広河氏の手記第3章では『週刊文春』2019年1月3・10日号が「編集長の広河氏がスタッフやボランティアを大声で罵倒する場面をたびたび目撃し、次第に「逆らってはいけない人」と考えるようになった」と報じた問題、検証委員会報告書が事実と認定した広河氏によるパワーハラスメントに関する反論が試みられている。日常的な業務中は自分が1人でいることが多く、また取材に出ていることも多かった、それゆえスタッフを怒鳴りつけたりすることが「四六時中であったとはどうしても思えない」というのである。
しかしこれは怒鳴られる側の視点に対する想像力をあまりにも欠いた弁明であろう。周囲にスタッフがいない時に広河氏が怒鳴り散らしたりはしなかったとして、それがスタッフにとってなんの意味を持つというのか。パワハラが頻繁に繰り返されたかどうかは、広河氏にとっての365日、24時間でどれほど頻繁に罵倒したり怒鳴ったりしたか、の問題ではない。スタッフが広河氏とともにいる場面で罵倒や度を越した叱責等がどれくらい繰り返されたか、の問題である。つまり「四六時中」かどうかはパワーハラスメントをうけたと主張しているスタッフの視点から評価されねばならないのに、広河氏は自分の視点から「四六時中であったとはどうしても思えない」と主張していることになる。さらに言えば広河氏が罵倒の頻度にこだわる姿勢も、パワーハラスメントが及ぼす被害を矮小化してはいないだろうか。「私に好意的に対応していた人でさえ、私が大きな声で怒っていたのを目にしたと言っている」とは広河氏自身も認めていることなのであり、まずは自分の言動がスタッフやボランティアをどのように傷つけたのかを自らに問うべきではなかったのか。
もう一つ広河氏がこだわっているのが「私の記憶の中では怒鳴るにしても叱るにしても、すべて理由があるはずだと思っている」という点である。しかしパワーハラスメントを行う側の主観的な認識として「これといった理由はない」ようなことは稀であろう。「理由」が客観的に妥当性をもつか、叱責する相手に「理由」がきちんと伝わっているか、叱責の仕方がその「理由」に照らして適切であったか。広河氏がいくつか挙げている「理由」が妥当なものであったか否かを判断する立場に私たちはないが、理由があればそれでパワーハラスメントではなかったということになるわけではない、ということは指摘しておきたい。