2021年12月29日水曜日

被害者を分断する「セクハラ報道と検証を考える会」の二次加害

(お断り:以下の記事には、性暴力被害者に対する二次加害だと私たちが考える発言の引用が含まれます。閲覧いただくにあたってこの点ご承知おき下さい。) 


「セクハラ報道と検証を考える会」(以下「考える会」)の旧ブログにおいて有料記事として掲載されていた「【検証・週刊文春】強要を否定の田村記者、記事では一転「抗えないまま」に: 田村記者の取材と記事の検証(1)」という記事は新ブログに転載されていなかったが、その後加筆のうえ「週刊文春デイズジャパンのセクハラ記事は本当に正しいか?1/2 食い違う取材で得た情報と記事の内容」(以下「1/2」)及び「週刊文春デイズジャパンのセクハラ記事は本当に正しいか?2/2 情報のリークに金銭支払いの疑いも」(以下「2/2」)として掲載された。

田村栄治記者による広河隆一氏への取材の録音に依拠した『週刊文春』記事の「検証」なるものについては、すでに以下の記事で批判しておいた。

「セクハラ報道と検証を考える会」の「検証」なるものについて(1)

「セクハラ報道と検証を考える会」の「検証」なるものについて(2)

「セクハラ報道と検証を考える会」の「検証」なるものについて(3)

今回加筆された部分にも看過し難い問題があるため、ここでは加筆部分に絞って取り上げることにしたい。

まず指摘しなければならないのは「1/2」が被害者を描くそのしかたがはらむ問題点である。

この記事の特徴は、証言している「報道の仕事を志す若い女性たち」が、そのタイプによくみられる、自立心が強く、自己主張のできる女性ではなく、性的暴行に直面しても、「恐怖で言葉を発せず、抵抗もできなかった」「抗えない」といった内気で従属的な弱々しい人として描かれていることにあります。

ここで問題にされているのは『週刊文春』記事の描写方法であるが、この部分から逆に「考える会」の性暴力認識に大きな問題があることがわかる。性暴力にあった際に「抵抗」できないことを「内気で従属的な弱々しい人」という被害者の属性に起因するものとし、 「自立心が強く、自己主張のできる女性」であれば抵抗した/できたはずだとされている。抵抗できなかったこととを一方的に「内気で従属的な弱々しい」人柄と結びつける一種の犠牲者非難を行っているのは『週刊文春』ではなく、「考える会」なのである。

また『ニューヨーク・タイムズ』の記事に登場する被害者について「その何人かは、会社に抗議し、示談金で和解しています」などとしたうえで、次のように言う。

ところが、「文春」の記事に登場するのは、自分に降りかかった不幸を誰にも言えず、泣き寝入りしてしまった女性たちです。

そのため、この記事は、女性の被害者意識を強調するだけに終わっていて、#MeToo運動を盛り上げ、女性たちを応援する内容にはなっていないといえます。

「よい被害者/悪い被害者」という二分法で性暴力被害者を分断する、極めて悪質な二次加害であろう。そもそも #MeToo 運動の意義の一つは、性暴力に抵抗しあるいは自らの被害について語ることの困難さを改めて認識させたことではなかったか。ワインスタインの性暴力は長期間に渡っており、多くの被害者が沈黙を強いられてきたのであるから。先んじて声をあげた被害者の勇気を称賛するために、沈黙を強いられた被害者を貶める必要はないはずだ。まるで「模範的な被害者」が存在するかのような発想で被害者をジャッジする「考える会」の態度は、広河の被害者だけでなくワインスタインの被害者が見ても怒りを感じるものであろう。

また、「この記事は、女性の被害者意識を強調するだけに終わってい」るとか「#MeToo運動を盛り上げ、女性たちを応援する内容にはなっていない」という評価も問題だ。まず第一に、被害者の被害感情をきちんと伝えることの意味を過小評価(「だけに終わって」)している点。第二に、「女性たちを応援する内容にはなっていない」という評価も主観的な決めつけに過ぎず、事実に即しているとは思えない(そもそも『週刊文春』の狙いは「#MeToo運動を盛り上げ」ることだったのか? という疑問は措くとして)。実際には『週刊文春』の報道はかなりの関心を集め、被害者の一部がデイズジャパン社に対して民事訴訟を起こすといった動きも起きている。第三に、「そのため」という接続詞によってあたかも被害者が直ちに声を上げなかったことが「#MeToo運動を盛り上げ、女性たちを応援する内容にはなっていない」と評価する根拠となっているかのように主張されている。しかし「#MeToo運動を盛り上げ」るのに貢献する被害者/貢献しない被害者を「考える会」が選別することの問題点は先に指摘したとおりである。

また田村記者の発言に対する曲解もひどい。田村氏が取材の動機の一つに「広河氏の素顔を知らせる」ことをあげていたのを捉えて「セクハラ・性的暴行の報道は、こうした怨念を晴らすタイプでいいのでしょうか」としているのだが、根拠を欠いた決めつけとしか評しようがない。広河氏の周辺にいて薄々事情を察していた関係者は別として、多くのひとは広河氏を「いかにも性暴力を振るいそうな人物」とは思っていなかったのであるから、「広河氏の素顔を知らせる」ことが取材の動機になるのは自然なことであろう。また「怨念」というのが田村氏の感情を指しているのか被害者たちのそれを指しているのかがわかりにくい文章であるが、仮に後者なのであれば抱いていて当然の被害感情を「怨念」と表現するのも二次加害と言ってよいのではないだろうか。


「2/2」に関しては、「考える会」が自称する活動目的と実際の活動との乖離がここでも露呈していることをまず指摘したい。

この取材録音の二人の会話を聴いてなにより腹立たしいのは、女性が渾身の勇気をふるって自分の体験を告白したと思われるのに、取材した側も、取材される側も、その口調があまりにも軽々しく、女性たちの痛みに寄り添っていないところです。 

だが「考える会」は次のようなツイートによって、被害者の証言が信用に値しないかのような主張を繰り返してきた。

先に指摘した二次加害とあわせ考える時、「考える会」に対してこそ「女性たちの痛みに寄り添っていない」のではないかと指摘せざるを得ない。

またこのツイートもそうであるが、「考える会」ツイッターアカウントの投稿には繰り返し「裏取り」「裏付け」「裏づけ」という単語が登場し、検証委員会報告書や『週刊文春』報道には根拠がないという印象付けを行っている。ところが「2/2」では「考える会」がしっかりした根拠を欠いた憶測、噂の類を引き合いに出しているのである。デイズジャパンの元従業員が『週刊文春』から金銭を得て情報をリークしていた「可能性」があるというのがそれである。だがこれについて当事者の証言があるわけでもなく、「可能性がある」という会社側弁護士の認識を聞かされたというジョー横溝・元編集長の発言が参照されているに過ぎない。また仮に金銭の授受があったところで、それが直ちに『週刊文春』の報道内容の当否に関わるわけでもない。にもかかわらず、「考える会」自身「裏を取っていないため、これが事実かはわかりません」と認めているようなことをわざわざ記した理由はなんだろうか? 『週刊文春』や告発者への悪印象をつくりだすためであれば、日頃の“持論”はかなぐり捨てるのが「考える会」のやり方なのだろうか?



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