式会社デイズジャパンから被害者への損害賠償が行われていないという記述があることから、協会は、田村氏がこの記事を書いたのは、日本フォトジャーナリズム協会の資産を目当てにしているのではないかとの憶測をしている。その上で、「仮に田村氏がこの資産に注目して、賠償金回収の可能性があると被害女性に示唆したのであれば、」とか、全く根拠のない仮定をしており、それが「本記事作成の狙い」ではないかと疑っているのだ。これこそ「いちゃもん」「妄想」の類ではないか。

このように協会はこの「通告書」を通じて、田村氏が記事で言ってもいないことを勝手に想像し、その上でその想像が「事実と違う」と主張して田村氏自身が事実と異なることを書いているかのような印象操作をしている。

しかし何よりも怒りを覚えるのは、「・・・なるもの」「・・・とされる」というような、広河氏の性暴力の事実自体に疑いを投げかけるような表現だ。第3項目のタイトルにさえ、「『傷口に塩を塗る』なるもの」という、「なるもの」表現を使っている。

「広河隆一氏とデイズジャパン経営陣の人権侵害を忘れない会」メンバーの乗松聡子は、協会のフェースブックにあるこの「通告書」(4月30日付)を読んで、コメントを残した(5月4日)。その時点で、私より前にある人が「意味不明」という否定的なコメントを残していたので、それに続ける形で、こう書いた。


そうしたら、このコメントはすぐに協会によって非公開設定にされてしまった。一番最初の「意味不明」というコメントも非公開になっていた。その後も次々と鋭い批判コメントが入ったので乗松はそれに「いいね」しようと思ったらもうそれができず、それ以上のコメントをしようとしても受け付けられなくなった。そう、協会は乗松を「ブロック」したのだ。「ジャーナリズム」を標ぼうする公的団体が、公開投稿に対してきた批判的なコメントをかたっぱしから非公開にし、批判者をブロックしているのだ。

もう一つ、非公開(あるいはブロック)にされてしまった Onyo Nyao さんのコメントを、許可をもらってここに公開している。大変的確な批判だと思うので見てほしい。

その後、ブロックに対する批判が高まったせいかどうかはわからないが、現在、協会の「通告書」投稿には、乗松からは、4人の女性からのコメントが見える(非公開設定にされたコメントは、フェースブックの友だち同士の場合は見られるようである。だから人によって見えるコメントが異なる)。この方々から許可をもらいここに転載する(4人のうち2人は、「広河隆一氏とデイズジャパン経営陣の人権侵害を忘れない会」のメンバーである)。
篠原幸代:3の部分、広河による性暴力事件が「事実でない」としか読めません。この様な発信は文字通り「被害者の傷口に塩を塗る」行為でありセカンドレイプ。問題だと思います😡
山口智美:私もこの文書はセカンドレイプに他ならないと思います。3の部分は最悪ですし、さらに4での「これが事実とすれば、被害者らには気の毒なことだと思う。」というところも、全くもって他人事としているように読めます。広河氏の問題は、フォトジャーナリズムという業界の問題でもあると思いますが、そうした視点は皆無どころか、さらにセカンドレイプを行うとは、ジャーナリズムを名乗る公的団体としてありえない態度及び振る舞いではないでしょうか。
斉藤正美:あれえ?この文書についていたコメントが見えなくなっていますが、どうしたのでしょうか。未だにコメント数だけは5つありますが、私が読めるのは、お一人分のみです。もしこの後私が何か書いても、他の人から見えなくなってしまうのかなと不安なものがあります。ジャーナリズム協会と名乗っておられるのですから、公明正大なスタンスでお願いしたいと思います。コメントの行方について、およびコメントへのスタンスを協会として表明していただきたくお願いします。
 横山知枝:自分達に都合の悪いコメントを片っ端から削除もしくは非公開にしている人達が目指すジャーナリズムって、なんなんですか?
5月30日時点では、「通告書」投稿にはコメント数が「10」とある。上の4人のコメントに加え、自分も含め把握している非公開またはブロックされてしまったコメントは3つあるので、10から4と3を引いて、あと3つは、非公開設定にされているコメントがあるということになる。またこの「通告書」は24回シェアされており(5月30日時点)、シェアする際のコメントも見えている限りは批判的なものばかりだ。

乗松の以下の5月7日のツイートには5月29日時点で305のリツイートがあり、553の「いいね」がついている。



「通告書」がセカンドレイプだという感じ方には、フェースブックで同様のコメントを残した人たちだけではなく、これだけたくさんの人たちが共感を寄せている。

日本フォトジャーナリズム協会の、文春記事の著者に対する言いがかりともいえる「通告書」は、それ自体が被害者へのセカンド・レイプであり、性暴力を認めず謝罪も賠償もしていない広河氏を事実上擁護しているとしか考えられない性質のものだ。協会の人々には、これらの批判を受け止め、広河氏の性暴力・セクハラ・パワハラの被害者の立場に立った発信をしてこその「ジャーナリズム」ではないでしょうか、と伝えたい。


(文責 乗松聡子)