2020年12月2日水曜日

「考える会」の性暴力報道のリテラシーとは (3)

ここまで「セクハラ報道と検証を考える会(以下、「考える会」)」による、日本の「性暴力」と報道について、2回にわたって取り上げ、「考える会」は、性暴力とその報道について、重要な点を見落としていることを明らかにしてきた。 


「考える会」の性暴力報道のリテラシーとは(1)


「考える会」の性暴力報道のリテラシーとは(2)


 今回は、性暴力と報道についての3回目として、「考える会」が「セクハラ報道と検証を考える会」という自身の団体の名称をはじめとして、日本語の「セクハラ」という用語を使って、広河氏の性暴力を矮小化していることについて見ていきたい。日本語の「セクハラ」表現は、英語の「セクシャルハラスメント」の語が長いため、その略称として、マスメディアなどで使われることもある。だが、「セクハラ」は、「セクシャルハラスメント」のように法的な定義や解釈が付随する表現とは異なり、さまざまな意味で使われており、男性中心的な社会では、往々にして、「軽微なもの」「大したことがない」と受け止められる可能性もつきまとう表現だ。


 「考える会」は、「『セクハラ報道と検証を考える会』設立の趣意」というブログ記事において、「各メディアはこうしたデリケートな問題(セクシャルハラスメントおよび性暴力)を報道する際、ジャーナリズム倫理や人権尊重に基づき、細心の注意を払って被害者救済を最優先に伝えるよう努めて」いるとし、自らも「日本における性被害をなくし、セクシャルハラスメント報道のリテラシーを考えていきたい」としている。さらに「考える会」は、「加害者を擁護し、被害者を傷つける報道」をしないために「言葉遣い」などに注意することが重要だというのだ。つまり「考える会」は、人権を尊重し、言葉遣いなどに細心の注意を払って、被害者救済に資するよう活動する団体だと標榜しているようだ。しかし、本当にそうなのだろうか。以下、疑問を呈していきたい。


「考える会」は、「ジャーナリズム倫理」や「人権尊重」などを一般論で論ずるときは「セクシャルハラスメント」という言葉を使っておきながら、以下で示す3つの記事例のように、広河氏が登場すると見出しまで含めて積極的に「セクハラ」表現を使うようになるようだ。広河氏が犯した加害の話になると、「ジャーナリズム倫理」や「人権尊重」を論じていたことを忘れたかのようだ。



1.   「週刊文春の広河氏セクハラ記事の取材録音を入手」


2. デイズジャパン最終検証報告書の検証(15)【NYタイムズと週刊文春】日本は告発型が主流 研究者や法律家も鵜呑みに 」


3. デイズジャパン最終検証報告書の検証(16)【NYタイムズと週刊文春】セクハラ被害者1人で4ページ」 



 1番目の記事は、『週刊文春』による広河記事を批判している「考える会」が、広河取材の録音を持っているということで、広河氏本人と極めて近い関係にあることを示すものである。見出しに「セクハラ」という表現を使って、広河氏の事件を軽く見せようとしている。


2番目と3番目の記事は、日本メディアと欧米メディアを対比し、日本メディアを低く見ることで、広河氏の加害に関する報道の信憑性を貶める内容だ。広河氏の加害を矮小化しようとして「大したことではない」というニュアンスを醸し出す「セクハラ」表現を使ったものだ。このように広河氏の事件を矮小化しようとする記事内容と見出しの「セクハラ」表現が符合していることから、「考える会」が、内容と表現の双方から広河氏の加害を矮小化し、広河氏を擁護しようとしているのが見て取れる。


 さらに、「考える会」の「セクハラ」表現の使用において、もう一つ重要なのが、団体の名称に「セクハラ」を使っていることだ。冒頭で確認したように、「考える会」は言葉遣いなどに細心の注意を払い、被害者を救済する団体であるかのように書いているが、その一方で、自身の団体の名称にあいまいな意味合いを持つ「セクハラ」表現を敢えて採用している。


「考える会」が広河氏など加害者の出てくる局面に限って「セクハラ」と表記するのは、加害者側に寄り添っているということだ。上記の3つの記事例や団体の名称は、日本語の「セクハラ」表現にさまざまな意味があることに乗じて、広河氏の性暴力を軽微なものと印象づけている。


もちろん、いかなる場合にも「セクハラ」という言葉を使うことがいけないと言っているわけではないが、「考える会」の使用例は、広河氏の性暴力を矮小化する目的で使っているようにしか見えない。



このように、ある時は「報道のリテラシー」をと言い、広河氏が出て来ると途端に、恣意的に「セクハラ」を使うという「考える会」による二枚舌の行動を見せつけられると、「考える会」の主張に説得力があるようにはとても思えない。「考える会」は、広河氏の事件を矮小化しようという真の目的を、人権やらジャーナリスト倫理やらを喧伝してカムフラージュしているだけではないだろうか。



 この連載の第1回では、性暴力と報道に関するガイドラインや基準がフェミニズム運動や女性学の成果であること、そして「考える会」はそうした背景知識に無頓着なままに海外の基準を中途半端に紹介していることを指摘した。第2回では、背景などすっとばしてただひたすらニューヨークタイムズ紙を褒めちぎる反面、広河氏の性暴力を報道した週刊文春の信憑性を貶めようとしていたことを記した。そして今回は、会の名称や広河記事に、恣意的に「セクハラ」表現を用いているのは、広河氏の加害行為を単なる軽い「セクハラ」と矮小化しようとしているという疑問を示した。



「考える会」は、「報道のリテラシー」を啓蒙する、「性被害をなくす」などと言っているが、このように陰湿な形で広河氏の加害を擁護しようとするなら、「報道についてのリテラシー」を語る資格などない。いわんや、「性被害をなくす」ための団体だなどという見え透いた口上は、広河被害者の方たちをどれだけ傷つけるか、想像に難くない。




2020年10月14日水曜日

「考える会」の性暴力報道のリテラシーとは(2)ーーデイズジャパン最終検証報告書の検証(5)  米ニューヨークタイムズは「レイプ」と「合意のない性関係」を区別

 フェミニストたちが、重大な人権侵害である「性暴力」については、加害の事実を矮小化する「乱暴」などの曖昧な表現より、深刻な実態を捉えた「ごうかん(強かん)」や「レイプ」と表現すべきだと訴えてきたことについては、「考える会」の性暴力報道のリテラシーとは(1)で述べてきた。 

 ここでは、「セクハラ報道と検証を考える会」が、「デイズジャパン最終検証報告書の検証(5  米ニューヨークタイムズは「レイプ」と「合意のない性関係」を区別 において、「刑事犯の場合は”レイプ”という言葉」を使うが、それ以外では「レイプ」などの表現はあまり使わないというニューヨークタイムズと、広河氏事件について「レイプ」と報じた日本の「週刊文春」とを比較して、ニューヨークタイムズを高く評価している点について、考えたい。


 そもそも、米国の新聞・ニューヨークタイムズと、日本の週刊誌である『週刊文春』を、単純に「センセーショナルか、そうでないか」という点で比較するが、報道スタイルや取材態勢等が全く異なる媒体を比較するのは乱暴すぎると思う。 


 もちろん、ニューヨークタイムズが「レイプ」が強い意味を持つ表現だから、それより「読者にできるだけ多くの情報を提供するために、徹底的に正確に伝えようと心がけ」たというのは、正当な方策だと思う。


 一方、日本の場合、性暴力を告発する媒体としては、新聞が性暴力報道に消極的であることもあって、週刊誌での報道が多い。週刊誌の場合、あくまでその内容の如何を判断するのは読者に委ねられつつ、他の媒体では書きづらいことを表に出していく役割を担っている面はある。そして、広河氏事件についても『週刊文春』で取り上げられ、初めて広河氏が性暴力事件を起こしていることが発覚したということだ。『週刊文春』の広河氏の事件を報じる記事では「レイプ」が使われている(「あの人は私を2週間毎晩レイプした」広河隆一”性暴力”被害女性が涙の告発」)。しかしそこでの「レイプ」表現は、被害女性の発言部分であり、鉤括弧がつけられている。『週刊文春』は、被害女性の発言部分以外では「レイプ」表現を使わないというほどには、抑制的であるといえよう。いずれにしろ、米国の新聞と日本の週刊誌を単純に比較し、米国の新聞を評価するというのは、議論として粗雑すぎるのではないだろうか。


 また、「考える会」が「ニューヨークタイムズでは、セクハラ記事に“レイプ”という言葉を使わず、“合意のない性的関係”などを使用してきました」。「日本でも、“レイプ”(=強かん)は犯罪行為です(刑法177条 強制性交罪)。このニューヨークタイムズの基準に照らして考えてみましょう。」というのも乱暴な議論で、誤解を与えるものだ。


 まず、「考える会」は、「複数のジャーナリストと弁護士らが議論」しているという解説文を引いて、日本でも「“レイプ”(=強かん)は犯罪行為(刑法177条 強制性交罪)。」だから「ニューヨークタイムズの基準に照らして考えてみましょう。」と書く。しかし、このニューヨークタイムズの文章は、「レイプ」の代わりに「合意のない性的関係」を使ったことへの批判が相当届いたたためにそれへの応答として書かれたものである。そのため「レイプ」を使わなかった理由を縷縷説明したものだ。


 ニューヨークタイムズは、「キャンパスレイプ」など学生の事例で告訴されているケースでは「レイプ」表現を使ったが、裁判になっていない場合には、刑事事件という意味合いを帯びる表現ではあるものの、「性的暴行(sexual assault)」を最もよく使っているなど、性暴力をいかに表すかで苦慮していることを説明している。「合意のない性的関係」についても、性暴力の場合、「合意」の有無が重要だから、使っているものの、深刻な事例、暴力的な場合には、それよりも「性的暴行(sexual assault)」を使っているなどと状況次第で用語も変わることについて説明を加えている。だがそうしたことには触れず、ニューヨークタイムズが単に「合意のない性的関係」としてきたかのように「考える会」が書くのは、性暴力の矮小化であり、誤解を招くものだ。


 さらに、「考える会」は欧米の報道ガイドラインを礼賛するが、報道ガイドラインは刑事司法制度を基準にしている点で限界もある。ニューヨークタイムズも書いていることだが、国や州によって「レイプ」の定義が異なっているという問題もある。新聞が「レイプ」と報道しても、その意味内容が読者によって理解が異なるということになるからだ。


 

 さらに、単純に「欧米を基準に」というのが通用しない要素には、国により刑事司法制度が相当異なるという面もある。性犯罪の場合、被害の記憶を忘却しないと生き延びることができないほどダメージが大きい場合もあり、被害を認識するのに時間がかかることも多い。英国などでは、すでに性犯罪について公訴時効が撤廃されているが、日本ではいまだ短いままであり、その結果、深刻な性暴力であっても、刑事事件化しづらいという問題がある。広河氏の被害例でも時効という壁に阻まれているケースもあるのではないだろうか。


 このように「考える会」のニューヨークタイムズと週刊文春の比較は、単純すぎて、抜け落ちるものが多すぎる。報道スタイル等が異なること、報道ガイドラインと各国の刑事司法との関係、欧米と日本の刑事司法の違いなど、抜け落ちている部分にこそ考えるべき重要な点がある。これでは、「考える会」は、ただ単に広河氏の性暴力を報道した『週刊文春』の信ぴょう性を貶めようとして、「欧米」を持ち出しているだけだ、と言わざるを得ない。

2020年9月22日火曜日

「考える会」の性暴力報道のリテラシーとは(1)



今回は、「セクハラ報道と検証を考える会(以下、「考える会」と略す)」の「セクハラ報道」に関する議論を検討していきたい。

 「考える会」は、「日本における性被害をなくし、セクシャルハラスメント報道のリテラシーを考えていきたい」と設立にあたって述べる一方(「セクハラ報道と検証を考える会」設立の趣旨)、日本では海外とは異なり、性暴力を報じるための手引書などは存在せず、性暴力と報道に関する議論も起きていない(「増加する海外のセクシュアル・ハラスメント報道」)と、日本での性暴力と報道の議論が不活発であるとし、それに懸念を示す。

 さらに、「海外ではセクハラや性暴力の報道においては、使用される言葉が非常に重要とされています」などと海外の報道状況を評価する一方、日本の性暴力報道では「レイプ」を使うなど表現に問題があるとして、広河氏の性暴力を報道した週刊誌を批判している。

 そこで本稿では、「考える会」の主張する、以下の3点について順次、検討していく。

1)「考える会」が、日本では性暴力を報じるための手引書などは存在せず、性暴力と報道に関する議論も起きていないと主張している点について
2)「考える会」が『週刊文春』の「レイプ」表現を批判している点について
3)「考える会」が「セクハラ報道」と「セクハラ」を名称に掲げている点について

  まず、今回取り上げるのは、「考える会」が「日本では、セクシャルハラスメントや性暴力を報じるための特別な手引書のようなものはいまだ存在せず、そうした議論も起きていない。」と主張する点についてだ。「考える会」としては、「被害者たちを傷つけないためにも、また過度に煽る報道がなされないためにも、最低の規定は必要だ」と述べる(「増加する海外のセクシュアル・ハラスメント報道」)。要するに、性暴力やセクシャルハラスメントと報道についての議論はまだ起きてないという主張だ。

 しかし、そんなことはない。これまでフェミニズムはずっとマスメディアに対し、性暴力やセクシャルハラスメントなどの報道について、性差別という観点から抗議や議論をしたり、ガイドラインを提起してきている。そして報道も差別をしないという観点から「記者ハンドブック」や「用語の手引」などでフェミニズムの主張を取り入れている。「考える会」はそうした性暴力と報道をめぐる動きに疎いのではないか。

 以下では、日本の新聞報道において、「性暴力」関連の用語が報道でどのように扱われてきたか、そしてそれに対してフェミニズムという観点からどのような働きかけが行われてきたか、その経緯を紹介しておきたい。最後に、現在の「記者ハンドブック」や「用語の手引」での性暴力の扱いを確認しておく。

 長らく、マスメディアでは、性暴力については「(性的)いたずら」「乱暴」「婦女暴行」などと軽く大したことではないという意味を持たされた用語が使われ、問題の本質を曖昧にし、実態が矮小化されてきた歴史があった。しかし、日本でも1970 年前後にウーマンリブ運動が起き、メディア報道における性差別を問題にする流れが盛んになった。それ以降、さまざまな女性グループがメディアの性差別表現について抗議したり、TVや新聞、雑誌などにおける性差別について、問題提起を続けてきた。当時、女性運動と女性記者は性差別表現やガイドラインについて議論を積み重ねており、そうした成果も反映していると考えられる。

 例えば、1975年に生まれた「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」は、「マス・メディアの性差別を告発」することを大きな柱して取り組んできた。セクシャルハラスメントや性暴力の撤廃は、その中で、重要な課題であり続けた(「マス・メディアの性差別を告発」行動する会記録集編集委員会編『行動する女たちが拓いた道ーメキシコからニューヨークへ』(駒野陽子、未来社、1999年、p.20)。こうした流れの中で、1980年代に、「その暴力的人権侵害の本質を表現した」用語として「性暴力」が使われるようになった(宮淑子『性暴力 レイプ』(サンマーク出版、1984年)。すなわち、「性暴力」という言葉自体、「フェミニズムによる対抗言語」として生まれたものなのだ。

 「性暴力」をどう表現するかはメディアの性差別問題では、常に重要な懸案だった。マスメディアは、これまで「強姦(かん)」を「不快用語」として扱い、それゆえ「婦女暴行」「暴行」あるいは「乱暴」などと曖昧な表現に言い換えてきた。フェミニズムはそうした報道姿勢を問題にし、「強姦(かん)」罪に相当するのであれば、「強姦(かん)」と明記することを提案してきた。「不快用語」とするのは、もちろん筋違いである上、「暴行」と言い換えると、一般の暴力行為と紛らわしく、加害者の社会的責任を軽減し、犯罪や容疑の実態をあいまいにする。そのため、女性の性的・身体的自由を侵害し、心身を深く傷つける重大な人権侵害である「性暴力」の実態を捉えた表現にすべきだと、フェミニスト視点によるガイドラインを訴えてきた。『きっと変えられる性差別語ー私たちのガイドライン』(上野千鶴子・メディアの中の性差別を考える会編、三省堂、1995年)はそうしたガイドライン提案の一つだが、そこでは「いたずら」「婦女暴行」「乱暴」、「わいせつ」など性暴力を隠蔽する表現について、被害者が特定されないような十分な配慮をした上で、性暴力であることを明記した表現にするよう求めている。

 もちろん、マスメディアがすぐにフェミニズムの訴えにより人権を配慮した表現に変えたかというとそうではなかった。例えば、「メディアの中の性差別を考える会」が1991年に全国の新聞各社および、日本外国特派員協会所属の海外ジャーナリストに性差別表現について行ったアンケート調査では、「性犯罪報道において「いたずら」や「淫らな行為」という表現を使うことについてどう考えるか」という問もあった。その結果によれば、「『強姦』などの表現は読者に不快感を与えるので、好ましくない」という国内新聞社の回答が85%に達したという(「性差別的表現をめぐる新聞各社へのアンケート」メディアの中の性差別を考える会『メディアに描かれる女性像 新聞をめぐって』桂書房、1991年、pp.1790-195)。「被害者の人権に配慮して、30年前から『強姦』は使用されなくなった」と説明する社もあった。その一方、海外メディアの回答は、数は6名と少ないものの全員が、「いたずら」ではなく「強かん(レイプ)」とはっきり書くと答えていた。理由として「犯罪事実を明確にすることは、情報伝達の必須条件」「その他の表現をつかうことは偽善」などをあげており、海外と日本のメディアのギャップは大きかった。

 しかし、その後、日本でも性暴力に関して、刑法が110年ぶりのに改正されたり、報道の基準が変化したりしている。2017年には、性暴力犯罪について、従来「強姦罪」として被害者は女性で、性交のみを対象としてきたものを、被害者・加害者の性別を問わず、性交のみならず性交類似行為を含めることとし、名称も「強制性交等罪」に変わり、量刑も最低5年へと厳罰化した。この改正では、時効が短いことや、地位を利用して起こる性加害が入らないことなど残された課題も多く、2020年に見直すという付帯決議が付けられた。

 報道ガイドラインについても、共同通信社『記者ハンドブック13版』(2016年)では「被害者が特定される恐れがない場合に限り、罪名・容疑名は「強姦(ごうかん)」を使ってもよい」と被害者の人権を最大限に守った上で、加害の深刻さを示す「強姦(ごうかん)」を「容疑」としても使うことを認めた。同『記者ハンドブック』については、確認できた範囲では、少なくとも2002年度版以降は、言い換えとして「乱暴」も例には入れているものの、「女性暴行」「性的暴行」をあげるなど、単なる暴力ではなく、性暴力であることを明示する方向に進んでおり、刑法改正前の2016年度版では「強姦(ごうかん)」という罪名表記も認めている。それは、共同通信が、『記者ハンドブック』において、1990年代後半以降、「性別を理由にした社会的、制度的な差別につながらないよう注意する」などのように、「性差別」に留意するようになったことと連動した、被害者の人権への留意の結果と考えられる。

 『朝日新聞の用語の手引』(2019年)は、「ごうかん(強姦)」を「性的暴行」と言い換えるよう例示しつつ、「『強制性交罪』の旧称である『強姦罪』などは別」と注記している。これは「強姦」罪に相当するのであれば、「ごうかん(強姦)」などの罪名を明記することを認めるというものだ。共同通信社のように、「容疑名」であっても「強姦(ごうかん)」とすると踏み込んでいるところもある。ただし刑法上の罪名で使われていた「強姦」だが、「姦」という漢字が女性蔑視的だとフェミニズムからの批判があり、上述の朝日の『手引』でもそれを避けて「ごうかん」と提示されてきた経緯がある。このようにまだ問題があるとはいえ、「不快用語」として隠蔽していた時代からは一歩前進だ。

 すなわち、「考える会」がいう「日本では、セクシャルハラスメントや性暴力を報じるための特別な手引書のようなものはいまだ存在せず」という主張については、「手引書」の中で基準を示そうとしている。また、「考える会」は「そうした議論も起きていない。」と海外の報道ガイドラインのみを紹介するが、日本でも、70年代からフェミニズムが取り組んできた歴史を見落としている。議論があるにもかかわらず、報道側が取り入れるのが遅れているのは、日本のメディアが性差別や性暴力について遅れをとっていることの表れだ。いずれにしろ「考える会」の国内での「性暴力報道」についての主張は、事実とはだいぶズレていることだけは確かだ。

2020年8月2日日曜日

「セクハラ報道と検証を考える会」の「検証」なるものについて(3)

お断り:本記事が公開された後に「セクハラ報道と検証を考える会」のブログが移転(新ブログはこちら)しているのだが、以下で検証の対象とした記事「【検証・週刊文春】強要を否定の田村記者、記事では一転「抗えないまま」に: 田村記者の取材と記事の検証(1)」は移転されておらず現在閲覧することができなくなっている。

『週刊文春』2020年1月3日・10日号に掲載された田村栄治氏による記事(その電子版はこちら)について「セクハラ報道と検証を考える会」(以下「考える会」)が発表した「【検証・週刊文春】強要を否定の田村記者、記事では一転「抗えないまま」に: 田村記者の取材と記事の検証(1)」について、これまで2回にわたってとりあげてきた。

「セクハラ報道と検証を考える会」の「検証」なるものについて(1)
「セクハラ報道と検証を考える会」の「検証」なるものについて(2)

本稿では残った部分について検討したい。目次では次のようになっている項目である。
4人の女性のケース/田村氏「これもね、片方の話ですけども」
立場を利用したハラスメント行為のケース/裏取りの痕跡は記事になし
谷口真由美氏、事実を創作して広河氏を批判
※4人の女性のケース/田村氏「これもね、片方の話ですけども」
これは『週刊文春』の記事では「この3人のほか、12~17年にDAYSにかかわった女性4人からも、広河氏にセクハラを受けたという証言を得ている」としてまとめられている部分に関する批判である。広河氏からもごく簡単に話を聞いただけであり、女性たちの訴えについて「それ以外の裏とりをしていないよう」だ、とされている。
たしかに「裏とり」はできていないのかもしれない。しかし『週刊文春』の記事でもここは各女性の訴えの概略を箇条書きにしているだけの箇所である。しかも「という証言を得ている」とされているだけで、証言の評価には踏み込んでいない。

「考える会」はつづいて、記事の結び部分のやりとりをとりあげる。記事では田村氏の「女性たちは傷ついています」という追及に対して広河氏が「僕のせいじゃないでしょ」と答えたことになっている。「考える会」は「広河氏が被害者たちを突き放すように感じられる」と記事の記述を評したうえで、録音によれば「僕のせいじゃないでしょ」は被害者の一人が「今も通院している」と追及されたことに対する返答だ、と記事を批判する。
しかし被害者が「傷ついている」ことについて「僕のせいじゃないでしょ」と否認するのと、通院の原因について「僕のせいじゃないでしょ」と否認することの間に、いったいどんな違いがあるというのだろうか? 田村氏は「通院」の原因が「傷ついている」ことにあるという前提で取材しているのであるから(そして広河氏も田村氏のそうした認識は理解していることが伺える)、通院の原因が自分にはないと否認することは、すなわち「傷ついた」ことの責任が自分にはないという否認に他ならないはずである。


※立場を利用したハラスメント行為のケース/裏取りの痕跡は記事になし
この項で「考える会」が依拠しているのは、録音されたという次のようなやりとりである。
田村氏:当時編集長ですね。著名なジャーナリストであるという立場をある意味、 利用してですね、女性を...
広河:嫌がる人をそうしたらそうなるんですね......僕の仕事に対してあこがれてる人が、僕に近づいてくることもありますね。それとは違うと僕は思っていましたから。立場を利用してその人をどうにかしたという意識は僕にはまったくないですね。
この広河氏の返答が記事では「(女性たちは)僕に魅力を感じたり憧れたりしたのであって、僕は職を利用したつもりはない」とまとめられているのが不当だ、というのである。
このように、取材において、広河氏の発言は仕事にあこがれて近づいてくることと、女性と関係することは別であるという認識を述べています。しかし、週刊文春 の記事では、「僕の仕事にあこがれている」が、「僕に魅力を感じたり憧れたりした」に言い換えられています。
(https://note.com/scshm/n/n11474824b6e2)
たしかに表面的な文言だけを取り出せば「僕の仕事に」が「僕に」に変わってはいる。しかし広河氏は女性たちが「僕の仕事」に魅力を感じて近づいてくることとは「違う」と思っている、と語ったのである。女性たちが「僕の仕事」にあこがれているのを利用したのではないというのであれば、女性たちはなにゆえに広河氏と性的関係を持ったと広河氏は主張したかったのであろうか? 「僕に魅力を感じた」からだ−−女性たちは編集長としての自分の仕事にではなく自分自身に魅力を感じて近づいてきたのだから職権乱用ではない−−と主張しようとしている、というのは多くの人間にとってまず頭に浮かぶ自然な解釈であろう。もちろんこれが唯一可能な解釈だと言うつもりはない。しかし田村氏の解釈が適切でないというのなら、より蓋然性の高い解釈を「考える会」は提示すべきであろう。あるいは、「考える会」は広河氏に問い合わせを行って返答をもらえるような立場にあるわけだから、田村氏に「裏取り」を要求するだけでなく「考える会」として広河氏に真意を問いただせばよかったのではないだろうか。

※谷口真由美氏、事実を創作して広河氏を批判
「考える会」は最後に「こうした週刊誌報道を鵜呑みにして、広河氏への批判を展開した人たちのリテラシーの低さは見過ごせない」と主張し、その例として「メディアにおけるセクハラを考える会」の代表として谷口真由美・大阪国際大准教授が2018年12月26日に Facebook にポストした記事をあげている。
「事実を創作」というのは谷口氏のポストに「このように、人権派のフォトジャーナリストを標榜していた人が、身近にいる女性の存在、そして人権をあまりに軽んじてきたこと、「私に魅力があるから彼女たちがホテルまでついてきた」、それにより「同意があった」と主張するのは到底看過することができません」という一文があることを指している。「彼女たちがホテルまでついてきた」は「実際の録音記録にも、記事にも」ないから「谷口さんの創作」だ、というのである。しかし『週刊文春』の記事に基づいた広河氏の主張の要約として、「私に魅力があるから彼女たちがホテルまでついてきた」とすることが不当だとは思えない(「僕の仕事」と「僕」については前項を参照)。すると問題はせいぜい「 」の使用法でしかないということになる。たしかに「 」の主たる用法は引用であることを明示するというものである。厳密さが要求されるケースであれば、文字通りの引用ではない要約には別の記号を用いるという工夫をすることもあるだろう。しかしこれは SNS への投稿である。記事の内容と食い違うというならともかく要約としては妥当なのであるから、「事実を創作」という批判はまったくあたらない。
さらに「考える会」は谷口氏が「週刊誌報道をそのまま受けて批判しています」ともしている。しかし谷口氏のポストには「私たちの会では、告発した女性たちから、本件につき直接相談も受けており、告発内容が事実であると信じるに足る情報を得ています」とはっきり書かれているのである。これを「週刊誌報道をそのまま受けて」と評することこそ「事実を創作」という非難に値するのではないだろうか?

総括
3回にわたって「考える会」による告発記事(と記事への反響)に対する「検証」を検討してきたわけだが、いずれの主張も表面的な、些細な違いをまるで重大な齟齬であるかのように言い立てるものばかりであった。取材の録音という材料まで入手していながらこのように些末な主張しかできなかったという事実は、むしろ『週刊文春』の記事の信憑性を高めたといってよかろう。また「考える会」の論の運びのところどころに、“レイプ神話”やセクシズムと親和的な発想がみられることも明らかにできたと思われる。





2020年7月27日月曜日

「セクハラ報道と検証を考える会」の「検証」なるものについて(2)

お断り:本記事が公開された後に「セクハラ報道と検証を考える会」のブログが移転(新ブログはこちら)しているのだが、以下で検証の対象とした記事「【検証・週刊文春】強要を否定の田村記者、記事では一転「抗えないまま」に: 田村記者の取材と記事の検証(1)」は移転されておらず現在閲覧することができなくなっている。

前回に続き「セクハラ報道と検証を考える会」(以下「考える会」)の2020年3月8日付け記事「【検証・週刊文春】強要を否定の田村記者、記事では一転「抗えないまま」に: 田村記者の取材と記事の検証(1)」をとりあげ、その「検証」の内実を問いたい。今回扱うのは有料記事となる以下の部分である。
麻子さんのケース/田村氏「無理やりとは言っていないです」

智子さんのケース/田村氏「今回のお話では関係ないです」

智子さんのケース/田村氏「そのことは本人の口からは言っていませんでした」

『週刊文春』2020年1月3日・10日号に掲載された田村栄治氏による記事についてはこちらを参照していただきたい。

※麻子さんのケース/田村氏「無理やりとは言っていないです」

記事の記述が「麻子さんにNOという選択肢はなかった」となっているのに対し、取材中に田村氏が「そこは合意があったと僕は考えていいと思います」と発言していることが、「そのことと違う記事をなぜ書いた」のかと批判の対象となっている。
しかしこの田村氏の発言が広河氏の「望まない人間、そのまま嫌がる人間なんか、僕は連れて行きませんけど」(下線は引用者)という発言を受けたものであることを考えれば、この批判は当たらない。『週刊文春』の記事には次のような箇所がある。
 麻子さんによると、その夜、2人は新宿駅西口で落ち合ってタクシーに乗った。広河氏は「靖国通りに」「ここで曲がって」などと運転手に指示し、歌舞伎町のホテル街へと車を向かわせた。入口に噴水があるホテルに入り、麻子さんは広河氏とセックスをした。終えると、電車で帰宅したという。
「考える会」がとりあげているやりとりはこのうち「ホテルに入り」までの経緯についてである。田村氏が「そこ」と言っているのも同様である。記事でもホテルに着くまでに明示的な「ノー」の意思表示があったとは(そしてそれを広河氏が無視したとは)書かれていない。「考える会」が「ホテルにまでついていったのだから性行為についても同意していたのだ」を暗黙の前提としているのではないか、という疑惑が湧く。そのような前提を排するなら「そこは合意があったと僕は考えていいと思います」と(性行為について)「NOという選択肢はなかった」の間には矛盾は存在しないからである。
なお「考える会」が「望まない人間、そのまま嫌がる人間なんか、僕は連れて行きませんけど」として引用している広河氏の弁明については、『週刊文春』の記事でも、田村氏と広河氏のやりとりを抜粋した部分で(きちんと読めば麻子さんのケースであることがわかる文脈で)「望まない人間を僕は無理やりホテルに連れて行きません」というかたちで紹介されている、ということも申し添えておく。

※智子さんのケース/田村氏「今回のお話では関係ないです」

『週刊文春』の第1弾記事で「この2人の他にも、広河氏にヌード撮影をされたと証言する女性がいる」として3番目に登場する女性に関する「考える会」の主張は、録音によれば「ヌード撮影したのには合理的な理由」があったことがわかるのに田村氏はそれを記事に書かず、「あたかも広河氏がヌード撮影を強要したように印象付け」た、というものである(ただしその「合理的な理由」については「プライバシーにかかわるため公開しません」とされており、読者には伺い知れないものとなっている)。また取材中に田村氏はこの女性について「その方は、そのことはぼやかしています。その方は性被害については...」「その方は性被害、その方じゃない方で」と発言し、広河氏の「放射能汚染のときに、現地に連れて行って汚染の酷いところに入った、と。そのことで僕を訴えている人 なんですね、その人は。それは性被害とは関係ないんですね」という問いに対しても「はい。今回のお話では関係ないです」と答えた、とされている。
しかし『週刊文春』の記事を読めば、「途中で広河さんの鼻息が荒くなってきて、気持ち悪くなりました」という女性の記憶や「今夜は部屋を取ってあるから」という広河氏の誘いかけについての証言は記されているものの、このケースで広河氏がヌード撮影を“強要”したとは書かれていないことがわかる。この女性のケースは次のような主張を導くために紹介されているのである(下線は引用者)。
 こうしたヌード撮影は当事者間の合意があれば問題ないと考える人もいるかもしれない。しかし、「写真を職業とする者が立場を利用して私的に求めるのは、職業倫理にもとるセクハラ行為」という認識が、欧米などのメディアで活動する写真家たちの間では確立されている。
普通に読めば、このケースは先の2つのケースと同じような“強要”とは言えないかもしれないが、だからといって問題ないというわけではない……という扱いをされていることは明白だろう。智子さんも「どういうふうに撮られるのか興味もありました」と証言すると同時に「これからお世話になる師匠なので断りにくかったですし」とも語っており、広河氏の優越的な地位が影響していたことを伺わせる。また警戒区域での強引な撮影については(この女性に対する)ヌード撮影よりもはるかに多くの文字数を割いてとりあげられており、「性被害」よりも広河氏のパワハラ体質に力点をおいた記述になっている。その意味で田村氏の「はい。今回のお話では関係ないです」という発言と記事とに齟齬はない。

※智子さんのケース/田村氏「そのことは本人の口からは言っていませんでした」

これはデイズジャパン検証委員会「報告書」の次のような箇所に関係した主張である(94〜95ページ)。
(6) アシスタント女性からの抗議
ア 証言
〔中略。警戒区域での強引な撮影とそのことを『DAYS JAPAN』編集部に抗議した経緯についての証言が紹介されている。引用者〕
イ 広河氏の対応
 検証委員会が関係者に「広河氏のハラスメントについて何か聞いたことはないか」と尋ねたのに対し、限られた調査範囲の中であるにも関わらず 5 人もの人が「原発近くに連れていかれたとして女性から抗議を受けたという件は知っているが、それについては広河さんから後日、その女性から勘違いだったと謝罪されたと聞いている」と述べた。このことからすれば、広河氏は周囲に「あの時の女性からは後日謝罪を受けた」と何度も繰り返し話していたのだろうと思われる。
 この「謝罪」とはどういうことだったのか、当該女性にどのようなことだったのか確認したところ、以下の通りだった。その女性は広河氏によって、事前に約束もなかったのに放射線量が高い原発近くに連れていかれたことや、ヌード写真を撮影されることを断れなかったことなどを知人に相談していた。広河氏に抗議した後、相談を聞いた人から「聞かなかったことにしてほしい」「(この業界 で仕事をしたいなら)広河さんとの関係は修復したほうがいい」という趣旨のことを言われたことが あり、弱気になってしまっていた時期、偶然、デイズジャパン社の近くのカフェで広河氏と顔を合わせてしまう機会があった。その際女性は、動揺したこともあり、挨拶した上で、「福島でのことは別に、今後も仕事ではよろしくお願いします。先日は感情的になってしまいました」という趣旨のことを述べたことはあったが、原発近くに連れていかれたこと自体の抗議を撤回する趣旨では全くなかった。
 検証委員会は、女性からそのことを確認したことを広河氏に伝え、「女性は、あなたに抗議したことを勘違いだったと撤回したわけではないと言っているが」と伝えたが、広河氏は「私は謝罪と受け取った」と反論した。
「考える会」が録音から引用しているのは、この「謝罪」について田村氏が女性に「確かめ」たのかと広河氏が問うたところ田村氏が本人からは聞いていないと返答、さらに執拗に問いただす広河氏に対して田村氏が「それは、いまのお話は、性被害のお話しですか? 広河さん、その方の性被害は僕は今問題にしてないんですよ」と問い返すまでのやりとりである。「考える会」の意図は必ずしも明らかではないが、目次において田村氏の「そのことは本人の口からは言っていませんでした」という発言が強調されていることを踏まえると、女性の抗議に対して広河氏が編集長降板を約束したにもかかわらずその約束が反故にされた、という趣旨の記述が『週刊文春』の記事にあることを問題にしているのであろう。女性から「謝罪」があったのなら降板の約束も無効ではないか、というわけだ。
しかし田村氏から見れば、女性が自分の取材に対して編集部への抗議について話している以上、「謝罪」して抗議を撤回したという認識を持っていないことは、改めて問うまでもなく明らかなことであろう。「考える会」が引用したやりとりはむしろ、警戒区域でどのような取材を行ったかという事実よりも、自分に対する「謝罪」の有無にこだわる広河氏の姿勢について強い印象を残す。仕事のうえで強い影響力をもつ広河氏との関係の破綻を避けようとする若い女性の言葉を「謝罪」だと受け止める広河氏の姿を強調することは、広河氏が自身の優越的な立場にいかに無自覚であるかを示すことになりかねないと思われるのだが、「考える会」にはそのような認識が欠けているようである。


2020年7月21日火曜日

「セクハラ報道と検証を考える会」の「検証」なるものについて(1)

お断り:本記事が公開された後に「セクハラ報道と検証を考える会」のブログが移転(新ブログはこちら)しているのだが、以下で検証の対象とした記事「【検証・週刊文春】強要を否定の田村記者、記事では一転「抗えないまま」に: 田村記者の取材と記事の検証(1)」は移転されておらず現在閲覧することができなくなっている。

2020年の1月から note 上で活動を始めた「セクハラ報道と検証を考える会」(以下「考える会」)。会の名称からすると「セクハラ」報道一般に関する問題意識から発足しているようにみえるが、設立の趣意を記した記事ではデイズジャパン検証委員会の「報告書」を「検証」することが目的として掲げられ、現にその後2ヶ月半の間に公開された記事の大半は検証委員会「報告書」を批判するものとなっている。事実上広河隆一氏を擁護することを目的として活動してきた、と言っても過言ではないだろう。
本稿では「報告書」批判ではない数少ない記事の一つである「【検証・週刊文春】強要を否定の田村記者、記事では一転「抗えないまま」に: 田村記者の取材と記事の検証(1)」をとりあげ、「考える会」の「検証」の内実を検証してみたい。なお、2020年3月8日に「(1)」が公開された後、本稿執筆時点まで「(2)」以降は公開されていない。

この記事で「検証」の対象となっているのは『週刊文春』2020年1月3日・10日号に掲載された田村栄治氏による記事(その電子版はこちら)である。「考える会」が「関係者」から入手したという田村氏と広河氏のやりとりの録音が参照されており、その録音の一部はこちらで公開されている。記事の目次は以下の通りである。
杏子さんのケース:田村氏「強要とは言っていません」

杏子さんのケース:田村氏「無理やり撮ったとは言っていない」

麻子さんのケース/田村氏「無理やりとは言っていないです」

智子さんのケース/田村氏「今回のお話では関係ないです」

智子さんのケース/田村氏「そのことは本人の口からは言っていませんでした」

4人の女性のケース/田村氏「これもね、片方の話ですけども」

立場を利用したハラスメント行為のケース/裏取りの痕跡は記事になし

谷口真由美氏、事実を創作して広河氏を批判


「杏子さんのケース:田村氏「強要とは言っていません」
」で問題とされているのは、録音された次のようなやりとりである(強調は原文)。
田村:(ホテルの)部屋に行ったら、その場で、入ったらすぐのように関係を持たされた、と。
広河:強要したんですか?
田村:いや強要とは言っていません。まぁ、本人は、断る間もなく、という言い方をしてますけども。そこは、広河さんそういうことは…
広河:断る間もなく、そういうことをするってあり得ないですよ。
田村:そうですか。まぁ、それは本人がおっしゃっていたことなんですけど。
これに対して『週刊文春』記事では「あっという間にベッドに移動させられ、抗えないままセックスが終わった」となっており、内容が「符合」しないというのだ。
しかしこれは明らかに言いがかりというものであろう。仮に広河氏の「強要したんですか?」という問いに対して田村氏が「そうですね」などと答えていたら「考える会」はどうコメントしただろうか? 「田村氏は予断をもって取材していた」と批判するのではないだろうか? 一方の当事者である広河氏に取材するにあたって、もう一方の当事者である杏子さんの主張に対する取材者の最終的な判断を留保しておくことは当然である。この時点で田村氏が「強要したとは言ってません」と発言し、取材の結果記事を執筆する際に「強要があった」と(執筆者および編集部の責任において)判断しそう書いたとしても、そのことだけで不誠実と謗られるいわれはあるまい。まして田村氏は「強要した」という書き方は避け、あくまで杏子さんの認識として「抗えないまま」と書いているのである。


「杏子さんのケース:田村氏「無理やり撮ったとは言っていない」
」の場合も同様である。杏子さんら複数の被害者から“裸の写真を撮られた”という訴えがあることについて、録音では広河氏の「嫌がっているのを、僕が無理やり撮ったということですか?」という問いに対して田村氏が「そうは言っていないですけど」と答えていることをとりあげ、記事中で「とくに断りもなく何枚か撮られた」という杏子さんの証言を引用していることが問題視されている。しかし『週刊文春』の記事は広河氏に取材した時点での田村氏の心証を記しているのではなく、広河氏への取材を終えたうえでの田村氏の心証に基づいて書かれているのであるから、両者が「符合しない」というのは無意味な主張であろう。

さらに田村氏は裸の写真を撮った理由を執拗に尋ねたとし、つぎのようなやりとりを紹介している。
田村氏:なぜ裸じゃなければ駄目なんですか?
広河:裸じゃなきゃダメだなんて僕は言っていません。これ以上その質問に対しては腹が立ってきます。……あなたの中で女性の裸に興味がまったくないんだったら別ですが。
「考える会」としては広河氏を擁護する目的で紹介したのであろうこのやりとりから、性暴力に関する広河氏の認識の甘さを読み取ることができると当会は考える。写真であれ映画や絵画や彫刻であれ、人間の裸をモチーフとすることはモデルにとって侵襲的たりうる手法であって、「裸」であることの必然性や制作プロセスの適正さが問われることはいまや常識と言ってよい。2018年には写真家・荒木経惟氏のモデルをつとめていた女性がネットで荒木氏によるハラスメントを告発していることを広河氏と「考える会」は知らなかったのだろうか? 
また、「女性の裸に興味がまったくないんだったら別ですが」という広河氏の発言は田村氏の“劣情”に訴えかけて自己弁護する目論見なのだろうが、広河氏がヘテロセクシズムを、そして「女の裸に興味を持ってこそ男」という男性観を自明の前提としていることが露呈してしまっている。


「田村記者の取材と記事の検証」のこれ以降の部分は有料となっているので、また稿を改めてとりあげることにしたい。



2020年7月8日水曜日

広河氏の言いたい放題を許した『DAYS JAPAN』最終号の責任(『週刊金曜日』2019年4月12号掲載)

前投稿につづき『週刊金曜日』2019年4月12日号(1228号)掲載の特集「広河隆一氏による性暴力・パワハラと『DAYS JAPAN』最終号を考える」からの転載です。

この特集は以下の3本立てになっていました。

  1. 扱われなかったパワハラと劣悪な労働環境の問題 渡部睦美
  2. 加害の事実認定なしのまま、なぜ「報告」できるのか 角田由紀子
  3. 広河氏の言いたい放題を許した最終号の責任 乗松聡子

このうち週刊金曜日から転載許可が出たのが、2と3の記事でした。本ブログの前投稿では2.の角田由紀子弁護士のインタビュー記事を転載しました。今回は、3.の乗松聡子の記事を転載します。

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『週刊金曜日』2019年4月12日号より



広河氏の言いたい放題を許した最終号の責任


乗松聡子



- 掲載された広河隆一氏の主張は、性暴力加害者に有利な日本の刑法規定にのっとってなされているかのようだ。それにお墨付きを与える格好の『DAYS JAPAN』最終号の責任は重い。

 昨年12月30日、『琉球新報』に「広河隆一氏の性暴力 女性差別抜け落ちた『人権』」という記事を書いた。記事の中で、「合意のない性行為(=レイプ)」、「(広河氏は)合意なしの性関係を行った」と書いたことから、ある男性ジャーナリストに、「(広河氏が)レイプして犯罪をおかしたと言っていると受け取られる」と問題視された。
 その後その記事の英語版を発表したが、翻訳中に、原稿を読んだ米国のある女性学者から、「『合意なしの性関係を持った』ってレイプのことだろう。どうしてそのまま『レイプ』と言わないのか」と尋ねられた。同じ内容でも、日本と北米で前者は「言い過ぎだ」、後者は「言い足りない」と、正反対とも言える反応が返ってきたことは象徴的だった。
 新年、地元のカナダ・バンクーバーの大学を訪ねたとき、受付横に貼られていた「合意とは」というポスターに目を引かれた。「合意とは何か?言葉で示さなければいけない(拒否の不在ではない)。明確でなければいけない(思い込みではない)。意識のあるときに示したものでなければいけない(意識のないときには与えられない)。自由な状況で与えられなければいけない(脅迫や強制では違う)。連続的でなければいけない(いつでも撤回できる)」と。
 カナダの刑法における「性的暴行」の条項には、「合意とはみなされない」項目の一つとして、「被疑者が、信頼される立場や、権力や権威を乱用して、被害を訴えた人を誘導して行為に及んだ場合」と明記されている。『週刊文春』『毎日新聞』『共同通信』などで報道された広河氏についての被害者の告発は、まさしくこれに当てはまる。
 もちろんカナダもまだポスターで啓蒙しなければいけないような社会なのだろう。しかし日本の場合、今年3月26日に、参院予算委員会で日本における性暴力について質問した辰巳孝太郎参議院議員が「(強制性交等罪を問う際の)最大の問題は被害者の合意・不合意を、暴行・脅迫の有無に限定してしまっている今の刑法にある」と述べたように、加害者を利する刑法が変更されないでいるのだ。
 広河氏はまさしく、この日本の法の遅れを利用しているかの如く、「暴行の不在」と「合意」を主張し続けている。

「加害者に語らせる」

 そうした中、2月8日発売の月刊誌『世界』3月号は、広河氏の性暴力をテーマにし、フェミニスト作家の北原みのり氏と「職場のハラスメント研究所」代表の金子雅臣氏の対談を掲載した。だが対談は、ほとんどが一般論に終わった。
 対談記録の第一声は、北原氏の「よくある事件がまた起きた」という言葉だった。しかし、この事件は、その性暴力、パワーハラスメントの質と数においても、広河氏が日本のリベラル派のジャーナリズムを代表する人間の一人であったということにおいても、業界全体を震撼させるような大事件であり、「またか」で済む話ではない。
 とりわけ、金子氏が、「(加害側の)男性に語らせないといけない」と、「加害者に語らせる」ことを重視していたのは大きな疑問だ。「日本の場合、とにかく加害者に語らせないですよね。それどころか、告発者探しをして、被害者にマイクを突き付けてしまう」と述べた。日本がいつ被害者ばかりに語らせる国になったのか。広河氏の事件も告発者がいたからこそ明るみになったが、告発者は氷山の一角だろう。
 金子氏は、遡る2018年8月号の『世界』記事「セクハラという『男性問題』」で、男性が告発に応じるべきだという文脈で、「伊藤詩織さんのケースを見ても、相手の山口敬之氏は逃げ回り、正面切って対峙しようとしない。本当に自分は潔白であるというのなら、告発に対峙し主張すべきです。裁判を起こせば良いのに、それもやらない」と述べている。実際、山口氏は3月6日、SNS上で、伊藤氏に対し名誉棄損訴訟を起こしたと報告している。金子氏は、この山口氏の行動に賛同するのか。

繰り返される二次加害

 そして、その後起こったことは、『世界』対談が敷いた路線、つまり加害者に語らせ、個別の責任追及を避けるかのごとくの「構造問題」に飛ばす路線を辿ることになる。実際、この金子氏自身が「検証委員会」の委員長に就任したのだから、当然の帰結だったともいえる。
 3月7日発売の月刊誌『創』4月号で広河氏は8ページにわたる手記を発表し、加害者が語りたい放題の場となった。広河氏は「全てを失うことになった」と、自己を被害者化しながら、「セクハラ、性暴力、パワハラについて書かれた様々な本を読み始めた」と勉強していることをアピールした。しかし、本当は違うとでも言いたげなカッコ付の「性暴力」の表記を徹底し、執拗に性暴力の否定と「合意」があったとの主張、事実関係の未確認という、セカンドレイプ(二次加害)のパターンを繰り返した。
 そして3月20日、予定より一か月遅れで出た『DAYS JAPAN 』最終号。「『広河隆一性暴力報道を受けて』 検証委員会報告」と呼ぶ「第一部」は、被害者側の聴取は一切なしで、『創』のセカンドレイプを繰り返す増幅版のような内容となっている。
 Q1からQ8までの、広河氏の弁明の後、「考察」と称した検証委による批判が延々と展開されるが、氏に返答を求めたり追及したりした様子もない。さらに、「考察」には、被害者の気持ちを「想像に難くない」「容易に推測できる」といった表現で代弁を試みる箇所が多数ある。『週刊文春』の2回にわたる記事で告発した8人の被害者のうち、検証委から連絡を受けていたのは2人だけだったという(3月14日発売同誌)。検証委は被害者に連絡する十分な努力も行わずして、被害者の勝手な代弁をしていたことになる。
 「検証委員会」として任命されたグループは、この事件の理解に対して公的責任を負う。その委員会が、『創』のセカンドレイプに事実上のお墨付きを与えたようなものを最終号に出した責任は重大だ。

結果として責任逃れに加担

そして「責任編集」者、林美子氏ともう一人の外部編集者、岩崎眞美子氏による「第二部」は、「#MeToo特集」という位置づけのようだが、「#MeToo」とは本来、被害者が具体的な事件を告発して加害者を特定し、責任追及する連鎖のことを指していたのではなかったのか。広河氏の被害者たちが行ったこともまさしくそれであった。それなのに、広河氏の事件の検証にもなっていない検証委の記事とセットで、構造議論中心の識者談話集と、広河氏ではない他の事件の被害者の声を集め、最後は取ってつけたような『世界の#MeToo』写真でページを埋めた。これは全体的に個別責任を拡散し、広河氏や株式会社デイズジャパンの責任逃れに加担した結果となったのではないか。
 林氏は、第二部の記事「広河氏の性暴力をどう考えるか」の冒頭では、過去に広河氏を取材した経験を語りながら氏の仕事を肯定しているように見える。そもそもこれだけ広河氏と交流のあった人が、検証の目的を持つ最終号の「責任編集」を担当できるのか。林氏は「2月に広河氏と3回会い、事件についてやり取りした」とも述べているが、やり取りの内容も報告しておらず、疑問が残る。
 さらに、岩崎氏の担当で、数々の性暴力やセクハラ事件の被害証言を匿名で集めた「声なき声の当事者たち」についてだが、肝心の広河氏の被害者が不在の最終号の中で、この特集はその不在を埋め合わせるかのように見える。内容は深刻なものばかりだ。岩崎氏自身も、解説文で、フラッシュバックを経験した人、このようなアンケート調査の「暴力性」を指摘した人に触れている。証言者にここまでの心理的負担を負わせてまで、必要な特集だったのだろうか。
「検証」は今後どうなるのか。今、被害者たちには検証委員会からの聞き取り依頼が来ているようだ。広河氏の被害者たちの「声なき声」こそ隠さず拾い集めた上で「検証」を行い、加害者の責任追及をすることが、真の「#MeToo」と言えるのではないか。


のりまつ・さとこ ピース・フィロソフィー・センター代表(カナダ)。『沖縄は孤立していない』(金曜日、2018年)編著。『琉球新報』にコラム「乗松聡子の眼」を連載。HP:peacephilosophy.com


『週刊金曜日』2019年4月12日(1228号)pp.44‐45より、編集部の許可を得て転載



[写真説明:上/エミリー・カー美術デザイン大学の校内に張られた「コンセント(合意)とは」何かというポスター(右)。下/共産党の辰巳孝太郎氏。国連の立法ハンドブックが、〈加害者側に合意の証明を要求するべき〉としていることに言及し、「暴行・脅迫用件の撤廃」を訴えた。]

2020年6月29日月曜日

加害の事実認定なしのまま、なぜ「報告」ができるのか 角田由紀子弁護士に聞く最終号の問題点 (『週刊金曜日』2019年4月12日号掲載)

 2019年3月に発行された『DAYS JAPAN』の最終号(2019年3月4月合併号)は、第一部「『広河隆一性暴力報道』を受けて検証委員会報告」と、第二部「性暴力を考える」(ジャーナリストの林美子氏責任編集)の二部構成になっていました。
 この最終号の内容の問題についての角田由紀子弁護士への『週刊金曜日』によるインタビュー記事(『週刊金曜日』2019年4月12日(1228号)掲載)を、『週刊金曜日』編集部の許可を得て転載します。

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加害の事実認定なしのまま、なぜ「報告」ができるのか 角田由紀子弁護士に聞く最終号の問題点 

『DAYS JAPAN』の最終号は、第一部・第二部を通して問題のある構成になっている。結果として得をしたのは広河隆一氏とデイズジャパンではないのか。
性暴力問題を長く追及してきた角田由紀子弁護士に話を聞いた。


 第一部の「検証委員会報告」を読みましたが、検証過程における「報告及び考察」であれ、なぜ今こんな中途半端な形で出さなければいけなかったのか理解に苦しみます。
 まず、検証するということは事実関係を明らかにすることであるはずなのに、それがありません。「はじめに本記事の性格について」の冒頭には、「広河隆一による性暴力、パワーハラスメント疑惑(以下「本件」)」としか広河隆一氏の加害行為についての記述はなく、検証の前提となるはずの「本件」なるものの具体的中身が何か、書かれていません。検証委員会として、自分たちであらためて「本件」についての事実を確定する必要があったのではないでしょうか。

中途半端な「報告」は「誠意」ではない

 本来、検証報告に被害者の聴取結果が載っていないなんてことは考えられませんが、「報告及び考察」にはそれがないので、当然、加害の事実認定もできていません。
 事実認定できていないと、自分たちの見解は出せないはずですが、「報告及び考察」の構成は、広河氏の弁明に対して調査担当者の見解が載せられているというものです。事実認定がないので認識の応酬にしかなっておらず、調査担当者が広河氏の認識に批判を加え、氏を悔い改めさせようとしているような構成です。ですが、広河氏を教え諭すことが目的ではないですよね。被害者の救済は念頭にないのでしょうか。結果として、この「報告」は、広河氏に弁明の場を与え、株式会社デイズジャパンを免罪しただけで、得をしたのは広河氏とデイズジャパンのみです。
 どのみち、すでに最終号の発行 は1カ月遅れていたのですし、もっと遅らせても良かったはず。検証委員会が主張している時間的限界が絶対的なものであったとは思えません。『DAYS JAPAN』の川島進最終号発行人兼編集人は巻頭の挨拶で「どのような検証体制を組むことが、読者に対する最も誠意ある対応であるか検討を重ねました」と書いていますが、この「報告」は読者への誠意になっていないと思います。
 広河氏による性暴力について、そしてこういうことを許していたパワーハラスメントの温床のような会社環境などの事実関係を確認した上で、なぜ広河氏はこんなことをしたのか、会社の責任はどうするのか、被害者の救済策や再発防止策はどうするのか、という姿勢を示すことが読者に対する誠意になる。それがあってはじめて、加害者側の弁明を載せてもいいと思います。それができないなら、検証委員会は中途半端な「報告」を断るべきだった。検証委員会は、2月上旬に「業務を開始した」と言いますが、とすると、校了日まで約1カ月しかない。検証過程の「報告」なんてできるはずがなかったのではないでしょうか。
 最終号の発行ありきで、「報告及び考察」がなされてしまいました が、最終号を発行することと、しっかりとした調査検証をやることをどう両立させていくかという方法は十分に考えるべきでした。

そもそも「合意」とは 何かを確認していない

 広河氏と調査担当者双方が、「合意」と「人権」が何を意味しているのか、ということの確認なしに主張しあっていることも問題です。この言葉の定義が双方で異なっているので、話がかみ合わない。そもそも日本社会においては、「合意」(特に性行為について)が 何なのか、突き詰めて議論がされていません。「合意」とは、両者の 自発的な判断でなければならないということ。「はい」ということが「合意」ではありません。どのようにしてその人が「はい」という 言葉を出すに至ったのか、というところが重要なわけです。
そういうことを理解せず、広河氏は、「相手がいくら合意しても、その合意の中身は本意ではなく、仕方なく、つまり合意せざるを得ない立場や力関係で合意しているのだと考えるべき、という考え方は、私にとっては新しい考え方でした」と述べています。「合意」と は何か真剣に考えたこともないのでしょうね。広河氏と性暴力被害者の状況を考えると、相手側の女性が「合意」していると思う方が おかしいような状況です。 広河氏は、自身の権力について無自覚だったとしていますが、かりにそうだったとすれば、そのことが厳しく糾弾されるべきです。
 日本の性犯罪を扱う裁判では、合意(同意)がなかったことを結果的に被害者が証明する形になっています。加害者は、広河氏のように「合意」があったと言います。 3月には、飲酒で朦朧(もうろう)としていた女性に性的暴行したとして起訴されていた男性が、女性は性行為を許容していると思ったと主張して認められ、福岡地裁久留米支部が無罪判決を出しました。これを許容する法や社会は恐ろしいです。
 また、調査担当者は「人権活動家と称されていた広河氏になぜ抑止力がはたらかなかったのか」と 述べていますが、抑止力の問題でしょうか。広河氏の唱えてきた「人権」はいい加減なもので、広河氏の「人権活動」の中に、女性の人権は入っていなかったわけです。 入っていないから、「人権侵害をした」と言っても彼は理解できない。
女性の人権は含まれなかった、フランス革命時の人権と同じセンスの人なのではないかと感じます。

第二部という"付録"で会社の責任は置き去り

 そして、「性暴力をどう考えるか。連鎖を止めるために」をテーマにした第二部。「報告及び考察」だけだと中途半端で成り立たないから、この"付録"が付けられたのでしょうけれど、"付録"のほうが圧倒的にページが厚い。第二部では、性暴力がどんなにいけないか ということがさまざまな角度から 言われていますが、そんなことを 今、デイズジャパンが載せる資格 はあるのでしょうか。広河氏のやったことを見逃してしまってまずかったけれど、デイズジャパンとしてはこういう問題をちゃんと考えられるし、こういうものが出せる理解のある出版社です、と言い訳しているようにしか思えません。
 第二部の論考は、それぞれ優れたもので、読む価値があります。しかし、今はまず、広河氏とデイズジャパンの問題について話すべきです。デイズジャパンは無責任。現段階でこのような"付録"を付けると、アリバイ作りに感じます。 会社の責任を置き去りにして、広河氏の弁明とともに出すべきではなかったと思います。
 最後に、私は検証委員や第二部に関わった人たちの中に知り合いが多くいますので、このような批判的意見を述べることに躊躇しなかったわけではありません。でも、仕事の内容への批判は、個々人との関係とは別物だと考えています。日本社会では仕事を批判すると、その人間を否定したかのように受け取られてしまう。そうではないということが通用する社会になってほしいですし、個人の関係で付度し、言うべき批判ができないような状況になることは望ましくない。広河氏・デイズジャパンの問題について、もっと闊達な批判・議論が交わされることを願います。

角田由紀子(弁護士)
まとめ/渡部睦美(編集部)

つのだ ゆきこ・弁護士。専門はセクシュアル・ハラスメント、ドメスティック・バイオレンスなど。医学部入試における女性差別対策弁護団の共同代表。東京強姦救援センター法律アドバイザー、女性の安全と健康のための支援教育センター代表理事を兼務。著書に、『性と法律』(岩波新書、2013年)など。

『週刊金曜日』2019年4月12日(1228号)pp.42-43より、編集部の許可を得て転載

角田インタビュー記事1ページ目
角田インタビュー記事2ページ目




2020年6月26日金曜日

BDS japan 有志が声明発表

イスラエルのパレスチナ人抑圧政策に反対し、イスラエルに対するボイコット(Boycott)、資本引きあげ(Divestment)、制裁(Sanction)を実行することを求める運動に日本で取り組む市民グループ、BDS japan の有志が「広河隆一氏とデイズジャパンの事件について謝罪・慰謝賠償による責任履行と二次加害行為の終結を求めます」と題する声明を6月25日付で発表しました。
ツイッター上ではハッシュタグ #広河隆一氏とデイズジャパンに責任履行を求めます で賛同・拡散を求めています。

2020年5月31日日曜日

「一般財団法人 日本フォトジャーナリズム協会」のフェースブック上の「通告書」は二次加害である


広河隆一氏(フォトジャーナリスト、及び株式会社デイズジャパン前代表取締役)の性暴力とパワハラが広く知られるようになったきっかけを作った、『週刊文春』の2019年1月3・10日号「7人の女性が#MeToo セックス要求、ヌード撮影『世界的人権派ジャーナリスト<広河隆一>の性暴力を告発する』」、同年2月7日号「新たな女性が涙の告発『広河隆一は私を二週間毎晩レイプした』」をはじめ、『文春オンライン』でこの問題について記事を書き続けているジャーナリスト田村栄治氏による最新記事「“性暴力”広河隆一氏が設立した“人権団体” 大物写真家たちはなぜ守ろうとするのか」(2020年4月28日)がネットで公開された。

その後すぐ、この記事で批判の対象となっている「一般財団法人 日本フォトジャーナリズム協会」が、この記事の著者である田村氏に抗議と謝罪を要求し、文春オンラインにも文書回答を求める「通告書」をフェースブックで発表した。私たちは今回のブログ投稿で、この「通告書」は二次加害(セカンドレイプ)であるということを指摘したい。

★★★

上記の文春オンライン記事は、広河氏が2018年11月に設立した一般財団法人「日本フォトジャーナリズム協会」(以下、「協会」と略すこともある)が、広河氏の人権侵害が発覚した後にも存続し続けていることに疑問を投げかけている。記事が指摘するように、広河氏は「DAYS JAPAN」(デイズジャパン)誌上において、2018年11月20日付けで、2019年3月号限りでの休刊を宣言しているがその際に、
世界的なフォトジャーナリズムのコンテストとなった「DAYS国際フォトジャーナリズム大賞」については、非営利の「一般財団法人日本フォトジャーナリズム協会」を設立し、1年間の休止期間の後、ボランティアの方々の手で2019年秋の募集開始から再開したいと考えています。
と述べている。これを見るだけでも、著者の田村氏が言うように、広河氏は「日本フォトジャーナリズム協会」を「DAYS JAPAN」誌休刊後の「活動の足場」にしようとしていたことがわかる。広河氏の長年にわたる人権侵害が明るみになるのは、この休刊宣言から一ヶ月後のことだった(『週刊文春』2019年1月3・10日号は前年12月26日発売だった)。

田村氏の今回の記事によると、その半年後、2019年6月に広河氏はこの協会の役員を「写真界の重鎮や、広河氏との交流のあった社会的影響力のある人々など」8人に総入れ替えしている。広河氏から代表理事になるように頼まれ引き受けた内堀毅氏は、田村氏の取材に対し、広河氏の問題は知っていつつも「それとは切り離してやっていければいい」と語ったという。理事の一人である田沼武能氏も、この団体はいま「広河さんとは一切関係ありません」と言ったという。

しかし記事は、新役員が「広河人脈」であることに加え、「日本フォトジャーナリズム協会」の基本財産500万円のうち半分は広河氏が拠出しており、同協会の「目的」も設立時と全く変わっていないことに言及、さらにこの協会は株式会社デイズジャパンが設置した検証委員会による検証に対しても協力を拒否し、広河氏自身もこの協会の新役員が誰なのかを検証委に伝えなかったと指摘する。最後に、広河氏の性暴力を受けた一人の女性の次のような言葉を引用して記事は終わっている。
「被害に遭った女性たちは誰一人、広河氏側から何の救済も補償もされていません。広河氏が資金を投じて設立した団体なのに、『被害者の声は関係ない、自分たちは大事な活動をしている』というのであれば、ジャーナリズムという大義を振りかざして女性たちを黙らせてきた広河氏と何ら変わりません。被害の実態を無視しないでください。」
 (文春オンライン記事全文はここを参照してください。)

4月28日に出たこの記事を受け、5月1日に、「ワセダクロニクル」編集長の渡辺周氏がウェブサイトで、「ワセダクロニクル」の編集幹事を務めていた木村英昭氏が「日本フォトジャーナリズム協会」の理事を務めていたということに対して謝罪し、5月1日付で、木村氏が「ワセダクロニクル編集幹事および特定非営利活動法人ワセダクロニクルの理事を辞任」し、「ワセダクロニクルのメンバーから退会」したことを報告した。渡辺氏は、「元々は広河氏が作った団体で活動することは性暴力の被害に遭った方々の気持ちをふみにじるものです。ワセダクロニクルの理念とはあいいれません」と述べている。

さて、当の「日本フォトジャーナリズム協会」はどうかといえば、それまでウェブサイトも持たず、SNSでの存在もなく、何をやっているかも一般にわかる存在ではなかったのに、文春オンライン記事の発表後に突然フェースブックのページを作り、その最初の投稿として、4月30日付けで、田村氏に抗議し謝罪を求め文春オンラインにも文書での回答を求める、代理人の弁護士による「通告書(謝罪要求書)」を公開した。

この通告書は、1-4の項目に分かれているが、到底説得力があるとはいえるものではなく、おまけに、広河氏の性暴力の事実や被害者の存在に疑いを投げかけるかの如くの表現を使っている。以下、この項目に呼応する形でコメントしたいと思う。(原文は、ここを見てください。

項目1では、この記事で日本フォトジャーナリズム協会を広河氏の「思いが込められた団体」と言っていることから、協会の「活動継続が広河氏のための活動であるかのようにこじつけ」、これが事実に基づかないとしている。しかしこの記事では、協会が「広河氏のための活動」をしているなどとは言っていない。言ってもいないことを勝手に想像し、それが「事実に基づかない」とケチをつけるのはおかしいのではないだろうか。この場合「事実に基づかない」のはご自分たちの勝手な想像であって、田村氏の書いていることではない。

また、広河氏の「思いが込められた」という表現についてだが、この協会は広河氏が設立し、広河氏が半分出資し、設立目的も変わっておらず、役員が変わったと言っても広河人脈で構成されている。それに加え、この協会として、一度も公に広河氏の性暴力やパワハラを糾弾し、広河氏との決別を宣言するようなこともなかった。そのような団体が、広河氏の「思いが込められた」と呼ばれるのは当然ではないのか。

また協会は、田村氏の記事にある、協会が「被害者の傷口に塩を塗ってまで継続させていくことに、どれほどの価値があるというのか」と問うている部分の、「被害者の傷口に塩を塗る」という表現についても「誹謗」であると言っているが、実際田村氏は被害者の一人から、協会が「被害者の声を全く顧み」ていないと感じている言葉を取っているのである。「被害者の傷口に塩を塗る」と書かれたことを協会が「誹謗」と断定するやり方は、協会がまさしく被害者の声を顧みていないことを証明してしまったことになる。

項目2では、この記事が、代表理事の内堀毅氏の参加を、「同団体を『DAYS JAPANを休刊した後の活動拠点にする意思』という広河氏の思惑への賛同であるかのように描き出している」と言って怒っている。まず、この記事はそうは言っていない。しかし、内堀氏に「広河氏の思惑への賛同」の意思がなかったとしても、この団体は、先述のように「DAYS国際フォトジャーナリズム大賞」を引き継ぐと広河氏が宣言している。この記事で取材された内堀氏も、「DAYSの国際大賞は大変なので別のものになるかもしれませんが、いずれフォトジャーナリズムの賞をやり、セミナーも開きたいと思っています」と語っている。

繰り返すが、この協会が、公的に広河氏の性暴力とパワハラを糾弾し、広河氏との決別を宣言し、被害者に寄り添った姿勢を見せ、被害者を支援し、フォトジャーナリズムの世界からセクハラやパワハラをなくすような活動を行ってきたというのなら、「広河氏と一緒にしないでくれ」という主張をする資格もあるのかもしれないが、この団体はそのようなことを一切やっていない。やっていないどころか、上に示したようにこの「通告書」でも被害者の声を顧みないような様子があるし、「通告書」の3項目でその真逆ともいえる記述をしている。まさしく「被害者の傷口に塩を塗る」としか思えない表現である。
「念のために改めていえば、報道されている広河氏のセクハラ事件なるものについて、同団体の役員でこれを肯定する者など誰一人いない。」

「セクハラ事件なるもの」???セクハラ事件をどうしてそのまま「セクハラ事件」と言えないのか。「なるもの」という表現を敢えて付け足すことによって、「人によってはセクハラ事件と呼んでいるもの」と言っているように聞こえる。「これを肯定する者など誰一人いない」などと自慢げに言っているが、それでは協会の役員たちは、性暴力を犯し、それに向き合わない広河氏に対してこれまで同業者としてどれだけ真剣に怒りを表明してきたのか。私たちには全く見えてこない。

広河氏の性暴力・セクハラ・パワハラが多数あったことは検証委員会で事実認定がされている。しかし4月28日の文春オンライン記事を読むと、内堀氏はどうやらこの検証委さえ疑っていたらしい。記事によると、検証委の聞き取りを拒否したことについて聞かれて「検証委の調査は偏っていて中立ではないと感じた」と述べているという。

この「通告書」の第3項目で協会はさらに、

「複数いるとされる被害者女性のうち」

と言っている。「複数いるとされる」???どうしてここでまた、「される」という、しっかりわかっていないかのような表現を使うのか。

これらを見ると、日本フォトジャーナリズム協会は、広河氏の性暴力、セクハラの事実や被害者の訴えを軽視しているのではないかと思うのである。

項目4については、文春記事に、広河氏や株式会社デイズジャパンから被害者への損害賠償が行われていないという記述があることから、協会は、田村氏がこの記事を書いたのは、日本フォトジャーナリズム協会の資産を目当てにしているのではないかとの憶測をしている。その上で、「仮に田村氏がこの資産に注目して、賠償金回収の可能性があると被害女性に示唆したのであれば、」とか、全く根拠のない仮定をしており、それが「本記事作成の狙い」ではないかと疑っているのだ。これこそ「いちゃもん」「妄想」の類ではないか。

このように協会はこの「通告書」を通じて、田村氏が記事で言ってもいないことを勝手に想像し、その上でその想像が「事実と違う」と主張して田村氏自身が事実と異なることを書いているかのような印象操作をしている。

しかし何よりも怒りを覚えるのは、「・・・なるもの」「・・・とされる」というような、広河氏の性暴力の事実自体に疑いを投げかけるような表現だ。第3項目のタイトルにさえ、「『傷口に塩を塗る』なるもの」という、「なるもの」表現を使っている。

「広河隆一氏とデイズジャパン経営陣の人権侵害を忘れない会」メンバーの乗松聡子は、協会のフェースブックにあるこの「通告書」(4月30日付)を読んで、コメントを残した(5月4日)。その時点で、私より前にある人が「意味不明」という否定的なコメントを残していたので、それに続ける形で、こう書いた。


そうしたら、このコメントはすぐに協会によって非公開設定にされてしまった。一番最初の「意味不明」というコメントも非公開になっていた。その後も次々と鋭い批判コメントが入ったので乗松はそれに「いいね」しようと思ったらもうそれができず、それ以上のコメントをしようとしても受け付けられなくなった。そう、協会は乗松を「ブロック」したのだ。「ジャーナリズム」を標ぼうする公的団体が、公開投稿に対してきた批判的なコメントをかたっぱしから非公開にし、批判者をブロックしているのだ。

もう一つ、非公開(あるいはブロック)にされてしまった Onyo Nyao さんのコメントを、許可をもらってここに公開している。大変的確な批判だと思うので見てほしい。

その後、ブロックに対する批判が高まったせいかどうかはわからないが、現在、協会の「通告書」投稿には、乗松からは、4人の女性からのコメントが見える(非公開設定にされたコメントは、フェースブックの友だち同士の場合は見られるようである。だから人によって見えるコメントが異なる)。この方々から許可をもらいここに転載する(4人のうち2人は、「広河隆一氏とデイズジャパン経営陣の人権侵害を忘れない会」のメンバーである)。
篠原幸代:3の部分、広河による性暴力事件が「事実でない」としか読めません。この様な発信は文字通り「被害者の傷口に塩を塗る」行為でありセカンドレイプ。問題だと思います😡
山口智美:私もこの文書はセカンドレイプに他ならないと思います。3の部分は最悪ですし、さらに4での「これが事実とすれば、被害者らには気の毒なことだと思う。」というところも、全くもって他人事としているように読めます。広河氏の問題は、フォトジャーナリズムという業界の問題でもあると思いますが、そうした視点は皆無どころか、さらにセカンドレイプを行うとは、ジャーナリズムを名乗る公的団体としてありえない態度及び振る舞いではないでしょうか。
斉藤正美:あれえ?この文書についていたコメントが見えなくなっていますが、どうしたのでしょうか。未だにコメント数だけは5つありますが、私が読めるのは、お一人分のみです。もしこの後私が何か書いても、他の人から見えなくなってしまうのかなと不安なものがあります。ジャーナリズム協会と名乗っておられるのですから、公明正大なスタンスでお願いしたいと思います。コメントの行方について、およびコメントへのスタンスを協会として表明していただきたくお願いします。
 横山知枝:自分達に都合の悪いコメントを片っ端から削除もしくは非公開にしている人達が目指すジャーナリズムって、なんなんですか?
5月30日時点では、「通告書」投稿にはコメント数が「10」とある。上の4人のコメントに加え、自分も含め把握している非公開またはブロックされてしまったコメントは3つあるので、10から4と3を引いて、あと3つは、非公開設定にされているコメントがあるということになる。またこの「通告書」は24回シェアされており(5月30日時点)、シェアする際のコメントも見えている限りは批判的なものばかりだ。

乗松の以下の5月7日のツイートには5月29日時点で305のリツイートがあり、553の「いいね」がついている。



「通告書」がセカンドレイプだという感じ方には、フェースブックで同様のコメントを残した人たちだけではなく、これだけたくさんの人たちが共感を寄せている。

日本フォトジャーナリズム協会の、文春記事の著者に対する言いがかりともいえる「通告書」は、それ自体が被害者へのセカンド・レイプであり、性暴力を認めず謝罪も賠償もしていない広河氏を事実上擁護しているとしか考えられない性質のものだ。協会の人々には、これらの批判を受け止め、広河氏の性暴力・セクハラ・パワハラの被害者の立場に立った発信をしてこその「ジャーナリズム」ではないでしょうか、と伝えたい。


(文責 乗松聡子)


広河隆一氏による性暴力問題 おもな出来事

この表は随時加筆・修正することがあります。)

2018年11月14日(一般財団法人)日本フォトジャーナリズム協会、発足。発足時の代表理事は広河隆一氏。広河氏の配偶者や『DAYS JAPAN』関係者が理事や評議員に就任。
2018年11月17日広河隆一氏が発行人をつとめる月刊写真誌『DAYS JAPAN』(デイズジャパン)、翌2月発行の2019年3月号を最後に休刊することを表明、と『朝日新聞』が報道。報道によれば理由は部数の減少と広河氏の健康問題。
2018年12月26日同日発売の『週刊文春』2019年1月3日・10日号、『DAYS JAPAN』の女性スタッフに対する広河隆一氏の性暴力を告発する記事を掲載(執筆:田村栄治氏)。同号の記事を再編集したオンライン記事はこちらで閲覧可能。
2018年12月26日デイズジャパン社、25日付で広河氏を代表取締役から解任したことを発表。
2019年1月13日デイズジャパン社、同社代理人として検証作業に取り組んでいた弁護士を解任。
2019年1月20日同日発売の『DAYS JAPAN』2月号にジョー横溝編集長名の「編集部の今後の方針と次号について」を掲載。最終号となる3月号を広河氏の性暴力問題に関する検証号とすることを表明。
2019年1月末ジョー横溝編集長、辞任
2019年1月31日『週刊文春』2019年2月7日号、告発第2弾の記事を掲載。同号掲載の記事を再編集したオンライン記事はこちらで閲覧可能。
2019年2月デイズジャパン検証委員会(長:金子雅臣氏)発足。
2019年3月7日月刊誌『創』(編集長:篠田博之氏)4月号に広河氏の手記「『性暴力』について謝罪し30年遅れで学ぶ」掲載。「「合意があったと思っていた」「地位や仕事を失った」という弁解や悲嘆が随所でつづられ、元スタッフらは「本当に反省しているのか」と疑問の声を上げている」(『毎日新聞』ウェブ版3月19日「「合意があったと…」 性暴力問題の広河氏が手記 「責任回避では」と批判の声」)など批判的な報道も。
2019年3月20日予定より一ヶ月遅れで『DAYS JAPAN』最終号(3・4月号)刊行。第1部には検証委員会の経過報告を、第2部には林美子氏(ジャーナリスト)責任編集による特集を掲載。「「検証の体をなしていない」と批判が出ている」(毎日新聞ウェブ版2019年3月26日「DAYS最終号「検証報告」に批判 被害実態の調査や検証なく」)などと報じられた一方、検証委員会から最終報告書をまとめる意思がある旨が表明される。
2019年3月22日被害者の告発を受け、デイズジャパンおよび広河隆一事務所の元スタッフ有志による「DAYS元スタッフの会」が発足。
2019年4月8日『創』5・6月号、前号で予告された広河手記の続編は掲載されず、篠田編集長の見解を掲載。
2019年6月日本フォトジャーナリズム協会、代表理事を内堀毅氏(写真家)に変更するなど役員を入れ替え。ただし新役員はいずれも広河氏に近い人物との報道も(『文春オンライン』2020年4月28日「“性暴力”広河隆一氏が設立した“人権団体” 大物写真家たちはなぜ守ろうとするのか」)。
2019年12月26日デイズジャパン検証委員会、検証報告書を公表。広河氏による性暴力の事実を認定。報告書は2020年5月31日現在、こちらで閲覧可能。
2020年1月7日被害者の一人がデイズジャパン社に対し、慰謝料などの損害賠償を請求。
2020年1月10日セクハラ報道と検証を考える会」(世話人代表:永谷生希氏)、発足。デイズジャパン検証委員会の報告書について「報道が事実であることを前提にした内容となっているのではないかという懸念も生じています」などと主張、以後報告書や広河氏に関する報道に批判的な記事を発信。
2020年3月19日デイズジャパン社、東京地裁に破産を申し立て。複数の被害者から賠償請求があったことを理由にあげる。
2020年4月17日広河隆一氏、告発報道後初めてSNSで発言、Twitter および Facebook で「セクハラ報道と検証を考える会」の活動について肯定的に言及。
2020年4月30日日本フォトジャーナリズム協会、『文春オンライン』2020年4月28日掲載の「“性暴力”広河隆一氏が設立した“人権団体” 大物写真家たちはなぜ守ろうとするのか」に関し、著者の田村栄治氏と編集部に対して「謝罪」を求める通告書を送付。
2020年5月1日ワセダクロニクル編集長渡辺周氏、元編集幹事木村英昭氏が日本フォトジャーナリズム協会理事に就任していたことに関し、お詫びを表明
2020年12月24日株式会社デイズジャパンに対して損害賠償を求めた民事訴訟において、被害者の1人が時効を理由に請求を棄却されたことが報じられる
2021年11月30日山田洋次監督の映画『男はつらいよ お帰り 寅さん』において広河隆一撮影の写真が使用され、クレジットもされていたことについて、文筆家の西口想氏が「ハラスメントの中で生まれた作品をどう評価すればいいのか」と題するコラムを発表。「セクハラ報道と検証を考える会」もツイッターで反応
2021年11月30日フリーライターの木村嘉代子氏、ツイッターで「セクハラ報道と検証を考える会」ブログの記事を執筆していたことを公表。それに先立ち、「考える会」のブログが移転
2021年12月木村嘉代子氏が「「週刊文春」の報道に肯定的なコメントをSNSなどで発信された約60人のジャーナリストの方々」に対して「取材」メールを送付。『週刊文春』の記事や検証委員会報告書を支持する根拠を問う内容。
2022年3月広河隆一氏が「これまで考えたことをお知らせする」と称してインターネット上に手記を発表
2022年6月広河隆一氏が沖縄の那覇市民ギャラリーで「私のウクライナ―惨禍の人々と題された写真展を開催する予定であることが明らかに批判的な報道や市民からの抗議により翌7月1日に中止が発表された。
2022年11月広河隆一氏がツイッターアカウントを非公開から公開へと設定変更。

2020年5月24日日曜日

「デイズジャパン検証委員会報告書」 サイトで再公開

2019年12月26日に株式会社デイズジャパンの公式ウェブサイト上で公開された、デイズジャパン検証委員会執筆の「デイズジャパン検証委員会報告書」が、同社公式サイトが閉鎖されたことにより、アクセスできない状態となっていました。それが、デイズジャパン社が破産手続きを終了するまでの期間限定ということで、検証委員会のサイトで再度公開されています。具体的な終了期間は明示されておらず、わかっていません。なかったことにされてはならない文書ですので、この問題に関心を持つ多くの方が公開期間が終了する前にダウンロードしてくださることを希望いたします。

 「デイズジャパン検証委員会報告書」へのリンクはこちら

デイズジャパン検証委員会のサイトはこちら

この報告書は、45名に上る関係者への聞き取りにより、多数のボランティアやアルバイト女性への広河氏による性暴力、セクシュアルハラスメント、パワーハラスメントなどの加害の事実および、被害の認定を行った極めて重要な文書です。

 3月8日に、検証委員会の報告書の内容を厳しく批判し、同報告書による性暴力、セクハラ、パワハラの事実認定を否定すると同時に、広河氏自身を擁護する内容(「セクハラ報道と検証を考える会」)のサイトが立ち上がりました。広河氏は2020年4月16日、TwitterFacebookで、このサイトを紹介、宣伝しています。

こうした広河氏の言動は、「被害者への謝罪」「二次加害をしない」など報告書での広河氏の性暴力やハラスメントへの責任履行に関する提案とは全く相容れず、むしろ逆行するものです。

被害者からの抗議の声も上がっています。しかし、デイズジャパン社が破産を申し立てたことにより、被害者への賠償も十分できない状態になる可能性が高いと思われます。そこで広河氏による性暴力やセクシュアルハラスメント 、パワーハラスメント加害の事実や、それに向き合うことができなかったデイズジャパン社の問題をしっかりと認識し、また数多くの性暴力やハラスメントの被害が忘れられないためにも、この報告書は広く読まれるべきものです。

この会について

広河隆一氏(フォトジャーナリスト、及び株式会社デイズジャパン前代表取締役)による性暴力、セクシャルハラスメント 、パワーハラスメントなどの加害行為による人権侵害、およびデイズジャパン経営陣がこの加害に適切に対処しなかったことにより引き起こされた人権侵害を忘れないため、わたしたちにできることはないかと考え、この会を立ち上げました。

また、広河氏やデイズジャパン経営陣の人権侵害に関連する二次加害を許さないための活動にもとりくみたいと考えています。


広河隆一氏とデイズジャパン経営陣の人権侵害を忘れない会
斉藤正美、能川元一、乗松聡子、山口智美

当会への連絡はdonotforgetvictimsアットマークgmail.comからお願いいたします。(アットマークを@に入れ替えてお使いください。)