お断り:本記事が公開された後に「セクハラ報道と検証を考える会」のブログが移転(新ブログはこちら)しているのだが、以下で検証の対象とした記事「【検証・週刊文春】強要を否定の田村記者、記事では一転「抗えないまま」に: 田村記者の取材と記事の検証(1)」は移転されておらず現在閲覧することができなくなっている。
「セクハラ報道と検証を考える会」の「検証」なるものについて(2)
本稿では残った部分について検討したい。目次では次のようになっている項目である。
4人の女性のケース/田村氏「これもね、片方の話ですけども」※4人の女性のケース/田村氏「これもね、片方の話ですけども」
立場を利用したハラスメント行為のケース/裏取りの痕跡は記事になし
谷口真由美氏、事実を創作して広河氏を批判
これは『週刊文春』の記事では「この3人のほか、12~17年にDAYSにかかわった女性4人からも、広河氏にセクハラを受けたという証言を得ている」としてまとめられている部分に関する批判である。広河氏からもごく簡単に話を聞いただけであり、女性たちの訴えについて「それ以外の裏とりをしていないよう」だ、とされている。
たしかに「裏とり」はできていないのかもしれない。しかし『週刊文春』の記事でもここは各女性の訴えの概略を箇条書きにしているだけの箇所である。しかも「という証言を得ている」とされているだけで、証言の評価には踏み込んでいない。
「考える会」はつづいて、記事の結び部分のやりとりをとりあげる。記事では田村氏の「女性たちは傷ついています」という追及に対して広河氏が「僕のせいじゃないでしょ」と答えたことになっている。「考える会」は「広河氏が被害者たちを突き放すように感じられる」と記事の記述を評したうえで、録音によれば「僕のせいじゃないでしょ」は被害者の一人が「今も通院している」と追及されたことに対する返答だ、と記事を批判する。
しかし被害者が「傷ついている」ことについて「僕のせいじゃないでしょ」と否認するのと、通院の原因について「僕のせいじゃないでしょ」と否認することの間に、いったいどんな違いがあるというのだろうか? 田村氏は「通院」の原因が「傷ついている」ことにあるという前提で取材しているのであるから(そして広河氏も田村氏のそうした認識は理解していることが伺える)、通院の原因が自分にはないと否認することは、すなわち「傷ついた」ことの責任が自分にはないという否認に他ならないはずである。
※立場を利用したハラスメント行為のケース/裏取りの痕跡は記事になし
この項で「考える会」が依拠しているのは、録音されたという次のようなやりとりである。
田村氏:当時編集長ですね。著名なジャーナリストであるという立場をある意味、 利用してですね、女性を...この広河氏の返答が記事では「(女性たちは)僕に魅力を感じたり憧れたりしたのであって、僕は職を利用したつもりはない」とまとめられているのが不当だ、というのである。
広河:嫌がる人をそうしたらそうなるんですね......僕の仕事に対してあこがれてる人が、僕に近づいてくることもありますね。それとは違うと僕は思っていましたから。立場を利用してその人をどうにかしたという意識は僕にはまったくないですね。
このように、取材において、広河氏の発言は仕事にあこがれて近づいてくることと、女性と関係することは別であるという認識を述べています。しかし、週刊文春 の記事では、「僕の仕事にあこがれている」が、「僕に魅力を感じたり憧れたりした」に言い換えられています。たしかに表面的な文言だけを取り出せば「僕の仕事に」が「僕に」に変わってはいる。しかし広河氏は女性たちが「僕の仕事」に魅力を感じて近づいてくることとは「違う」と思っている、と語ったのである。女性たちが「僕の仕事」にあこがれているのを利用したのではないというのであれば、女性たちはなにゆえに広河氏と性的関係を持ったと広河氏は主張したかったのであろうか? 「僕に魅力を感じた」からだ−−女性たちは編集長としての自分の仕事にではなく自分自身に魅力を感じて近づいてきたのだから職権乱用ではない−−と主張しようとしている、というのは多くの人間にとってまず頭に浮かぶ自然な解釈であろう。もちろんこれが唯一可能な解釈だと言うつもりはない。しかし田村氏の解釈が適切でないというのなら、より蓋然性の高い解釈を「考える会」は提示すべきであろう。あるいは、「考える会」は広河氏に問い合わせを行って返答をもらえるような立場にあるわけだから、田村氏に「裏取り」を要求するだけでなく「考える会」として広河氏に真意を問いただせばよかったのではないだろうか。
(https://note.com/scshm/n/n11474824b6e2)
※谷口真由美氏、事実を創作して広河氏を批判
「考える会」は最後に「こうした週刊誌報道を鵜呑みにして、広河氏への批判を展開した人たちのリテラシーの低さは見過ごせない」と主張し、その例として「メディアにおけるセクハラを考える会」の代表として谷口真由美・大阪国際大准教授が2018年12月26日に Facebook にポストした記事をあげている。
「事実を創作」というのは谷口氏のポストに「このように、人権派のフォトジャーナリストを標榜していた人が、身近にいる女性の存在、そして人権をあまりに軽んじてきたこと、「私に魅力があるから彼女たちがホテルまでついてきた」、それにより「同意があった」と主張するのは到底看過することができません」という一文があることを指している。「彼女たちがホテルまでついてきた」は「実際の録音記録にも、記事にも」ないから「谷口さんの創作」だ、というのである。しかし『週刊文春』の記事に基づいた広河氏の主張の要約として、「私に魅力があるから彼女たちがホテルまでついてきた」とすることが不当だとは思えない(「僕の仕事」と「僕」については前項を参照)。すると問題はせいぜい「 」の使用法でしかないということになる。たしかに「 」の主たる用法は引用であることを明示するというものである。厳密さが要求されるケースであれば、文字通りの引用ではない要約には別の記号を用いるという工夫をすることもあるだろう。しかしこれは SNS への投稿である。記事の内容と食い違うというならともかく要約としては妥当なのであるから、「事実を創作」という批判はまったくあたらない。
さらに「考える会」は谷口氏が「週刊誌報道をそのまま受けて批判しています」ともしている。しかし谷口氏のポストには「私たちの会では、告発した女性たちから、本件につき直接相談も受けており、告発内容が事実であると信じるに足る情報を得ています」とはっきり書かれているのである。これを「週刊誌報道をそのまま受けて」と評することこそ「事実を創作」という非難に値するのではないだろうか?
総括
3回にわたって「考える会」による告発記事(と記事への反響)に対する「検証」を検討してきたわけだが、いずれの主張も表面的な、些細な違いをまるで重大な齟齬であるかのように言い立てるものばかりであった。取材の録音という材料まで入手していながらこのように些末な主張しかできなかったという事実は、むしろ『週刊文春』の記事の信憑性を高めたといってよかろう。また「考える会」の論の運びのところどころに、“レイプ神話”やセクシズムと親和的な発想がみられることも明らかにできたと思われる。
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