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2023年3月28日火曜日

広島「平和写真展」、広河隆一氏の写真展示を企画するも急遽中止

 『週刊文春』を提訴したことをSNSで報告した翌日の2023年3月24日、広河隆一氏は次のような告知を行った。


写真展のちらしや報道などから明らかになったところでは、主催者の「平和写真プロジェクト」(工藤一義会長)が過去に刊行した写真集から選んだ110点の写真と「同時展示」のかたちで広河氏の写真が65点展示され、さらに初日の4月4日には広河氏本人によるギャラリートークも予定されていた。「個展」とまでは言えないにせよ広河氏を大きくフィーチャーした企画であったと言えよう。

この情報がSNSで知られるようになるとたちまち抗議の声が上がり、「平和写真プロジェクト」や広島県立美術館に直接抗議、問い合わせを行う市民も現れた。 『週刊文春』を提訴することで自らの加害を否認する姿勢を明確にしたばかりであることが、批判の広がりにつながった可能性がある。

そして週が開けた3月27日午前、広河氏はツイッターで展示の中止を告知、共同通信の速報を皮切りにメディア各社が取り上げる事態となった。

当ブログでも報告したように広河氏は昨年沖縄で写真展を企画し、やはり批判を受けて中止している。主催者は当然今回の抗議を予測できたはずだが、問い合わせを行った市民や報道によれば「広河氏個人と作品は別」という論理で展示を正当化できると考えていたようだ。この論理は広河氏の性暴力が告発された当初から現れていたものだが、「写真家としての活動の中で、フォトジャーナリストとしての地位を利用して振るわれた性暴力なのだから、個人と作品を切り離すのはおかしい」といった反論もまた早くから行われていた。そうした反論に対して再反論することばを主催者はもっていなかったようである。

さらに『産経ニュース』『日刊スポーツ』によれば主催者は「写真活動の権利や自由を理解してもらえず残念」というコメントを出したとのことである。加害責任に向き合おうとしない広河氏の態度を容認した自分たちの認識の甘さを棚に上げ、また自らが謳う「写真活動の権利や自由」について「理解」を得るための努力も放棄したまま、抗議者に責任を帰するかのようなコメントは、それこそ「残念」としか言いようがない。

2022年8月6日土曜日

『週刊金曜日』が広河隆一・写真展問題を報道

昨日発売の『週刊金曜日』2022年8月5日・12日合併号に、広河隆一氏が沖縄で写真展を企画し批判を浴びて中止になった件に関する記事が掲載されている。執筆者は『沖縄タイムス』の阿部岳記者(編集部渡部睦美氏による囲み記事も)。全部で4ページの特集記事だがそのうち1ページ強を割いて広河隆一氏へのインタビューが掲載されている。印象に残るのは広河氏が「極端なフェミニストから攻撃されている」と漏らしたという点だ。その言葉こそ用いられていないが自らを「キャンセル・カルチャー」の被害者ととらえているのだろうか。しかし当会が把握している限りで、広河氏は未来永劫公の場で活動すべきでないと主張している者はいない。まず被害者に対する責任をきちんと果たすことが求められているだけだ。

お盆の合併号であるため通常より長く書店に並ぶはずである。ぜひ広河氏の“弁明”を読んで、活動再開が許されるようなしかたで告発に向き合っているのかどうか、ご確認いただきたい。




2022年7月3日日曜日

広河隆一氏が否定し続ける「性暴力」問題と『広辞苑』のつまみ食い

広河隆一氏が7月5日から、沖縄の那覇市民ギャラリーで「私のウクライナ――惨禍の人々」と題する写真展を開催する予定であることがわかり、『沖縄タイムス』や『琉球新報』が批判的に報道した。その後、抗議が殺到し、写真展は中止になったというが、報道では、広河氏が「性暴力」を行ったかどうかについて、新聞社と広河氏の理解とに齟齬が見られた。

 『沖縄タイムス』(6/30)では、広河氏の性暴力やセクハラについて「性暴力が判明している人物」、「性暴力を重ねてきたことがわかっている人物」などと広河氏がしたことを「性暴力」と認定している。また『琉球新報』(6/30)でも、「性暴力を受けたというデイズジャパンの元アルバイト、アシスタントらの証言が報道され」、「(検証委員会の)報告書は深刻な性被害やセクシュアル・ハラスメント、パワハラが多数あったことを認定した」と、報道や検証委員会に依拠した上で、広河氏の行為を「性暴力」とする報道をしている。  


 しかし、広河氏本人は、一連の問題について、「自身の見解を3月にネット上で掲載したと説明」した上、「自分の中では結論に至っていない」(『琉球新報』6/30)と、一貫して自分のしたことが「性暴力」であるとは認めていないのだ。 さらに沖縄タイムスの阿部岳編集委員の6月29日付けツイートによれば、

「広河隆一氏は私の取材に対し、加害への謝罪どころか、『何をもって性暴力というのか』などと事実関係を争う姿勢に終始した。」という。そして同編集委員は「まさか、性暴力の事実全体を否認しているのか」と何度も確認したところ、広河氏は『定義による』『該当しない人はいない』などと、ごまかし続けた。」という。

この発言から見る限り、広河氏は自身の「性暴力」を否認しているようだ。自分のしたことを「性暴力」だと認めていないのであれば、やったことの反省もしていないということになり、問題の解決にはほど遠い。

阿部氏によれば、広河氏はさらに「仕事と性暴力事件を切り分けることも希望した。」という。

広河氏の性暴力は仕事上の関係者との間で起きているのだから、切り分けろというのは無理というものだ。また、「仕事」が「写真展」を指すとしたら、広河氏が自らの性暴力を認めず、反省もしていない以上、そうした人物の「写真展」を行うことに反対する人や組織が出るのは当然のことだ。そして、この写真展は中止されることになった。 


広河氏の性暴力やセクシュアル・ハラスメント、パワーハラスメントについては、被害を受けたと複数の女性が名乗り出ており、設立された検証委員会で、それらが性暴力だったと認定されている。それにもかかわらず広河氏はネット上に掲載した「手記」で、「性暴力」を否定した上で詭弁に満ちた言い訳を展開している。


 広河氏の「手記」での「性暴力」に関する記述の特徴のひとつは、自らの行為が「性暴力」ではなかったと正当化するために、『広辞苑』の「暴力」や「性暴力」の語釈を利用していることだ。冒頭で、以下の説明がされている。 

読者と用語の概念を共有する一助とするために、ここに広辞苑(岩波書店)の最新版である第7版(2018年1月12日発行)に書いてある説明をいくつか表記しておく。これは広辞苑が最も信頼できるという意味で用いているのではないが、あくまで私がどのような意味付けでこれらの言葉を用いているかということの参照のためである。  なぜならこれらの言葉を巡る環境がいま大きく変化しており、様々な解釈が表れていて、用語の統一がなければ意味がかみ合わないことがあるからだ。広辞苑による解説は専門家や活動家にとっては古い解釈とみなされることがあるかもしれないが、これを読まれる大多数の人々の解釈と理解を判断するには助けとなるのではないかと思えた。 ぼうりょく〔暴力〕 = 乱暴な力。無法な力。なぐる・けるなど、相手の身体に害をおよぼすような不当な力や行為。 せいぼうりょく〔性暴力〕 = 主に女性や幼児に対する強姦や性的ないたずら、セクシャル・ハラスメントなどの暴力的行為。 レイプ = 強姦 強姦 = 暴行・脅迫の手段を用い、または心神喪失・抗拒不能を利用して女子を姦淫すること。無理やり女性と交わること。  (二次加害、セカンドレイプも紹介されているが、割愛した) 


広河氏は、『手記』で「身体的暴力」を行使していないという点を強調し、結果的に「性暴力」も行使していないと詭弁を弄する。しかし「性暴力」は必ずしも「身体的暴力」の行使を伴うものではないことは周知の事実である。 広河氏は、『週刊文春』が「レイプをおこなった」「性暴力をふるった」と書いたのは、読者に「悪質なイメージ」を抱かせるための誇張であったと主張し、その根拠として『広辞苑』を持ち出した。

『広辞苑』では「レイプ」や「強姦」は「暴行・脅迫の手段を用い」る、あるいは「無理やり」性行為をすることだと定義している。広河氏は、そうした解釈をご都合主義的に持ち出し、自分はレイプと書かれたから、「身体的・物理的暴力による性交をおこなった」と受け止められるはずで、それは『週刊文春』が部数を伸ばすために誇張した結果なのだと、自分のしたことを棚に上げて、次のように『広辞苑』と『週刊文春』を手前勝手に我田引水している。

 広辞苑第7版(2018年刊)では、レイプと引けば強姦と書かれ、強姦を引けば「暴行・脅迫の手段を用い、または心神喪失・抗拒不能を利用して女性をおかすこと。無理やり女性と交わること。強淫。婦女暴行」と書かれ、身体的暴力の意味合いが非常に強い言葉だということが分かる。 週刊文春の読者の大多数である一般の人にとっては、私が「性暴力をふるった」と書かれれば、それは私が女性に身体的な暴力をふるったと理解される。「レイプをおこなった」と書かれれば、「身体的・物理的暴力による性交をおこなった」とほとんどの人が受け止める。


 広河氏は、これまでも自分は「強姦」や「レイプ」をしていない、「性的関係には合意があった」「恋愛だと思っていた」などと強弁している。つまり広河氏は、自分がしたことは「性暴力」ではないと否認するために「レイプ」や「性暴力」=「身体的暴力」という解釈を可能にするかのような『広辞苑』に飛びついたのだろう。 「性暴力」を「主に女性や幼児に対する強姦や性的ないたずら、セクシャル・ハラスメントなどの暴力的行為。」とする『広辞苑』の語釈だと、「女性や幼児への強姦や性的ないたずら」という表現で、女性に対し男性が一方的に性行為を強要する性犯罪のイメージが連想され、文末でも「暴力的」が強調されていることから、広河氏からすると好都合と受け止めたのかもしれない。 


『広辞苑』の語釈が、一見してわかる古い解釈であることも事実だが、広河氏はこれを「古い解釈」とみなすのは「専門家や活動家」だけであって「大多数の人々」はそうは思っていないと考えているようだ。 しかし「本人が望まなかった性的なできごとは、すべて性暴力」という上にあげた定義は、本当に、一部専門家のみが用いる用語だろうか。いや、そうではない。性に関する認識や政策が古く、後手後手に回ることが多い日本政府すら認めている定義である。日本政府の「性犯罪・性暴力とは」の説明は、以下の通りだ。 

いつ、どこで、だれと、どのような性的な関係を持つかは、あなたが決めることができます。望まない性的な行為は、性的な暴力にあたります。(内閣府・男女共同参画局) 


2001年に制定された「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律(いわゆるDV防止法)」では配偶者や恋人など親しい間柄にある相手からの「暴力」とは「身体に対する不法な攻撃であって生命又は身体に危害を及ぼすもの」「又はこれに準ずる心身に有害な影響を及ぼす言動」と定義されている。「暴力」は、決して殴る・けるなどの身体的暴力だけではないのだ。 さらに、内閣府による親密な関係における「暴力」に関する調査では、身体的暴力以外にも、心理的攻撃・経済的圧迫・性的強要などを「暴力」に含めて「暴力」の有無を調べている。どうみても、『広辞苑』が時代遅れだということになる。


 その一方広河氏は、『広辞苑』を正しく活用しているわけではなく、『広辞苑』の中で自分にとって都合のよい語彙だけをつまみ食いしているのだ。例えば、性暴力が身体的な暴力だという主張をしているが、『広辞苑』の性暴力の中には「セクシャル・ハラスメント」が含まれる。そこで「セクシャル・ハラスメント」の語釈を見てみると、「性にかかわって人間性を傷つけること。職場や学校などで、相手の意に反して、とくに女性を不快・苦痛な状態に追い込む性的なことばや行為。性的いやがらせ。セクハラ。」とある。つまり、「人間性を傷つける」や「不快・苦痛な状態に追い込む」は、決して「身体的暴力」に留まらない。むしろ、「精神的暴力」など精神面に影響をあたえる行為だと『広辞苑』は解釈しているのだ。


したがって、『広辞苑』の解釈をそのまま活用するなら、セクシャル・ハラスメントを含む「性暴力」が「身体的暴力」に限定されるとは言えなくなる。 しかし広河氏は、そうした都合の悪い用語や解釈は見なかったことにし、あくまで「性暴力」を「身体的暴力」であると強弁しているのだ。『広辞苑』に依拠しているから「大多数の人々の解釈」だと言い張っているが、実際は『広辞苑』の中からご都合主義的にピックアップして『広辞苑』の権威を悪用しているのだ。 


その一方で『広辞苑』を刊行する岩波書店には、性暴力の加害者に言い逃れの余地を残すような時代遅れの定義を見直すよう求めたい。『広辞苑』が性をめぐる実情や差別に疎い傾向があることは、第7版発行直後にLGBTの定義が間違っていたことが発覚したことからも伺える。その際は、修正を検討するということだったが、LGBTのみならず、「性暴力」のみならず、「強姦」「和姦」「性犯罪」など性に関わる関連語でも、強固な性別二元論及び、偏ったジェンダー観・セクシュアリティ観に基づいた誤った解釈がなされているように思われる。性暴力や、ジェンダーやセクシュアリティに関して、時代に立ち遅れた語釈問題は、早急に抜本的な見直しに着手する必要がある。 


『広辞苑』に問題はあってもそれで広河氏の行為の正当化が許されるわけではないことは明白だ。広河氏は自分の権力を乱用して自分のところに憧れて来た若いフォトジャーナリストの女性たちがNOとは言えない状況を作って性行為に及んだ、つまり職場での優越的立場を利用して若い女性たちの意に反する性行為を強要したのである。これが性暴力であることに疑問を差し挟む余地は微塵もない。広河氏は事前に『広辞苑』を見て、大丈夫だと思ってそれらの行為を行ったはずはなく、性暴力を行ったということを認めたくないからそれを否定するために使えそうな材料として後付けで『広辞苑』を動員したに過ぎない。『広辞苑』を悪用した広河氏の「性暴力」の解釈は、どんなことをしてでも自分の性暴力を認めないという広河氏の姿勢を顕わにしたものといえる。 


広河氏は、沖縄での写真展のために「フォトジャーナリズムに興味ある方、写真が好きな方、学生(18歳以上)歓迎します。最終日は懇親会、意見交換など行いたいと思います。」と懲りもせずに、ボランティアの募集をかけていたようだ。しかしこれまで広河氏による性暴力などの被害を受けた人たちは「フォトジャーナリズムに興味がある方」や、「写真が好きな方」たちだった。「性暴力」を誤魔化して言い逃れをするなど姑息な手段はもはや通用しない。広河氏は、まずこれまでの被害者にきちんと謝罪し、問題の解決を図るべきだ。その上で、これまで繰り返してきた性暴力やセクハラ、パワハラをもう二度と起こさないようにするのが 人としての誠実な対応だと思う。

2021年10月8日金曜日

沖縄の運動で起きたセクシュアル・ハラスメントの報道

 広河隆一氏は、いわゆる「人権派」のフォトジャーナリストで知られていただけに、2018年末の「週刊文春」を皮切りに世に知られることになった彼の長年にわたる性暴力は、「平和」「人権」のために権力と闘うと標榜している世界に衝撃を与えた。そのせいか、彼の同業者(フォトジャーナリスト、ドキュメンタリー映像作家、「チェルノブイリ」「フクシマ」など反原発の世界の人々など)とも言える人たちは概ね口を閉ざし、公に広河氏を糾弾することはほとんどなかった。私(乗松)が個人的にコンタクトをとった同業者は、1)無視する、2)広河氏の生い立ちなどを引き合いに出し同情する、3)「ああ、あんなの誰でもやっている」と矮小化するような傾向があった。同業者が、公的に懸念を表明するような記事やSNSもあったが、広河氏を結果的には擁護しているとしか思えなかったり、言い訳がましかったりするものがほとんどであった。

社会運動内のハラスメントが発覚するとき、その運動のコミュニティー全体の向き合い方が問われることになる。先日、新たに、沖縄における社会運動内の性被害が報道された。9月28日付『琉球新報』社会面で、2018年1月、沖縄の運動体の宿泊施設で、運動に関わる女性が、運動体の男性からセクシュアル・ハラスメントを受けた件だ。女性は「強い口調で何度も制止」したが、男性は女性を「どう喝」し、そこで見ていた運動体の別の男性も傍観しているだけであった。寝室に逃げ込んでも男性は寝室まで入ってきて、他の宿泊者が止めに入りようやく止まったという。どれだけ怖かったことか、想像するだけで体が震える。

私が信じられないのは、加害者、傍観者双方が今でも新聞社の取材に対し、酒を飲んでいたから「はっきりと覚えていない」「記憶がない」と話していることである。反省も誠意のひとかけらも感じられない。この運動体が謝罪文を出し、「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」共同代表の高里鈴代氏を講師に迎え勉強会までやっているのだから、この男性たちが構成員を成す運動体としては明白に事実を認定しているのである。それなのに個々の取材で「覚えていない」とは。韓国出身のフェミニスト学者の友人が、「韓国も日本も酒に酔っていることが刑罰の減免につなが」ってしまう文化であると言っていた。日本では「酒の席では多少のことは許される」という価値観自体が女性を危険に晒しているのだ。

9月28日「琉球新報」の報道は転載許可を受けてPeace Philosophy Centre のブログに転載した。ぜひまずこれを読んでほしい。識者談話として、高里鈴代氏、村上尚子弁護士のコメントも出ている。

https://peacephilosophy.blogspot.com/2021/10/by-sexual-violence-within-social.html

↑この報道に対するコメントとして、私は同紙に連載している「乗松聡子の眼」44回目として、10月3日にコラムを出した。これは私が著作権所有者なので私がテキストを転載するには問題ないということなのでここに転載する。(文中のリンクは著者が転載にあたって追加したものです)


社会運動の中の性暴力 被害者を孤立させるな

乗松聡子

9月28日の本紙社会面に「性的被害 社会運動でも」という見出しで、沖縄の社会運動の中で起こっている性差別や性暴力という人権侵害に焦点を当てた記事が出た。

「#MeToo」運動は2017年10月、米国の大物映画プロデューサーのハーベイ・ワインスタイン氏が自分の権力を使って多くの女優に性暴力を行ってきたことを「ニューヨーク・タイムズ」がスクープしたことがきっかけに拡大した。

米国の#MeTooの火付け役が米国を代表する新聞だったことに比べ、概して日本の新聞は性暴力報道に及び腰で、被害者は週刊誌に頼らざるを得ないように見えた。「人権派」フォトジャーナリストの広河隆一氏の長年にわたる性暴力を最初に報じたのも、「週刊文春」だった。

そのような状況において、沖縄の米軍基地への抵抗運動を支えてきた新聞社である「琉球新報」が敢えて運動の中の性暴力・セクハラを報じたことは画期的なことであった。私はこれまで、運動の中にいる人たちからはいろいろな話を聞いたことがあるが、沖縄のメディアが取り上げることは今までなかったと思う。

人権を重んじ差別に反対する「社会運動」でセクハラや性暴力が起きるのは、これらの世界でもいまだに圧倒的な男性支配の構造が続いているからである。ジェンダーギャップが国際的にも最悪レベルと言われる日本では、保革を問わず性差別がまん延しており、社会運動だけに真空状態が存在するはずもないのだ。自分を含む、運動の中にいる女性たちは身を持って知っている。

昨年9月ツイッターに登場した「すべての馬鹿げた革命に抗して」というアカウントは、社会運動に参加したことのある女性たち53人にアンケートを行い、うち9割以上が運動内でセクハラを体験・目撃している。そこには、「反権力」「平和」「人権」を謳う者たちがいかに自らの権力を利用して女性を踏みにじってきたかの生々しい実例が多数報告されている。

社会運動で起こるセクハラや性暴力の被害者が声を上げようとすると、「運動を割る」「権力側を利する」といった理由で隠蔽圧力がかかる。女性なら味方してくれるかというと、そうとも限らない。性差別を内面化した女性が加害者を庇ったり、「それぐらい我慢して当然だ」と言ったりするときがある。それで被害者はますます孤立感を味わう。

本紙の記事で証言した被害者・体験者はそのような圧力に負けずに声を上げた女性たちだ。もちろん活字になるケースは「氷山の一角」である。彼女らは、同じことを繰り返させないとの一心で、思い出したくもない体験を何度も再現するのに、加害者側は「知らない」「覚えていない」の一言で一蹴してしまえる。彼女らは、何も悪いことをしていないのに、加害者と顔を突き合わす可能性がある運動にもう戻ることすらできない。

これらの不条理の中で、被害者の言葉を受け取る者たちの責務は、彼女らを孤立させないことだ。いま、運動の中ではハラスメント学習会が開催され、いろいろな「気づき」が起こっているということも聞いている。本紙の記事をきっかけにこのような動きが広まることを願っている。(「アジア太平洋ジャーナル・ジャパンフォーカス」エディター)

(10月3日「乗松聡子の眼」転載 以上 デジタル版ではここ

今回のケースは3年以上経ってやっと報じられた。ここまで来るには長い道のりがあり、このケースの背後には、被害者が証言できないといった理由で報じることのできないもっとたくさんのケースがある。今回の記事の被害者の勇気、忍耐力、持久力に心から敬意を表する。

これらの記事を読んで、広河隆一氏が代表を務めていた「DAYS Japan」 の元編集者、小島亜佳莉氏がコメントをくれた。

この記事が出るまでにたくさんの苦労や実際には書けなかったことなどもあると思いますが、それでもこれだけの記事が新聞に載ったというのは本当に第一歩だと思いました。広河隆一の問題が明るみになったときに、こういった社会運動だからこその構造的な問題がもっと広く考えられるような動きになればいいと思っていたのがなかなか十分にはできなかったなという少し悔しい思いがあったのですが、またこれも一つのきっかけになるんじゃないかと思います。少しずつでも変えていけるように私も動いていきたいです。

小島氏が言うように、これは「第一歩」、始まりであり、終わりではない。沖縄から基地を減らしなくそうという運動、言論に参加してきた私としても、運動自体の中で女性やマイノリティの人権が侵害されるような運動ではいけないと思う。運動のためにもこのようなことが起きたら運動コミュニティー全体でしっかり向き合い、加害者が誠意を持って償うことが大事だ。見て見ぬ振り、なかったことにしてはいけない。

私のコラムで触れた「すべての馬鹿げた革命に抗して」のツイッターアカウントは、SEALDS運動に関与した女性たちによって始められたと、毎日新聞の記事(2020年11月8日)は報じている。女性たちはこうやって匿名で声を上げているのに男性たちはどうなのか。SEALDSに関わった男性たち、目撃した男性たちはどうして何も言わないのか。衝撃的な内容なのにもかかわらずフォロアーも2500人強、取り上げたメディアも毎日新聞だけで、社会的な注目を浴びているとは言い難い。

広河氏の被害者、沖縄の運動の被害者、SEALDSを含む日本全体のリベラル運動におけるハラスメントの被害者たちを孤立させず、自分たちの闘いのメッセージと言動が矛盾しない運動体を作り上げてこその運動だと思う。ある、運動内のハラスメントを目撃した女性はSNSで「左翼の運動業界はリベラルの皮をかぶった家父長制の権化」と言っていた。構造問題に目を向けながらも個々の事例に向き合い、被害者を孤立させずに、ハラスメントのない運動を築こう。

★★★

今回の件では他の沖縄メディアでもまだ後追い取材をしている様子はないし、運動の中でも静かな波が起こっている感覚はありますが概ねスルーされています。SNSでシェアしても「いいね」「大切だね」リアクションは一定数あっても、自分からシェアしたり声を上げる人はあまりいないです。

目をそむけないでください。無視しないでください。「貴重な記事を」とか「ご教示を感謝」とか言って関心のあるフリだけして行ってしまわないでください。「世の中には他にも重要なことがある」とか言って脱線させないでください。「自分はこういう記事を書いている」とか言ってきて、自己宣伝しないでください。私たちが提示する実例にまずは目を向けてください。被害者に思いを馳せてください。共に声を上げましょう。

21年10月7日 乗松聡子


2020年10月14日水曜日

「考える会」の性暴力報道のリテラシーとは(2)ーーデイズジャパン最終検証報告書の検証(5)  米ニューヨークタイムズは「レイプ」と「合意のない性関係」を区別

 フェミニストたちが、重大な人権侵害である「性暴力」については、加害の事実を矮小化する「乱暴」などの曖昧な表現より、深刻な実態を捉えた「ごうかん(強かん)」や「レイプ」と表現すべきだと訴えてきたことについては、「考える会」の性暴力報道のリテラシーとは(1)で述べてきた。 

 ここでは、「セクハラ報道と検証を考える会」が、「デイズジャパン最終検証報告書の検証(5  米ニューヨークタイムズは「レイプ」と「合意のない性関係」を区別 において、「刑事犯の場合は”レイプ”という言葉」を使うが、それ以外では「レイプ」などの表現はあまり使わないというニューヨークタイムズと、広河氏事件について「レイプ」と報じた日本の「週刊文春」とを比較して、ニューヨークタイムズを高く評価している点について、考えたい。


 そもそも、米国の新聞・ニューヨークタイムズと、日本の週刊誌である『週刊文春』を、単純に「センセーショナルか、そうでないか」という点で比較するが、報道スタイルや取材態勢等が全く異なる媒体を比較するのは乱暴すぎると思う。 


 もちろん、ニューヨークタイムズが「レイプ」が強い意味を持つ表現だから、それより「読者にできるだけ多くの情報を提供するために、徹底的に正確に伝えようと心がけ」たというのは、正当な方策だと思う。


 一方、日本の場合、性暴力を告発する媒体としては、新聞が性暴力報道に消極的であることもあって、週刊誌での報道が多い。週刊誌の場合、あくまでその内容の如何を判断するのは読者に委ねられつつ、他の媒体では書きづらいことを表に出していく役割を担っている面はある。そして、広河氏事件についても『週刊文春』で取り上げられ、初めて広河氏が性暴力事件を起こしていることが発覚したということだ。『週刊文春』の広河氏の事件を報じる記事では「レイプ」が使われている(「あの人は私を2週間毎晩レイプした」広河隆一”性暴力”被害女性が涙の告発」)。しかしそこでの「レイプ」表現は、被害女性の発言部分であり、鉤括弧がつけられている。『週刊文春』は、被害女性の発言部分以外では「レイプ」表現を使わないというほどには、抑制的であるといえよう。いずれにしろ、米国の新聞と日本の週刊誌を単純に比較し、米国の新聞を評価するというのは、議論として粗雑すぎるのではないだろうか。


 また、「考える会」が「ニューヨークタイムズでは、セクハラ記事に“レイプ”という言葉を使わず、“合意のない性的関係”などを使用してきました」。「日本でも、“レイプ”(=強かん)は犯罪行為です(刑法177条 強制性交罪)。このニューヨークタイムズの基準に照らして考えてみましょう。」というのも乱暴な議論で、誤解を与えるものだ。


 まず、「考える会」は、「複数のジャーナリストと弁護士らが議論」しているという解説文を引いて、日本でも「“レイプ”(=強かん)は犯罪行為(刑法177条 強制性交罪)。」だから「ニューヨークタイムズの基準に照らして考えてみましょう。」と書く。しかし、このニューヨークタイムズの文章は、「レイプ」の代わりに「合意のない性的関係」を使ったことへの批判が相当届いたたためにそれへの応答として書かれたものである。そのため「レイプ」を使わなかった理由を縷縷説明したものだ。


 ニューヨークタイムズは、「キャンパスレイプ」など学生の事例で告訴されているケースでは「レイプ」表現を使ったが、裁判になっていない場合には、刑事事件という意味合いを帯びる表現ではあるものの、「性的暴行(sexual assault)」を最もよく使っているなど、性暴力をいかに表すかで苦慮していることを説明している。「合意のない性的関係」についても、性暴力の場合、「合意」の有無が重要だから、使っているものの、深刻な事例、暴力的な場合には、それよりも「性的暴行(sexual assault)」を使っているなどと状況次第で用語も変わることについて説明を加えている。だがそうしたことには触れず、ニューヨークタイムズが単に「合意のない性的関係」としてきたかのように「考える会」が書くのは、性暴力の矮小化であり、誤解を招くものだ。


 さらに、「考える会」は欧米の報道ガイドラインを礼賛するが、報道ガイドラインは刑事司法制度を基準にしている点で限界もある。ニューヨークタイムズも書いていることだが、国や州によって「レイプ」の定義が異なっているという問題もある。新聞が「レイプ」と報道しても、その意味内容が読者によって理解が異なるということになるからだ。


 

 さらに、単純に「欧米を基準に」というのが通用しない要素には、国により刑事司法制度が相当異なるという面もある。性犯罪の場合、被害の記憶を忘却しないと生き延びることができないほどダメージが大きい場合もあり、被害を認識するのに時間がかかることも多い。英国などでは、すでに性犯罪について公訴時効が撤廃されているが、日本ではいまだ短いままであり、その結果、深刻な性暴力であっても、刑事事件化しづらいという問題がある。広河氏の被害例でも時効という壁に阻まれているケースもあるのではないだろうか。


 このように「考える会」のニューヨークタイムズと週刊文春の比較は、単純すぎて、抜け落ちるものが多すぎる。報道スタイル等が異なること、報道ガイドラインと各国の刑事司法との関係、欧米と日本の刑事司法の違いなど、抜け落ちている部分にこそ考えるべき重要な点がある。これでは、「考える会」は、ただ単に広河氏の性暴力を報道した『週刊文春』の信ぴょう性を貶めようとして、「欧米」を持ち出しているだけだ、と言わざるを得ない。

2020年9月22日火曜日

「考える会」の性暴力報道のリテラシーとは(1)



今回は、「セクハラ報道と検証を考える会(以下、「考える会」と略す)」の「セクハラ報道」に関する議論を検討していきたい。

 「考える会」は、「日本における性被害をなくし、セクシャルハラスメント報道のリテラシーを考えていきたい」と設立にあたって述べる一方(「セクハラ報道と検証を考える会」設立の趣旨)、日本では海外とは異なり、性暴力を報じるための手引書などは存在せず、性暴力と報道に関する議論も起きていない(「増加する海外のセクシュアル・ハラスメント報道」)と、日本での性暴力と報道の議論が不活発であるとし、それに懸念を示す。

 さらに、「海外ではセクハラや性暴力の報道においては、使用される言葉が非常に重要とされています」などと海外の報道状況を評価する一方、日本の性暴力報道では「レイプ」を使うなど表現に問題があるとして、広河氏の性暴力を報道した週刊誌を批判している。

 そこで本稿では、「考える会」の主張する、以下の3点について順次、検討していく。

1)「考える会」が、日本では性暴力を報じるための手引書などは存在せず、性暴力と報道に関する議論も起きていないと主張している点について
2)「考える会」が『週刊文春』の「レイプ」表現を批判している点について
3)「考える会」が「セクハラ報道」と「セクハラ」を名称に掲げている点について

  まず、今回取り上げるのは、「考える会」が「日本では、セクシャルハラスメントや性暴力を報じるための特別な手引書のようなものはいまだ存在せず、そうした議論も起きていない。」と主張する点についてだ。「考える会」としては、「被害者たちを傷つけないためにも、また過度に煽る報道がなされないためにも、最低の規定は必要だ」と述べる(「増加する海外のセクシュアル・ハラスメント報道」)。要するに、性暴力やセクシャルハラスメントと報道についての議論はまだ起きてないという主張だ。

 しかし、そんなことはない。これまでフェミニズムはずっとマスメディアに対し、性暴力やセクシャルハラスメントなどの報道について、性差別という観点から抗議や議論をしたり、ガイドラインを提起してきている。そして報道も差別をしないという観点から「記者ハンドブック」や「用語の手引」などでフェミニズムの主張を取り入れている。「考える会」はそうした性暴力と報道をめぐる動きに疎いのではないか。

 以下では、日本の新聞報道において、「性暴力」関連の用語が報道でどのように扱われてきたか、そしてそれに対してフェミニズムという観点からどのような働きかけが行われてきたか、その経緯を紹介しておきたい。最後に、現在の「記者ハンドブック」や「用語の手引」での性暴力の扱いを確認しておく。

 長らく、マスメディアでは、性暴力については「(性的)いたずら」「乱暴」「婦女暴行」などと軽く大したことではないという意味を持たされた用語が使われ、問題の本質を曖昧にし、実態が矮小化されてきた歴史があった。しかし、日本でも1970 年前後にウーマンリブ運動が起き、メディア報道における性差別を問題にする流れが盛んになった。それ以降、さまざまな女性グループがメディアの性差別表現について抗議したり、TVや新聞、雑誌などにおける性差別について、問題提起を続けてきた。当時、女性運動と女性記者は性差別表現やガイドラインについて議論を積み重ねており、そうした成果も反映していると考えられる。

 例えば、1975年に生まれた「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」は、「マス・メディアの性差別を告発」することを大きな柱して取り組んできた。セクシャルハラスメントや性暴力の撤廃は、その中で、重要な課題であり続けた(「マス・メディアの性差別を告発」行動する会記録集編集委員会編『行動する女たちが拓いた道ーメキシコからニューヨークへ』(駒野陽子、未来社、1999年、p.20)。こうした流れの中で、1980年代に、「その暴力的人権侵害の本質を表現した」用語として「性暴力」が使われるようになった(宮淑子『性暴力 レイプ』(サンマーク出版、1984年)。すなわち、「性暴力」という言葉自体、「フェミニズムによる対抗言語」として生まれたものなのだ。

 「性暴力」をどう表現するかはメディアの性差別問題では、常に重要な懸案だった。マスメディアは、これまで「強姦(かん)」を「不快用語」として扱い、それゆえ「婦女暴行」「暴行」あるいは「乱暴」などと曖昧な表現に言い換えてきた。フェミニズムはそうした報道姿勢を問題にし、「強姦(かん)」罪に相当するのであれば、「強姦(かん)」と明記することを提案してきた。「不快用語」とするのは、もちろん筋違いである上、「暴行」と言い換えると、一般の暴力行為と紛らわしく、加害者の社会的責任を軽減し、犯罪や容疑の実態をあいまいにする。そのため、女性の性的・身体的自由を侵害し、心身を深く傷つける重大な人権侵害である「性暴力」の実態を捉えた表現にすべきだと、フェミニスト視点によるガイドラインを訴えてきた。『きっと変えられる性差別語ー私たちのガイドライン』(上野千鶴子・メディアの中の性差別を考える会編、三省堂、1995年)はそうしたガイドライン提案の一つだが、そこでは「いたずら」「婦女暴行」「乱暴」、「わいせつ」など性暴力を隠蔽する表現について、被害者が特定されないような十分な配慮をした上で、性暴力であることを明記した表現にするよう求めている。

 もちろん、マスメディアがすぐにフェミニズムの訴えにより人権を配慮した表現に変えたかというとそうではなかった。例えば、「メディアの中の性差別を考える会」が1991年に全国の新聞各社および、日本外国特派員協会所属の海外ジャーナリストに性差別表現について行ったアンケート調査では、「性犯罪報道において「いたずら」や「淫らな行為」という表現を使うことについてどう考えるか」という問もあった。その結果によれば、「『強姦』などの表現は読者に不快感を与えるので、好ましくない」という国内新聞社の回答が85%に達したという(「性差別的表現をめぐる新聞各社へのアンケート」メディアの中の性差別を考える会『メディアに描かれる女性像 新聞をめぐって』桂書房、1991年、pp.1790-195)。「被害者の人権に配慮して、30年前から『強姦』は使用されなくなった」と説明する社もあった。その一方、海外メディアの回答は、数は6名と少ないものの全員が、「いたずら」ではなく「強かん(レイプ)」とはっきり書くと答えていた。理由として「犯罪事実を明確にすることは、情報伝達の必須条件」「その他の表現をつかうことは偽善」などをあげており、海外と日本のメディアのギャップは大きかった。

 しかし、その後、日本でも性暴力に関して、刑法が110年ぶりのに改正されたり、報道の基準が変化したりしている。2017年には、性暴力犯罪について、従来「強姦罪」として被害者は女性で、性交のみを対象としてきたものを、被害者・加害者の性別を問わず、性交のみならず性交類似行為を含めることとし、名称も「強制性交等罪」に変わり、量刑も最低5年へと厳罰化した。この改正では、時効が短いことや、地位を利用して起こる性加害が入らないことなど残された課題も多く、2020年に見直すという付帯決議が付けられた。

 報道ガイドラインについても、共同通信社『記者ハンドブック13版』(2016年)では「被害者が特定される恐れがない場合に限り、罪名・容疑名は「強姦(ごうかん)」を使ってもよい」と被害者の人権を最大限に守った上で、加害の深刻さを示す「強姦(ごうかん)」を「容疑」としても使うことを認めた。同『記者ハンドブック』については、確認できた範囲では、少なくとも2002年度版以降は、言い換えとして「乱暴」も例には入れているものの、「女性暴行」「性的暴行」をあげるなど、単なる暴力ではなく、性暴力であることを明示する方向に進んでおり、刑法改正前の2016年度版では「強姦(ごうかん)」という罪名表記も認めている。それは、共同通信が、『記者ハンドブック』において、1990年代後半以降、「性別を理由にした社会的、制度的な差別につながらないよう注意する」などのように、「性差別」に留意するようになったことと連動した、被害者の人権への留意の結果と考えられる。

 『朝日新聞の用語の手引』(2019年)は、「ごうかん(強姦)」を「性的暴行」と言い換えるよう例示しつつ、「『強制性交罪』の旧称である『強姦罪』などは別」と注記している。これは「強姦」罪に相当するのであれば、「ごうかん(強姦)」などの罪名を明記することを認めるというものだ。共同通信社のように、「容疑名」であっても「強姦(ごうかん)」とすると踏み込んでいるところもある。ただし刑法上の罪名で使われていた「強姦」だが、「姦」という漢字が女性蔑視的だとフェミニズムからの批判があり、上述の朝日の『手引』でもそれを避けて「ごうかん」と提示されてきた経緯がある。このようにまだ問題があるとはいえ、「不快用語」として隠蔽していた時代からは一歩前進だ。

 すなわち、「考える会」がいう「日本では、セクシャルハラスメントや性暴力を報じるための特別な手引書のようなものはいまだ存在せず」という主張については、「手引書」の中で基準を示そうとしている。また、「考える会」は「そうした議論も起きていない。」と海外の報道ガイドラインのみを紹介するが、日本でも、70年代からフェミニズムが取り組んできた歴史を見落としている。議論があるにもかかわらず、報道側が取り入れるのが遅れているのは、日本のメディアが性差別や性暴力について遅れをとっていることの表れだ。いずれにしろ「考える会」の国内での「性暴力報道」についての主張は、事実とはだいぶズレていることだけは確かだ。