2022年11月13日日曜日

広河隆一氏のツイッターアカウントが公開アカウントに

 2022年11月12日、広河隆一氏が突如自身のツイッターアカウントの「鍵」を外し、公開アカウントに移行した。

リツイートが可能になったことをアピールしていることから、氏が自身の活動を広く周知させることを望んでいることが伺われる。

私たちは「告発」以降の広河氏の活動のうち公になっているものを把握し、彼が自身に対する告発の意味を依然として理解できていないことを当ブログで明らかにしてきた。きちんとした反省も謝罪もないままに公然と活動を再開することは被害者に対する二次加害になりかねない。公開アカウントへの移行を批判するとともに、今後とも氏の活動を注視してゆくことを宣言しておく。 

2022年8月6日土曜日

『週刊金曜日』が広河隆一・写真展問題を報道

昨日発売の『週刊金曜日』2022年8月5日・12日合併号に、広河隆一氏が沖縄で写真展を企画し批判を浴びて中止になった件に関する記事が掲載されている。執筆者は『沖縄タイムス』の阿部岳記者(編集部渡部睦美氏による囲み記事も)。全部で4ページの特集記事だがそのうち1ページ強を割いて広河隆一氏へのインタビューが掲載されている。印象に残るのは広河氏が「極端なフェミニストから攻撃されている」と漏らしたという点だ。その言葉こそ用いられていないが自らを「キャンセル・カルチャー」の被害者ととらえているのだろうか。しかし当会が把握している限りで、広河氏は未来永劫公の場で活動すべきでないと主張している者はいない。まず被害者に対する責任をきちんと果たすことが求められているだけだ。

お盆の合併号であるため通常より長く書店に並ぶはずである。ぜひ広河氏の“弁明”を読んで、活動再開が許されるようなしかたで告発に向き合っているのかどうか、ご確認いただきたい。




2022年7月3日日曜日

広河隆一氏が否定し続ける「性暴力」問題と『広辞苑』のつまみ食い

広河隆一氏が7月5日から、沖縄の那覇市民ギャラリーで「私のウクライナ――惨禍の人々」と題する写真展を開催する予定であることがわかり、『沖縄タイムス』や『琉球新報』が批判的に報道した。その後、抗議が殺到し、写真展は中止になったというが、報道では、広河氏が「性暴力」を行ったかどうかについて、新聞社と広河氏の理解とに齟齬が見られた。

 『沖縄タイムス』(6/30)では、広河氏の性暴力やセクハラについて「性暴力が判明している人物」、「性暴力を重ねてきたことがわかっている人物」などと広河氏がしたことを「性暴力」と認定している。また『琉球新報』(6/30)でも、「性暴力を受けたというデイズジャパンの元アルバイト、アシスタントらの証言が報道され」、「(検証委員会の)報告書は深刻な性被害やセクシュアル・ハラスメント、パワハラが多数あったことを認定した」と、報道や検証委員会に依拠した上で、広河氏の行為を「性暴力」とする報道をしている。  


 しかし、広河氏本人は、一連の問題について、「自身の見解を3月にネット上で掲載したと説明」した上、「自分の中では結論に至っていない」(『琉球新報』6/30)と、一貫して自分のしたことが「性暴力」であるとは認めていないのだ。 さらに沖縄タイムスの阿部岳編集委員の6月29日付けツイートによれば、

「広河隆一氏は私の取材に対し、加害への謝罪どころか、『何をもって性暴力というのか』などと事実関係を争う姿勢に終始した。」という。そして同編集委員は「まさか、性暴力の事実全体を否認しているのか」と何度も確認したところ、広河氏は『定義による』『該当しない人はいない』などと、ごまかし続けた。」という。

この発言から見る限り、広河氏は自身の「性暴力」を否認しているようだ。自分のしたことを「性暴力」だと認めていないのであれば、やったことの反省もしていないということになり、問題の解決にはほど遠い。

阿部氏によれば、広河氏はさらに「仕事と性暴力事件を切り分けることも希望した。」という。

広河氏の性暴力は仕事上の関係者との間で起きているのだから、切り分けろというのは無理というものだ。また、「仕事」が「写真展」を指すとしたら、広河氏が自らの性暴力を認めず、反省もしていない以上、そうした人物の「写真展」を行うことに反対する人や組織が出るのは当然のことだ。そして、この写真展は中止されることになった。 


広河氏の性暴力やセクシュアル・ハラスメント、パワーハラスメントについては、被害を受けたと複数の女性が名乗り出ており、設立された検証委員会で、それらが性暴力だったと認定されている。それにもかかわらず広河氏はネット上に掲載した「手記」で、「性暴力」を否定した上で詭弁に満ちた言い訳を展開している。


 広河氏の「手記」での「性暴力」に関する記述の特徴のひとつは、自らの行為が「性暴力」ではなかったと正当化するために、『広辞苑』の「暴力」や「性暴力」の語釈を利用していることだ。冒頭で、以下の説明がされている。 

読者と用語の概念を共有する一助とするために、ここに広辞苑(岩波書店)の最新版である第7版(2018年1月12日発行)に書いてある説明をいくつか表記しておく。これは広辞苑が最も信頼できるという意味で用いているのではないが、あくまで私がどのような意味付けでこれらの言葉を用いているかということの参照のためである。  なぜならこれらの言葉を巡る環境がいま大きく変化しており、様々な解釈が表れていて、用語の統一がなければ意味がかみ合わないことがあるからだ。広辞苑による解説は専門家や活動家にとっては古い解釈とみなされることがあるかもしれないが、これを読まれる大多数の人々の解釈と理解を判断するには助けとなるのではないかと思えた。 ぼうりょく〔暴力〕 = 乱暴な力。無法な力。なぐる・けるなど、相手の身体に害をおよぼすような不当な力や行為。 せいぼうりょく〔性暴力〕 = 主に女性や幼児に対する強姦や性的ないたずら、セクシャル・ハラスメントなどの暴力的行為。 レイプ = 強姦 強姦 = 暴行・脅迫の手段を用い、または心神喪失・抗拒不能を利用して女子を姦淫すること。無理やり女性と交わること。  (二次加害、セカンドレイプも紹介されているが、割愛した) 


広河氏は、『手記』で「身体的暴力」を行使していないという点を強調し、結果的に「性暴力」も行使していないと詭弁を弄する。しかし「性暴力」は必ずしも「身体的暴力」の行使を伴うものではないことは周知の事実である。 広河氏は、『週刊文春』が「レイプをおこなった」「性暴力をふるった」と書いたのは、読者に「悪質なイメージ」を抱かせるための誇張であったと主張し、その根拠として『広辞苑』を持ち出した。

『広辞苑』では「レイプ」や「強姦」は「暴行・脅迫の手段を用い」る、あるいは「無理やり」性行為をすることだと定義している。広河氏は、そうした解釈をご都合主義的に持ち出し、自分はレイプと書かれたから、「身体的・物理的暴力による性交をおこなった」と受け止められるはずで、それは『週刊文春』が部数を伸ばすために誇張した結果なのだと、自分のしたことを棚に上げて、次のように『広辞苑』と『週刊文春』を手前勝手に我田引水している。

 広辞苑第7版(2018年刊)では、レイプと引けば強姦と書かれ、強姦を引けば「暴行・脅迫の手段を用い、または心神喪失・抗拒不能を利用して女性をおかすこと。無理やり女性と交わること。強淫。婦女暴行」と書かれ、身体的暴力の意味合いが非常に強い言葉だということが分かる。 週刊文春の読者の大多数である一般の人にとっては、私が「性暴力をふるった」と書かれれば、それは私が女性に身体的な暴力をふるったと理解される。「レイプをおこなった」と書かれれば、「身体的・物理的暴力による性交をおこなった」とほとんどの人が受け止める。


 広河氏は、これまでも自分は「強姦」や「レイプ」をしていない、「性的関係には合意があった」「恋愛だと思っていた」などと強弁している。つまり広河氏は、自分がしたことは「性暴力」ではないと否認するために「レイプ」や「性暴力」=「身体的暴力」という解釈を可能にするかのような『広辞苑』に飛びついたのだろう。 「性暴力」を「主に女性や幼児に対する強姦や性的ないたずら、セクシャル・ハラスメントなどの暴力的行為。」とする『広辞苑』の語釈だと、「女性や幼児への強姦や性的ないたずら」という表現で、女性に対し男性が一方的に性行為を強要する性犯罪のイメージが連想され、文末でも「暴力的」が強調されていることから、広河氏からすると好都合と受け止めたのかもしれない。 


『広辞苑』の語釈が、一見してわかる古い解釈であることも事実だが、広河氏はこれを「古い解釈」とみなすのは「専門家や活動家」だけであって「大多数の人々」はそうは思っていないと考えているようだ。 しかし「本人が望まなかった性的なできごとは、すべて性暴力」という上にあげた定義は、本当に、一部専門家のみが用いる用語だろうか。いや、そうではない。性に関する認識や政策が古く、後手後手に回ることが多い日本政府すら認めている定義である。日本政府の「性犯罪・性暴力とは」の説明は、以下の通りだ。 

いつ、どこで、だれと、どのような性的な関係を持つかは、あなたが決めることができます。望まない性的な行為は、性的な暴力にあたります。(内閣府・男女共同参画局) 


2001年に制定された「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律(いわゆるDV防止法)」では配偶者や恋人など親しい間柄にある相手からの「暴力」とは「身体に対する不法な攻撃であって生命又は身体に危害を及ぼすもの」「又はこれに準ずる心身に有害な影響を及ぼす言動」と定義されている。「暴力」は、決して殴る・けるなどの身体的暴力だけではないのだ。 さらに、内閣府による親密な関係における「暴力」に関する調査では、身体的暴力以外にも、心理的攻撃・経済的圧迫・性的強要などを「暴力」に含めて「暴力」の有無を調べている。どうみても、『広辞苑』が時代遅れだということになる。


 その一方広河氏は、『広辞苑』を正しく活用しているわけではなく、『広辞苑』の中で自分にとって都合のよい語彙だけをつまみ食いしているのだ。例えば、性暴力が身体的な暴力だという主張をしているが、『広辞苑』の性暴力の中には「セクシャル・ハラスメント」が含まれる。そこで「セクシャル・ハラスメント」の語釈を見てみると、「性にかかわって人間性を傷つけること。職場や学校などで、相手の意に反して、とくに女性を不快・苦痛な状態に追い込む性的なことばや行為。性的いやがらせ。セクハラ。」とある。つまり、「人間性を傷つける」や「不快・苦痛な状態に追い込む」は、決して「身体的暴力」に留まらない。むしろ、「精神的暴力」など精神面に影響をあたえる行為だと『広辞苑』は解釈しているのだ。


したがって、『広辞苑』の解釈をそのまま活用するなら、セクシャル・ハラスメントを含む「性暴力」が「身体的暴力」に限定されるとは言えなくなる。 しかし広河氏は、そうした都合の悪い用語や解釈は見なかったことにし、あくまで「性暴力」を「身体的暴力」であると強弁しているのだ。『広辞苑』に依拠しているから「大多数の人々の解釈」だと言い張っているが、実際は『広辞苑』の中からご都合主義的にピックアップして『広辞苑』の権威を悪用しているのだ。 


その一方で『広辞苑』を刊行する岩波書店には、性暴力の加害者に言い逃れの余地を残すような時代遅れの定義を見直すよう求めたい。『広辞苑』が性をめぐる実情や差別に疎い傾向があることは、第7版発行直後にLGBTの定義が間違っていたことが発覚したことからも伺える。その際は、修正を検討するということだったが、LGBTのみならず、「性暴力」のみならず、「強姦」「和姦」「性犯罪」など性に関わる関連語でも、強固な性別二元論及び、偏ったジェンダー観・セクシュアリティ観に基づいた誤った解釈がなされているように思われる。性暴力や、ジェンダーやセクシュアリティに関して、時代に立ち遅れた語釈問題は、早急に抜本的な見直しに着手する必要がある。 


『広辞苑』に問題はあってもそれで広河氏の行為の正当化が許されるわけではないことは明白だ。広河氏は自分の権力を乱用して自分のところに憧れて来た若いフォトジャーナリストの女性たちがNOとは言えない状況を作って性行為に及んだ、つまり職場での優越的立場を利用して若い女性たちの意に反する性行為を強要したのである。これが性暴力であることに疑問を差し挟む余地は微塵もない。広河氏は事前に『広辞苑』を見て、大丈夫だと思ってそれらの行為を行ったはずはなく、性暴力を行ったということを認めたくないからそれを否定するために使えそうな材料として後付けで『広辞苑』を動員したに過ぎない。『広辞苑』を悪用した広河氏の「性暴力」の解釈は、どんなことをしてでも自分の性暴力を認めないという広河氏の姿勢を顕わにしたものといえる。 


広河氏は、沖縄での写真展のために「フォトジャーナリズムに興味ある方、写真が好きな方、学生(18歳以上)歓迎します。最終日は懇親会、意見交換など行いたいと思います。」と懲りもせずに、ボランティアの募集をかけていたようだ。しかしこれまで広河氏による性暴力などの被害を受けた人たちは「フォトジャーナリズムに興味がある方」や、「写真が好きな方」たちだった。「性暴力」を誤魔化して言い逃れをするなど姑息な手段はもはや通用しない。広河氏は、まずこれまでの被害者にきちんと謝罪し、問題の解決を図るべきだ。その上で、これまで繰り返してきた性暴力やセクハラ、パワハラをもう二度と起こさないようにするのが 人としての誠実な対応だと思う。

2022年7月2日土曜日

広河隆一氏の沖縄での写真展、中止に

7月5日から那覇市民ギャラリーで開催予定となっていた、広河隆一氏のウクライナ写真展が中止となったことが、7月1日に明らかになった。那覇市民ギャラリーを運営するパレットグループがfacebookに「中止のお知らせ」をポストしたほか、メディアでも報道されている。

琉球新報 「広河隆一氏の写真展が中止 女性への性暴力問題 那覇市民ギャラリー 沖縄」

沖縄タイムス 「広河隆一氏の写真展が中止 性加害への謝罪なし 抗議の動き受け決定 那覇市民ギャラリー」

共同通信 「広河氏の那覇の写真展、中止に 性暴力問題で抗議相次ぐ」

また、この広河氏の写真展問題を報じてきた沖縄タイムスの阿部岳編集委員のツイートによれば、中止は「会場側の提案で、広河氏は自らやめようとはしなかった」という。

 

さらに7月2日付『琉球新報』記事によれば、広河氏は写真展の中止に関して「この件については電話でのお答えはしない」と答えたとのことで、主催者としての説明責任も果たしていない。

広河氏は被害者への謝罪もしないままに今回の写真展の開催を企画した。しかも取材に対して「何をもって性暴力というのか」などと開き直り、仕事と性暴力事件を切り分けることも希望した。広河氏が今もまだ自らの性暴力を認めておらず、真摯な謝罪をする気もないことが露呈した。

SNSでは、広河氏が復活の場として沖縄を選んだことについての植民地主義を批判する声もあった。また、沖縄の市民たちがただでさえ選挙運動で大変な時期に、写真展への抗議行動もせざるを得なくなることで負担がさらに大きくなることも予想されていたので、ひとまずは安心と言えよう。


2022年6月29日水曜日

広河隆一氏、加害への謝罪もないまま沖縄でウクライナ写真展を開催予定

広河隆一氏が7月5日から、沖縄の那覇市民ギャラリーで「私のウクライナ――惨禍の人々」と題された写真展を開催することが、6月29日に『沖縄タイムス』で報道された。その前日、6月28日にウクライナ大使館がこの写真展を宣伝するツイートを行ったことで批判を受けたためか、そのツイートが間もなく削除されたという展開もあった。

 『沖縄タイムス』の報道によれば、「戦争の犠牲になるのは子どもや女性だという事実を、緊張が高まる沖縄で伝えたい」が目的だとしつつ、広河氏は同紙の6月28日の取材に対して、「何をもって性暴力というのか」などと述べたという。広河氏が今に至っても、自らの性暴力加害について全く理解もせず、認めてもいないということが明白である。 

 さらに、当該記事を報じた阿部岳編集委員のツイートによれば、広河氏は「仕事と性暴力事件を切り分けることも希望した」という。

   
 阿部編集委員も言うように、広河氏の性暴力やセクハラ、パワハラはまさにデイズジャパン編集部や、取材の現場などといった仕事の場で権威を利用して行われたものであり、自分の都合で切り離したりできるものではない。こうした広河氏の反応からも、自らの加害を全く真摯に受け止めていないことがよくわかるといえるだろう。 

 さらに、現在このサイトは消えているが、広河氏は展示のためにボランティアを募集していたこともわかっている。 アルバイト料も払わずボランティアを募集しているのもどうかと思うが、広河氏は「フォトジャーナリズムに興味ある方、写真が好きな方、学生(18歳以上)歓迎します。最終日は懇親会、意見交換など行いたいと思います。」のだという。広河氏による被害を受けた人たちは「フォトジャーナリズムに興味がある方」たちだったのだが、自らの加害を認めず反省もないままに、そうした人たちを募集し、さらに「懇親会」まで行う予定だという。

  TwitterやFacebookなどでも抗議の声が上がり始めており、『沖縄タイムス』紙は地元でも抗議の動きがあると報じている。写真展をめぐる今後の動きについて、当会も注目しつつ、謝罪もないままの広河氏の活動再開について強く批判していくつもりだ。

2022年6月3日金曜日

広河隆一氏がnote弁明文で、木村嘉代子氏が広河氏擁護ブログで、それぞれ裏付けもなく『文春』取材で金銭授受があったかのように記述。記者と元社員3人は否定。

2022年3月8日、広河隆一氏は、自らの性暴力を認めることもしないまま、前文と8章で構成されている長文を「note」に発表した。女性の人権をこれだけ侵害した人間が、よくも「国際女性デー」に当てつけるかのごとくの投稿をしたと思う。自分の性暴力の禊を目的とした投稿で被害者の傷に塩を塗る行為ではないかと思うと同時に、アンチフェミニズム的な挑発にも見える。 

また、広河氏はnoteプロフィール写真に子どもの写真を使っているが、無垢な幼い子の写真で汚れた自分のイメージを洗浄しようとでもいうのだろうか。広河氏はこの被写体に許可を取っているのか。報道写真では被写体すべてに許可を取れないときもあるだろうが、これはよりによってプロフィール写真であり、広河氏は自分自身を代表する画像としてこの写真を使っているのだから報道写真の場合とは事情が違う。 

広河氏が書く性暴力についての弁明文のプロフィール写真に自らの顔写真を使うことを進んで許可する人などこの世にいるのだろうか。この被写体には人格と権利がある。広河氏は、自分のイメージ洗浄のために幼い子の顔を消費することからして、今でもやはりpredator-数々の性暴力やパワハラを行ったときと同様、自分より弱い相手を獲って喰う捕食者であることに変わりはないのではないか。 

この長文の内容は全体的に、加害者である自己の被害者化、『週刊文春』の記事とデイズジャパンの「検証報告書」が信用できるものではないという印象を作り出そうとしている文である。広河氏の被害者にとっては二次加害どころではない、とても耐えられない文章であろう。いろいろ批判すべき点はあるが、今回は一点のみ最終章の重大な問題を取り上げたい。 

最終章「欠けたピース」の中で、広河氏は、YouTube に公開された対談番組(2021年3月1日ライブ配信とある)で、DAYS JAPAN の最後の編集長であったジョー横溝氏が「デイズ社の社員が会社情報を週刊文春の田村記者にリークして収入を得ていた可能性について、重要な証言をしている」と書いている。この番組で横溝氏はその情報をデイズ社の顧問弁護士であった馬奈木厳太郎弁護士から得たと言っている。 

広河氏にとって2018年のデイズ社内でのいろいろな動きに不可解なところがあるということでそれを「欠けたピース」と呼んでいたが、対談番組で横溝氏が聞き伝えで言っていることについて、 

「つまり欠けていたピースには、創刊以来およそ15年間『DAYS JAPAN』で校正を中心に働いていた『週刊文春』の田村記者が、私のスキャンダル情報を集めるためにデイズ社の社員に金銭を支払って、社内情報提供を依頼していたということを証明するものだった。」 

と、「証明」とまで言い切ってしまっている。横溝氏も「可能性」としか言っていないのに、である。それも広河氏は、「横溝編集長と馬奈木弁護士は良好な関係にあったことから、このユーチューブでの横溝氏の証言は正しいと考えて間違いないだろう」と、裏付けでもなんでもない「良好な関係」を、あたかも根拠であるかのように語っているのである。 

最後には、「直接関係があるわけではないが」と言いながら、元『文藝春秋』と『週刊文春』の編集長を務めた木俣正剛氏が自著において、週刊誌への情報提供に対し「一銭も支払っていない」と強調している部分を引用してこの長文が終わっている。 

要するに、広河氏はこの8章の長文の最後に、自分の加害行為についての話題から完全に離れ、『週刊文春』で自分の人権侵害を告発した田村記者が、週刊誌の慣行に背いて金銭でDAYS JAPANの社員から情報を買っていたと、読者に印象づけて終えているのである。 

田村氏と4月に会話する機会があった。その際にこの部分について話題になったが、田村氏は、「情報をお金で買うようなことは一切しておらず事実無根」と言っていた。広河氏が8章で触れているDAYS JAPAN 元社員のKLI各氏(広河氏が文中で使ったアルファベット通り)にも聞いてみたところ、自分たちが田村氏から金銭を得て情報提供していたという事実は一切ないし、他の人についてもそういうことは聞いていないと言っていた。 

広河氏が、金銭授受という重大な問題について、伝聞だけで「証明だ」と騒ぎ立てることはジャーナリストの風上にも置けない人間とはいえないか。広河氏はこれを本当のことと決めつけ、何の確認手続きも踏まず、馬奈木氏の弁護士としての倫理問題にまで踏み込んでいる。 

ちなみに、このブログでも頻繁に取り上げて批判してきた、木村嘉代子氏が主に執筆をしてきたという、事実上広河隆一氏擁護を展開しているブログ「セクハラ報道と検証を考える会」でも、「週刊文春デイズジャパンのセクハラ記事は本当に正しいか?2/2 情報のリークに金銭支払いの疑いも」という見出しの記事がトップに出てくる(2022年5月30日アクセス時)。それも、ジョー横溝氏の発言を引用し、最後に、必要もないのに『週刊文春』元編集長の木俣正剛氏を引用して終わっているところも広河氏のnoteと同じである。 

「考える会」ブログの記事のほうが先なので、広河氏は、このブログを参考にしている可能性もあるし、このブログは広河氏と直接つながりがあることをすでに明らかにしているので、何の驚きもない。ブログでは「裏を取っていないため、これが事実かはわかりません」と言っているが、見出しで「情報のリークに金銭支払いの疑いも」と書いてしまっていては、その「疑い」が真実であるように印象づける意図があることは明らかだ。 

田村氏や上記の元社員の三人が、これについて広河氏や木村氏から取材を受けたということもないようだ。広河氏も木村氏も、「裏を取る」努力もせず、ただ疑惑だけを拡散したかったのであろう。 

広河氏はその後何事もなかったように復活しており、フェースブックやツイッターでの発信も行っている。noteの長文で禊は済んだと自分で勝手に判断したかのようである。このnoteの文は、自分の性暴力を認めず、『文春』記事や検証委員会批判に明け暮れることで被害者を二度、三度傷つけ、最後は裏付けもない田村記者やデイズ元社員への誹謗中傷で完結した文である。

(文責 乗松聡子)

 

2022年4月11日月曜日

「自己の視点」に執着した弁明

広河氏の手記第3章では『週刊文春』2019年1月3・10日号が「編集長の広河氏がスタッフやボランティアを大声で罵倒する場面をたびたび目撃し、次第に「逆らってはいけない人」と考えるようになった」と報じた問題、検証委員会報告書が事実と認定した広河氏によるパワーハラスメントに関する反論が試みられている。日常的な業務中は自分が1人でいることが多く、また取材に出ていることも多かった、それゆえスタッフを怒鳴りつけたりすることが「四六時中であったとはどうしても思えない」というのである。

しかしこれは怒鳴られる側の視点に対する想像力をあまりにも欠いた弁明であろう。周囲にスタッフがいない時に広河氏が怒鳴り散らしたりはしなかったとして、それがスタッフにとってなんの意味を持つというのか。パワハラが頻繁に繰り返されたかどうかは、広河氏にとっての365日、24時間でどれほど頻繁に罵倒したり怒鳴ったりしたか、の問題ではない。スタッフが広河氏とともにいる場面で罵倒や度を越した叱責等がどれくらい繰り返されたか、の問題である。つまり「四六時中」かどうかはパワーハラスメントをうけたと主張しているスタッフの視点から評価されねばならないのに、広河氏は自分の視点から「四六時中であったとはどうしても思えない」と主張していることになる。さらに言えば広河氏が罵倒の頻度にこだわる姿勢も、パワーハラスメントが及ぼす被害を矮小化してはいないだろうか。「私に好意的に対応していた人でさえ、私が大きな声で怒っていたのを目にしたと言っている」とは広河氏自身も認めていることなのであり、まずは自分の言動がスタッフやボランティアをどのように傷つけたのかを自らに問うべきではなかったのか。

もう一つ広河氏がこだわっているのが「私の記憶の中では怒鳴るにしても叱るにしても、すべて理由があるはずだと思っている」という点である。しかしパワーハラスメントを行う側の主観的な認識として「これといった理由はない」ようなことは稀であろう。「理由」が客観的に妥当性をもつか、叱責する相手に「理由」がきちんと伝わっているか、叱責の仕方がその「理由」に照らして適切であったか。広河氏がいくつか挙げている「理由」が妥当なものであったか否かを判断する立場に私たちはないが、理由があればそれでパワーハラスメントではなかったということになるわけではない、ということは指摘しておきたい。

2022年3月19日土曜日

広河隆一氏は性暴力についてなにを「学んだ」のか?

 2022年3月8日、他ならぬ国際女性デーにあたる日に、広河隆一氏が突然 note で非常に長い文書を公開した。その目的を広河氏はこう説明している。

私は、多くの人々に現在考えていることを、議論の俎上に載せることと、説明責任の一端を果たすことを目的に、『週刊文春』の記事と、デイズジャパン検証報告(以下、『検証報告書』)を中心〔原文ママ〕、これまで考えたことをお知らせすることにしました。

この文書には非常に多くの問題があると私たちは考える。たとえば広河氏は「まえがき」的な意味あいをもつ「「文春砲」の性暴力報道」において『広辞苑』から「性暴力」や「強姦」といった単語の定義を引用してみせている。「読者と用語の概念を共有する一助とするため」だというのだが、その後の弁明を読んでいると別の意図が透けて見える。第1章「週刊誌報道の「事実」がひとり歩き」では『週刊文春』の記事タイトル(「「世界的人権派ジャーナリスト広河隆一の性暴力を告発する」 セックス要求、ヌード撮影 七人の女性が#MeToo」「「広河隆一は私を二週間 毎晩レイプした」 新たな女性が涙の告発」)を引用したうえで「これらのタイトルを目にしたときに、あなたは私がどのようなことをしたと想像したか、という質問」を読者にしてみせる。また第7章「デイズジャパン『検証報告書』」でも「私が尋ねたほとんどの人が、タイトルを見て私が女性に身体的暴力をふるったと思った、と私に述べている」と主張している。実は『広辞苑』の「性暴力」に関する定義は性暴力に関する今日の議論の水準に達しておらず(これについては別の記事で改めてとりあげた)、“殴る蹴るの暴力をふるったわけではない”という弁明に都合がよいものとなっているのだ。

しかし「検証報告書」のみならず『週刊文春』の記事も広河氏が“殴る蹴る”の暴力をふるったとはしていない。『週刊文春』の記事はむしろ、広河氏の性暴力が優越的な立場を利用するタイプのものであったことをこれ以上ないほど明快に述べているのだ。

 繰り返しセックスをしたのなら、嫌だったとはいえないのではないか――。杏子さん、麻子さんの証言に、そんな疑問を覚える人もいるだろう。

 だが、その道の先達、職場の上司、学校の教師など「指導する側の人」が優位な立場を利用して、若輩や部下、生徒など「指導される側の人」と性的行為に及ぶのは“性暴力”の典型だ。齋藤梓・目白大専任講師(被害者心理学)はこう語る。

(齋藤氏のコメントは省略) 

つまり仮に広河氏の知人のなかに「広河は身体的な暴力を行使してレイプした」と思い込んだひとが本当にいたとしても、それは性暴力に関する認識をアップデートできていないひとが『週刊文春』の記事本文を読まずに思い込んだだけのことであり、『週刊文春』の瑕疵ではないし「週刊誌報道の「事実」がひとり歩き」というのも言いがかりでしかない。報道された「事実」とは優越的地位を濫用した性暴力、だったのであるから。『週刊文春』の記事が問題にもしていないことに執拗にこだわり自分の名誉が不当に貶められたかのように主張する姿を見ると、いったい広河氏はこの3年間なにを学ぼうとしてきたのか? と疑問を抱かざるを得ない。


これと関連して私たちを非常に驚かせた記述が第4章「「レイプ」」(広河氏がレイプという単語に「 」をつけている)にある。広河氏が性交を強要する際に「女性は嫌がると妊娠しやすくなるから気を付けろ。戦地に妊婦が多いのはレイプがおこなわれているからだ」と語ったと報じられたことについての弁明で、広河氏はこれが竹内久美子氏の著作に由来するものだとしている。

この話の出どころははっきりしている。以前、私が複数の社内スタッフがいる編集部(当時の他のスタッフに確かめた)で話した雑談が、デフォルメされているのだ。そこで私が紹介したのは、動物行動学者である竹内久美子氏の著作『そんなバカな』(文春文庫)や『BCな話』(新潮社)などベストセラーになった本についての話だ。BCというのは竹内氏の造語で「生物学的に真実」ということを意味するという。これらの本については多くの書評が掲載され、評判になったため、私も読んだのだが、内容は社内で話題になり、本を貸したりした。その場にいた元スタッフに確認したところ、そこにも翔子さんがいたという。

つまり自分がそのような発言をするのを被害者が聞いたことがあるのは認めるが、性交を強要するために言ったことはない、というわけだ。私たちは真相がどうであったかを判断するだけの材料を現時点では持ち合わせていないので、ここではその点は問題にしない(ただし、年長で優越的な立場にある男性が職場において従属的な立場にある若い女性の前でこうしたことを話題にすること自体、文脈次第では環境型セクハラの誹りを免れないだろうということは指摘しておきたい)。また筆者が確認した限りでは『BC!な話』にはなるほど広河氏が紹介するような記述がある(新潮文庫版106-112ページ)一方、『そんなバカな!』にはここでとりあげられているような記述はなく広河氏の記憶違いではないかと思われるが、これもまた些末な問題である。私たちを驚かせたのは次の部分だ。

これらすべては、私が海外取材前に会社で本の紹介として話していたことだった。最近では、竹内氏と川村二郎氏(元週刊朝日編集長)の対談の書籍『「浮気」を「不倫」と呼ぶな』(WAC)の中でも紹介されている。

『そんなバカな!』の単行本は1991年刊、『BC!な話』(同書は新潮社から刊行され新潮文庫になった後さらに文春文庫にも収録されたが、その際にはメインタイトルとサブタイトルが入れ替えられている)は1997年刊。しかし『「浮気」を「不倫」と呼ぶな』の刊行は2018年11月21日(奥付の日付)。すなわち『週刊文春』が広河氏の性暴力を告発する直前なのである。

『そんなバカな!』はベストセラーとなり講談社出版文化賞の「科学賞」を受賞しており、当時話題にするひとが多かったのは確かだ。とはいえかなり早い時点から進化論の適用のしかたが短絡的、粗雑であるといった批判もあった。1990年代から2010年代半ばまでの竹内久美子氏の著作の多くが文藝春秋社または新潮社から刊行されていることから、竹内氏の言説が中高年男性の興味関心(あるいは不安)を主なターゲットとしたものとして流通していたこともうかがえる。

竹内氏は月刊誌『正論』(産経新聞社)の2017年12月号で初登場をはたすと2020年4月からは『産経新聞』の【正論】欄寄稿者となるなど、この数年でより右派的なメディアに接近していた。『「浮気」を「不倫」と呼ぶな』の版元である WAC も右派月刊誌『WiLL』の版元として知られている。ジャーナリストである広河氏がこうした事情を知らないとは考えにくいし、知らなかったというのなら怠慢というほかない。

近年では政治的志向の左右が睾丸のサイズで決まるとする「睾丸理論」で失笑を買い、2020年のアメリカ大統領選挙に際しては「Qアノン」ばりのトランプサポーターとして数々の荒唐無稽な陰謀論に飛びついたことで知られる竹内氏だが、右派のイデオロギーに「生物学的正しさ」という装いを与える役割を果たしているのだ。とりわけ問題なのは、動物の繁殖行動に関する研究を性暴力の正当化のために利用している点だ。

動物行動学(竹内氏が自称している分野)、進化心理学、社会生物学などが繁殖行動を記述する際に「レイプ」などの表現を安易に用いる点はかねてから批判の対象となってきた。それに加えてこの年の6月に刊行された『正論』2018年7月号には、竹内久美子氏と長谷川三千子氏との対談「セクハラ? チンパンジーでは常識ですょ : 他人の尻馬に乗る「#ME TOO」運動」が掲載されている。これは財務省事務次官の新聞記者に対するセクシャル・ハラスメントを野党やマスメディアが問題視していた時期に掲載されたもので、事務次官の性暴力を擁護すると同時に #ME TOO 運動の告発を無効化しようとする意図は明白だ。

『「浮気」を「不倫」と呼ぶな』には次のようなやりとりが登場する(123-124ページ)。

竹内 (略)

 レイプについて、ロビン・ベイカーはさらに「レイプされたときわざわざ抵抗してみせて、それでもやり通せる男性かどうかを女性は見ている」と言っています。やり通せる男性であれば、その遺伝子を受け入れてもいいと。

川村 これもまた恐ろしい話ですね。

竹内 女性であれば嫌いな男性と性交したら排卵は絶対にしないように、自分の生理状態を変化させるくらいのことは朝飯前のはずです。でも、レイプされることがあり、しかもその際に子供ができやすいという現象があるのは、よくよく考えてみるとおかしい。

 ということは、抵抗してみせて、なおかつ、その抵抗を超えてできるかどうかを試しているのかもしれません。

川村 「いやよいやよも好きのうち」は性差別の典型で、今やタブー視されていますが、真理を含んでいるのかもしれませんね。

レイプが男性にとって“適応的”な繁殖戦略だと主張するにとどまらず、女性にとっても同様である、というのだ。『BC!な話』でも(こちらは竹内氏自身のことばで)「昔から言うように、「嫌よ、嫌よも好きのうち」である」「「嫌よ、嫌よ」のときの抵抗はごくごく軽いものだ」とされており(いずれも新潮文庫版111ページ)、激しく抵抗しなかったのだから同意していたのだ、という誤解を与えかねない*。

広河氏が『BCな話』を読んだのはかなり以前のことなのであろうし、『「浮気」を「不倫」と呼ぶな』を読んだのが『週刊文春』の報道以前だという可能性も否定できない。しかし今回公開された文書においてなんら批判的コメントなしにこうした記述に言及しているのはどういうことなのだろうか? 自分の行為を正当化し、告発を無効化する手段を探し求めていたのではないか、という疑念を抱いて当然ではないだろうか? いまになってもなお竹内氏の言説に批判的問題意識を持てずにいるというのであれば、広河氏が自らに向けられた性暴力の告発を深刻に受け止めたとは思えないのである。


* 『BCな話』では いちおう「レイプのときの抵抗、レイプに対する恐怖、嫌悪、レイプされるくらいなら死んだ方がましだというあの心理」(112ページ、原文のルビを省略)にも言及がある。しかしこうした記述は激しい抵抗こそがレイプの証であるとするいわゆる「レイプ神話」への親和性を感じさせるのに加えて、あくまで「レイプされたときの方が妊娠率が高い」という自説を理論的に説明するうえでの障害としてとりあげられているだけで、性暴力が深刻な人権侵害であることと結び付けられてはいないことも、指摘しておきたい。



2022年2月13日日曜日

#MeToo運動を歪曲し、性暴力被害者を貶める ―― 『その名を暴け』の誤訳・改変と木村嘉代子氏の書評(その3)

 3) 木村嘉代子氏による『その名を暴け』書評の問題点


今回は、「セクハラ報道と検証を考える会」の記事の大半を書いてきたと自ら名乗った木村嘉代子氏が書いた本書の書評「性犯罪を『正しく』暴く」 ジャーナリズムの神髄」(『週刊金曜日』(2021年1月29日号、 p. 55)について見ていきたい。なお「セクハラ報道と検証を考える会」とは、ブログ等で広河隆一氏の性暴力事件の被害者やその報道に疑問を呈し、検証報告書を批判し続けることによって、加害者である広河隆一氏を事実上擁護している団体だ。


こうした活動を積極的に行っている木村氏が書評で書いたことは、ニューヨーク・タイムズの性暴力報道を称賛する一方、ジャーナリストの著者たちが#MeToo運動に疑問を投げかけているかのような内容だった。

著者はまた、この報道を機に、『世界中の女性が、自分の体験を話し始め』たが社会には大きな変化が起きたのだろうかと、#MeToo運動の目的、説明責任のあり方などに答えのない疑問を投げかける。(木村嘉代子「性犯罪を『正しく暴く』ジャーナリズムの神髄」『週刊金曜日』2021年1月29日号、p.55)

書評の#MeToo運動に関する部分に注目したい。「社会には大きな変化が起きたのだろうかと、#MeToo運動の目的、説明責任のあり方などに答えのない疑問を投げかける」という箇所は、#MeToo運動の目的、説明責任のあり方などがまずかったために、社会に大きな変化が起きなかった、と著者らが考えていると思ってしまいかねない。「#MeToo運動の目的」という箇所は、すでに拙稿の第一回(その1)で取り上げた「この(#MeToo)運動の目的」という箇所(「はじめに」『その名を暴け』 p.9)をピックアップしたものと思われる。ここは、翻訳者による誤訳や改変の結果、#MeToo運動が無実の男性に罪を着せたと著者が述べているかのような内容になっていた箇所で、#MeToo運動への疑問らしき含意は、原著には全くなかったことはすでに述べたところである。

古屋氏の誤訳により#MeToo運動に批判的だと読めるように歪曲された内容だったからこそ木村氏がフェミニズム運動を批判するのにうってつけと飛びついたのであろう。なお、木村氏の書評はほぼ「はじめに」だけに言及したものである。そして「#MeToo運動の目的」に該当する箇所は、「はじめに」では上記以外には見当たらなかったことを申し添えておきたい。

次に、「社会には大きな変化が起きたのだろうかと・・・答えのない疑問を投げかける。」について見ていこう。

原著の「はじめに」で「社会の変化」という箇所を確認すると、social change が2箇所 、changeが3箇所あった。その一つである「どうすればこれほどまで世間を揺るがす社会的変化が起きることになったのか? この本を書こうと思ったのはそうした疑問に答えるためだった」という箇所について、見てみよう。


閉塞感のあるこの世界で、どうすればこれほどまで世間を揺るがす社会的変化が起きることになったのか? 

この本を書こうと思ったのはそうした疑問に答えるためだった。(『その名を暴け』 pp.6-7)


In a world in which so much feels stuck, how does this sort of seismic social change occur? We embarked on this book to answer those questions. (She Said , p.2)

著者らが、女性たちが性暴力を証言したことによって「社会には大きな変化が起きた」と考え、「大きな変化が起きたのはどうしてか」という疑問から本書を執筆した、というパラグラフの一部だ。つまり、木村氏は、著者らが「大きな変化」が起きたのか疑問視している、と著者らが言明していないこと、むしろ著者らが言っていることと逆のことを書評で言わんとしているということだ。また、木村氏が用いている「説明責任」という用語については、「男性が」「前例のない説明責任を果たすことになった」(p.6)と加害男性の説明責任に関する文章はあったが、#MeToo運動の「説明責任のあり方」という文章は、「はじめに」のどこにも見つけることができなかった。

木村氏が#Me Too運動について引用している箇所は、翻訳者の古屋氏が原文の意味を取り違えたりして、フェミニズム運動に否定的だったり、フェミニズム運動を貶めるような箇所とおおよそ合致した。つまり、木村氏は、翻訳者の古屋氏が日本語版の翻訳において#Me Too運動に厳しく、フェミニズム運動を貶めるように改変した箇所に、木村氏自身の#MeToo運動に関する否定的な見方を投影させ、さらには、「説明責任」に至っては別の文脈で使われていた用語を悪用して、また「社会の変化」については、邦訳で書かれていることと真逆の内容を入れるなど事実をねじ曲げてまで、フェミニズム運動の評価を貶めていたということになる。

木村氏の書評は、古屋氏の誤訳と相まって、本書があたかも#MeToo運動に懐疑的であるかのように読めるものとなっている。ちなみに木村氏は考える会の記事やツイートで、日本のセクハラ報道を「センセーショナルに報じる」「事実をねじ曲げた」などと非難しているが、”She Said ”を『その名を暴け』に変えてしまったことにコメントもせず、また『その名を暴け』での事実のねじ曲げともいえる翻訳の改変箇所には、目をつぶっている。木村氏は、英語の翻訳家養成講座を修了したとプロフィールに書いているのであるから、翻訳のおかしな点を原著に当たって確認をとれるはずだが、それもしていないようだ。さらには、自らも自説に都合よく、邦訳をねじ曲げた書評まで書いたようだ。これでは、木村氏や「セクハラ報道と検証を考える会」の主張は、ご都合主義以外の何ものでもなく、もはや信用に値しないのではないだろうか。


本ブログでこれまで度々、広河隆一氏の事例で問題にしているように、性暴力被害を訴えるとたちまち加害者に寄り添った反論や、あたかもマスコミにタレコミをしてお金を受け取っていたかのような被害者バッシングが湧き上がってくるという実態がある。実名と顔を出して権力者の性暴力を訴えた伊藤詩織氏への2次加害の激しさは言うまでもない。

こうした被害者バッシングが、性暴力への告発をテーマとする書籍の出版に際しても例外ではないということが、今回、見て取れた。性暴力被害者の声にフォーカスした良書が『その名を暴け』というセンセーショナルなタイトルになり、性暴力被害者を貶めたり、被害者側に立つフェミニズム運動を軽視し、否定的な内容へと改変された部分を含む翻訳書として出版された。本書が本来示していたはずのフェミニズム運動へのリスペクトや、女性たちの連帯というメッセージが弱まることになったように思われるのは遺憾である。こうした事実については、今後そのようなことが起きないようにするためにも、せめて記録として残しておきたいと思う。

翻訳者の古屋美登里氏が翻訳を通して行ったこと、そして木村嘉代子氏が書評でしたことは、相手との大きな権力差や法律の壁に阻まれる中、身を削る思いでやっと声をあげた性暴力被害女性への冒涜に思われてならない。

2022年2月9日水曜日

#MeToo運動を歪曲し、性暴力被害者を貶める ―― 『その名を暴け』の誤訳・改変と木村嘉代子氏の書評(その2)

2)性暴力、性犯罪の被害者を貶める邦訳への改変 

次に、『その名を暴け』日本語版で、誤訳によって、性暴力を告発した被害女性を貶めていると思われる箇所を挙げよう。

なお、ここに出てくるフォード博士とは、ワインスタイン報道から約1年後、当時トランプ大統領から最高裁判事に指名されていたブレット・カバノーから高校時代に性的暴行を受けたことがあると、米国上院の司法委員会公聴会で証言したカリフォルニアの大学の心理学教授クリスティン・ブレイジー・フォード博士のことである。


 フォード博士を#MeToo運動の最高のヒーローだと見なす人がいたが、その他の人々は、彼女をペテン師――増える一方のバックラッシュに対する弁護者――と見なした〔バックラッシュとは、ある動きが高まりを見せる時に生じる反撥(はんぱつ)、揺り戻し、バッシングのこと〕。(『その名を暴け』p.10)

Some saw Ford as ultimate hero of the #MeToo movement. Others saw her as a symbol of overreach –-a living justification for the mounting backlash. (She Said ,p.4).


フォード博士が悪意をもって証言したかのように受けとられる「ペテン師」と訳しているのは問題がある。「ペテン師」とは、「巧みに人をだまして利益を得ることを常習とする者。いかさま師。詐欺師。」(精選版日本語国語大辞典)である。原著の意味は、「フォード博士を#Me Too運動の究極のヒーローと見る人もいたし、逆に彼女のことを行き過ぎの象徴――増える一方のバックラッシュを正当化できてしまうような生きた例――と見る人もいた。」くらいの意味ではないかと思われる。

しかも、フォードが公聴会での証言に至る顛末を描いた同書9章「DCに行くという約束はできない」では、同じ「ペテン」という語がトランプ大統領がフォードの告発を「民主党の『ペテン』の一部だ」という非難する語彙として使われたものでもある(She Said, p.231;『その名を暴け』p.358)。9章の原文は” con job”で、「はじめに」の ”a symbol of overreach”とは異なっている。それをよりによって、証言台に立った彼女に翻訳で「ペテン師」という言葉をチョイスするのは、内容的に適切ではないだけでなく、やっとのことで30年以上も前の被害を公の場で供述した被害者に対して、あまりにも理不尽な表現ではないか。フォード博士がもし、日本で自分のことが「ペテン師」だと訳されていることを知ったとしたら、、、と想像するだけでも、やりきれない思いがする。

邦訳では、証言台に立ったフォード博士を表す表現として、「バックラッシュに対する弁護者」も使われている。これも、バックラッシュを支持したり、バックラッシャーかと誤解する人も出てきかねない、とんでもない誤訳である。日本語版を読む人は、こうした展開を見れば、著者らはフォード博士の味方ではないと受け取りかねない。しかも、Some ・・・・, Others ・・・・ というフレーズは、・・・という人もいるし、・・・という人もいるというところだが、あたかも「その他の人々は」と、「ペテン師」や「バックラッシュの弁護者」だとみなす人が多くいたかのように訳している点も、より被害女性を貶めているように見えるのではないだろうか。


古屋氏は、「ある分野に特化した専門性の強い翻訳者ではなく、広い範囲でフットワーク軽く、時代を切り取るような翻訳」をしてきたと述べているように、幅広い分野をこなす翻訳家だ。ただ、本書がテーマにしている性暴力やジャーナリズムに関する箇所での誤訳となると、原著の主旨が誤解されかねないことが、懸念される。例えば、性暴力をなくす方向性について誤訳が見られる。”In this fractured environment, will all of us be able to forge a new set of mutually fair rules and protections?” が、「このばらばらになった状況で、男女双方にとって公平な規則と保護という新しい組み合わせを作り出すことができるのだろうか。」(She Said, p.5; 『その名を暴け』p.11)と訳されている。

ここでの“a new set of mutually fair rules and protections”は、さまざまな立場、権力関係など重層的な関係においての公平な規則と保護を想定していると思われるが、邦訳では、原文にない「男女」を訳者が挿入している。これでは、性別二元論に基づき、同性間の性暴力を排除してしまうことになり、#Me Too運動や性暴力と闘う運動がめざす方向や射程が誤解されかねない。

被害女性の語りを評価する箇所でも、意味の取り違えによる誤訳が見られる。“We saw her as the protagonist of one of the most complex and revealing “she said” stories yet, especially once we began to learn how much about her path to that Senate testimony was not publicly understood.”の邦訳で、「わたしたちはフォード博士を、『彼女が語った』話のなかでも、もっとも複雑で人柄がにじみ出る話の主人公だと見ていた。・・・」と、”revealing”を「人柄がにじみ出る」と訳している( She Said, p.4; 『その名を暴け』p.10)。しかし、フォード博士については、9章に描かれているように、公聴会で証言するまでの道のりはかなり複雑なものであり、だからこそ、今後に示唆を与える要素が大きいという意味で「最も複雑で意義深い語りの一つ」と訳すのが相当だと思われる。文脈からして、フォード博士の「人柄」といった個人の属性が評価される箇所ではないはずだ。

ジャーナリズムに関しても同様に誤訳がある。” Our Weinstein reporting took place at a time of accusations of ‘fake news,’ as the very notion of a national consensus on truth seemed to be fracturing.”の訳文が 「『ニューヨーク・タイムズ』がワインスタインについて報道したのは、『フェイク・ニュース』が非難され、『真実に対する国家の合意』という概念そのものが崩壊しているように思える時期だった」となっている(She Said, p.3; 『その名を暴け』p.8)。しかし、“national consensus on truth” を「真実に対する国家の合意」と訳出するのは誤訳であろう。「フェイクニュース」か「真実」か、を決めるのは、「国家」ではなく、「人々」のはずだから、適合的な訳は、「真実についての全米の人々の合意」あたりだと思われる。


以上述べてきたように、この本の翻訳には、フェミニズム運動や被害女性を貶める改変の他、性暴力をめぐる状況に関して、誤訳や意味の取り違えが散見される。古屋氏は、担当編集者(島崎恵氏)と協力して膨大な資料を確認し、法学部出身者ネットワークも駆使して翻訳したと語っている。それにもかかわらず、これだけミスが多いのはどうしてなのだろうか。

こうした翻訳による改変は、原著の意図や意義をも毀損しかねないと思われる。訳者の古屋美登里氏は多数の翻訳書を刊行するベテランの翻訳家のようだが、性暴力というフェミニズムに密接に関わる書籍の翻訳出版に際し、出版社サイドがフェミニズムに詳しい翻訳者を探す必要を感じていなかったとしたら、出版社サイドにも、フェミニズムの専門性への軽視があったと言わざるを得ない。(次回に続く。)


2022年2月8日火曜日

#MeToo運動を歪曲し、性暴力被害者を貶める ――『その名を暴け』の誤訳・改変と木村嘉代子氏の書評 (その1)

ジョディ・カンター、ミーガン・トゥーイー著『その名を暴け #MeTooに火をつけたジャーナリストたちの闘い』(古屋美登里訳、新潮社、2020年)は、著名な映画プロデューサーであったハーヴェイ・ワインスタインのセクシュアルハラスメントや性暴力に関する被害女性たちによる証言をニューヨーク・タイムズの女性記者二人がまとめたノンフィクションだ。

同書のポイントは、著者らが#MeToo運動やフェミニズム運動に親和的な立場から、被害女性らが性暴力を告発し、報道につながる経緯及びその後の社会の変化をも丁寧に記し、性暴力と闘うためにはどうしたらいいかを読者に考えさせていることだ。さらに、告発する女性を支えるさまざまな女性たちの連帯にスポットを当てている点も特筆に値する。住む場所も職業も全く異なり、これまで会ったこともなかった被害女性たちがカリフォルニアにある女優のプライベートな住居に集まる終章は、女性たちの連帯が実感でき、感動的ですらあった。

同書は、性暴力に切り込んだ優れたルポルタージュとして書評でも評価され、よく読まれているようである。同書の翻訳を担当した古屋美登里氏は、嫌がらせのない世の中になるよう、女性たちのために翻訳を決意したと語っている。このように同書の日本語版は、主に、性差別を明るみに出すジャーナリズムや性暴力の問題という点から読まれているようであるが、本来、同書はもっと幅広い視点から読まれるべき価値をもった書である。

同書が本来もっていたはずの価値が、日本語版では、古屋美登里氏による翻訳の際、同氏の解釈により狭められ、歪曲されているのだ。日本語版が持つ深刻な問題は以下の2点である。

1)原著は#MeToo運動やフェミニズム運動に親和的であり、敬意も払っている。だが翻訳により、フェミニズム運動を軽視し、著者らもフェミニズムに否定的であるかのような内容に改変された箇所がある。

2)翻訳により、性暴力、性犯罪の被害者を貶めるような内容に改変されている。

本稿では、<その1>で、フェミニズム運動を軽視し著者らのスタンスを歪曲している点について、<その2>で、性暴力被害者を貶めている点について、と日本語版が持つ二つの深刻な問題を2回に分けて指摘していきたい。そして、<その3>で、本ブログで度々取り上げている「セクハラ報道と検証を考える会」の木村嘉代子氏による同書書評「性犯罪を『正しく』暴く」 ジャーナリズムの神髄」(『週刊金曜日』(2021年1月29日号)の問題点を示す。

なお「セクハラ報道と検証を考える会」は、広河隆一氏の性暴力事件の被害者を疑い、その報道及び、検証報告書を批判し続けることによって加害者である広河隆一氏の事実上の擁護者となっている団体だ。また木村氏は、同会のブログ記事の大半を書いてきたと自ら暴露した人物である。

そもそも本書に注目したのは、木村嘉代子氏が同会のブログで度々本書を引用しつつ、自説を展開してきたこと、そして本書の書評を週刊誌に書いていたことが発端であった。

1) フェミニズム運動に対して否定的な邦訳への改変 

 まず、タイトルについて見ていくと、原著は、She Said:Breaking the Sexual Harassment Story That Helped Ignite a Movement と性暴力の被害に遭った女性たちが沈黙を破り語ったことを報道し、その後の#MeToo運動の広がりに大きく寄与したことをそのままタイトルにしたものだ。だが、日本語版は『その名を暴け #MeTooに火をつけたジャーナリストたちの闘い』と、ジャーナリストたちが加害者の名前を明るみに出すために闘ったという扇情的なタイトルに置き換えられている。日本語タイトルでは、原題にあった「運動(Movement)」という単語が消え、「#MeToo」になっている。これが問題なのは、日本語版の「#MeTooに火をつけたジャーナリストたちの闘い」では、著者らジャーナリストたちだけが主役として加害者と闘ったかのようなストーリーに変わっており、一人ひとりの女性の性暴力被害が語られ(She Said)、それを報道することによって、セクシュアル・ハラスメントの問題が浮き上がり、集合的な運動(Movement)へとつながっていったという、原題で浮き彫りにされている女性たちの連帯への動きが見えなくなってしまうからだ。

日本語版の翻訳内容にも原著から改変された箇所が散見される。日本語版の「はじめに」は、新潮社サイト、並びに文春オンラインで公開されているので、公開部分と原著とを照らし合わせて問題点を指摘していきたい。まず、原文で明記されていた「フェミニズム運動への敬意と連帯」が、日本語訳による誤訳及び改変により、薄められ、かつ著者らをフェミニズム運動と切り離し、フェミニズムに批判的であるかのように表現された箇所を見ていこう。

ジャーナリズムは、確かにこれまでもパラダイム・シフトを起こす役割を担ってきた。とはいえわたしたちの仕事は、変化の有様(ありさま)を伝えるだけのことで、その変化自体を長年にわたって作り上げてきたのは、先駆的なフェミニストや法律学者たちだった。アニタ・ヒル〔一九九一年、米上院司法委員会で、最高裁判事候補になっていたクラレンス・トーマスからかつて受けた性的嫌がらせについて証言した女性〕や市民活動家で#MeToo運動の創始者タラナ・バーク、さらには同業のジャーナリストたちなど、大勢の人々のおかげなのである。(『その名を暴け』p.6)

Journalism had helped inspire a paradigm shift. Our work was only one driver of that change, which had been building for years, thanks to the efforts of pioneering feminists and legal scholars; Anita Hill; Tarana Burke, the activist who founded the #Me Too movement; and many others, including our fellow journalists. (Kantor, Jodi; Twohey, Megan. She Said (pp.2-3). Penguin Publishing Group. Kindle 版. ) 

 フェミニズムとのつながりを示している箇所が誤訳されている。“Our work was only one driver of that change, which had been building for years”の邦訳「わたしたちの仕事は、変化の有様(ありさま)を伝えるだけ」 は、正確な訳ではない。著者は、ジャーナリストたちも変化の推進力の一翼である、とジャーナリストを社会変革を起こす力の内部に位置づけているのだ。しかも、アニタ・ヒル、タラナ・バークというパイオニアとして性暴力と闘ったブラック・フェミニストたちの名を挙げ、社会変革は彼女ら先達が作り上げてきたものだとも述べ、フェミニズム運動の歴史に尊敬の念を示している。この点も原著では特筆される点だ。そして最後にもう一度、同僚のジャーナリストたちに言及している。こうした原文は、著者らジャーナリストたちがフェミニストたちの闘いに連なることを示したものだと言えよう。だが、原文ではアニタ・ヒルとタラナ・バークの名前を挙げ、あくまでその後に "many others" が来ているのに対し、邦訳だと「大勢の人たちのおかげなのである」という文末が目立つことになっている。邦訳では、ヒルとバークらフェミニストの貢献が薄められ、またジャーナリストがフェミニストの動きとともにあるという含意が読み取れなくなっている。

古屋氏は、「ジョディとミーガンの視点に立って、2人の感じた世界をそのまま翻訳しているつもり」、「「口寄せ」のような感覚」で翻訳に臨んだと語っている。しかし古屋氏による実際の翻訳は、原著者がフェミニズム運動、特にブラック・フェミニストたちへの敬意と連帯を示している箇所が、誤訳により敬意が薄められるとともに、ジャーナリストをフェミニズム運動と切り離し、ジャーナリストたちもフェミニズム運動と連なっているという記述がなかったことにされている。日本語版が、原著著者らの依って立つ立場をフェミニズムとは無縁であるかのように改ざんしているのは、著者らの意図を大きく歪曲した誤訳と言えよう。

次に、誤訳によって、#MeToo運動を貶めている箇所を紹介する。

ワインスタイン報道が世に出てから数ヶ月も経たずに、#MeToo運動が爆発的な勢いで拡がり、デート・レイプから子どもへの性的虐待、男女差別、さらにはパーティでの出会いに至るまで、さまざまな問題が議論されるようになった。そのおかげで公共の場での会話は豊かになり真剣味を増したが、一方で混乱を招くことにもなった。つまり、この運動の目的は性的嫌がらせを根絶することなのか、刑事裁判システムを改革することなのか、家父長制を打ち砕くことなのか、それとも相手の感情を傷つけずに恋をすることなのか、と。その結果、裏付けのない証拠のせいで、あるいはそこまでいかなくとも、組織の変化が絶望的なまでに欠けているせいで、罪のない男性たちを傷つけることになってしまったのではないか。(『その名を暴け』 p.9)

In the months after we broke the Weinstein story, as the #MeToo movement exploded, so did new debates about topics ranging from date rape to child sexual abuse to gender discrimination and even to awkward encounters at parties. This made the public conversation feel rich and searching, but also confusing: Were the goals to eliminate sexual harassment, reform the criminal justice system, smash the patriarchy, or flirt without giving offense? Had the reckoning gone too far, with innocent men tarnished with less-than-convincing proof, or not far enough, with a frustrating lack of systemic change?(She Said , p.4)


このパラグラフ最後の原文の意味は、文脈からして「説得力のない証拠で無実の男性たちの名誉を毀損してしまう結果になってしまっているのか、逆に問題意識が足りないために、システム的な変革がイライラするほど遅い結果になってしまっているのか」となるはずだと思われる。だが日本語訳では、「その結果、裏付けのない証拠のせいで、あるいはそこまでいかなくとも、組織の変化が絶望的なまでに欠けているせいで、罪のない男性たちを傷つけることになってしまったのではないか。」とある。ワインスタイン報道、そして#MeToo運動が起きた結果、無実の男性たちが証拠もないのに、さらに組織の変化も起きないなど別の理由もあって傷つけられていると、邦訳では「罪のない男性」の「傷」が強調されるようになっているのは、構文の取り違えによる誤訳と思われる。

誤訳の結果として、#MeToo運動が冤罪を引き起こしかねない、行き過ぎた運動であるかのようなマイナスイメージを付与されることになっている。この誤訳のために、#MeToo運動が引き起こした悪しき影響が想起され、この運動を貶める方向に読まれる可能性が高いことが懸念される。(その2 に続く。)