2021年2月1日月曜日

「セクハラ報道と検証を考える会」の誤訳から見える、性暴力理解の根本的な欠落(2)

前回の記事では、「セクハラ報道と検証を考える会」による、米ニューヨークのダートセンターの性暴力報道に関する文書に誤訳が多いことを指摘した。そして、そうした誤訳により、本来は被害者の人権を守るための文書を、実際には加害者である広河氏に有利となるように利用していることを述べた。

今回の記事でも、「考える会」が誤訳をしているのみならず、英文の解釈を、自分たちの広河氏擁護の主張に都合よく使えるように改変している問題を考えてみたい。「考える会」は、「性暴力を誠実に報道するために、取材の準備からインタビューの留意点、記事構成や言葉遣いなど、細かい規定を提案している団体もあります。」といい、「性暴力の理解に甚大な影響を与える報道に規制を設ける海外団体:デイズジャパン最終報告書の検証(6)」(魚拓)(「考える会」サイト引越しに伴い、同じ記事タイトルが「デイズジャパン最終報告書の検証性暴力の理解に甚大な影響を与える報道に規制を設ける海外団体(6)」に変更)と題された記事の中でも、いくつかの米国の団体のガイダンスを紹介している。

だが、この記事でも、前回のダートセンターの文書と同様、本来は被害者の人権を守るためのガイダンスを、加害者を擁護するために恣意的に内容を改変して紹介しているのだ。 

 例えば、同会はミネソタ州の性暴力反対連合(Minnesota Coalition Against Sexual Assault, MCASA)のジャーナリスト向けガイド「Reporting on sexual violence: A guide for journalists」を紹介する中で、そのガイド中で言及されているフロリダ州にある非営利団体ジャーナリズム機関のポインター研究所(The Poynter Institute)の記述に触れている。

 そして、「考える会」は、ポインター研究所の記事から以下の箇所を抜き出している。

有罪判決を受けていない人への非難を避けるには、受動態の方が問題がない。しかし、加害者が逮捕されたら、警察の報告を引用し、加害者を主語にしたほうがいい。被害者は直接目的語にすべきである。

ここで「考える会」は、ポインター研究所がその直後に書き、このパラグラフの中で最も重要であると思われる、”Saying a victim 'performed' a sexual act unfairly assigns agency to the victim.”(被害者が性的行動を「行った」ということは、被害者に能動性を不当に与えるということだ。)という肝心な文をなぜかカットしているのだ。

 「考える会」が、「有罪判決を受けていない人への非難を避けるには、受動態の方が問題がない。」と訳した部分は、原文では”Sometimes it’s easier to use the passive voice because we don’t want to assign blame to someone who hasn’t been convicted.”と書かれている箇所だ。これは、「有罪判決を受けていない人に責任の所在をあてがうことを避けるために、受動態を使ったほうが無難な時もある。」と訳すのが適当だろう。だが、これはあくまでもこのパラグラフの前置き的な文であり、最も肝心なのは「考える会」がカットした、被害者に能動性があったかのような表現をすることが不当だとした箇所である。

 この重要な文をあえてカットした「考える会」は、『週刊文春』が広河氏の性暴力を告発した記事には「広河氏を主語にした、能動態による性行為の描写も含まれます。MCASAの基準からすると、この記事の執筆者は性暴力表現への配慮が十分ではなく、記事表現は不適切だということになります。」とつなげている。だが、本来、MCASAの文章は被害者に能動性があったかのように、すなわち被害者も合意していたと捉えられるように記述することは不当であるとし、むしろ、加害者の能動性をしっかり伝えるべきだと主張するものである。だが、これを「考える会」は、加害者の広河氏が逮捕されていないから、広河氏の行為が能動態で描かれていることが不適切だと、意味を完全にすり替えている。

 そして、「考える会」は再びダートセンターの性暴力報道のガイダンス文書を持ち出し、以下のように解説する。

「暴行を説明するときは、詳細な写実の分量のバランスを考える。多すぎるのは不当であり、少なすぎるとサバイバー(生還者)の出来事の深刻さを弱めることになる」と「正しい言葉の使用」が強調されています。

 この翻訳に対応するオリジナルの英文は以下である。

When describing an assault, try to strike a balance when deciding how much graphic detail to include. Too much can be gratuitous; too little can weaken the survivor’s case.

 「考える会」は”Too much can be gratuitous"を「多すぎるのは不当であり」と訳しているが、原文は「意味もなく過度に詳細な記述を行うべきではない」という意味であり、これに「不当」という訳語を当てるのでは、意味が全く伝わらない。また、「考える会」のいう「不当」が、誰にとって「不当」なのかも曖昧なままになっているが、この記事の文脈や、これまで指摘してきたような恣意的な解釈を踏まえると、被害者にとって「不当」だということをきちんと理解しているのか疑問である。

 ちなみに、同会がダートセンターのガイダンス文書を翻訳紹介した記事のほうでは、同じ文を「暴行を説明するために、含める図式的な詳細の分量を決める際、バランスをとるようにしてください。多すぎると余計ですし、少なすぎるとサバイバーの事件を軽視することになります。」と、「多すぎると余計」と訳している。「不当」と「余計」では意味が全く違い、同じ文書に対して異なる翻訳文を提示するのも杜撰だし、ダートセンターのガイドラインが意図している、被害者の立場に立つという視点が全く抜け落ちた訳になっている。(なお、"graphic"の訳も、「写実の」「図式的な」と異なっており、一貫していない。)

 さらに「考える会」は、ダートセンターが女性の被害者の取材の際には女性記者の同席を勧めているからとして、「広河氏の週刊誌報道に対する違和感のひとつは、サバイバー(生還者)から話を聞いているのが男性記者だけではないかと思える点です。」と、『週刊文春』記事を書いた田村栄治氏が男性であることだけをもって、記事の信頼性を貶めようとする。

 だが、『週刊文春』の報道の後、さまざまな新聞、ウェブメディア等で広河氏の性暴力やパワハラ問題が、被害者への取材も交えつつ報じられてきたが、それらの記事の多くは女性記者によるものだし、中には被害女性たちが声をあげた記事やブログもある。そして、デイズジャパンの検証委員会の中にも、被害者の聞き取りを担当した女性の委員はいる。また、例えばジャーナリストのジョン・クラカワーの『ミズーラ』は、被害者の側にたち性暴力事件を報じた大変優れた仕事だが、クラカワーは男性である。聞き取りの場に女性記者もいることが望ましいとするガイドラインそのものに問題はないが、取材に関わる人や記事を執筆する人が女性でなくてはならないわけではないし、記者が男性だというだけで、記事の信頼性が落ちるということにはならないのは当然だろう。

 そして、「考える会」は、記事を担当した記者である田村氏が男性であるために、『週刊文春』の記事の中に「不快な表現が多々」みられるとし、事例として『週刊文春』の2019年2月17日号に、広河氏が避妊具を使わなかったことについての記述があることを特に挙げて、批判を展開している。

当該記事のなかには、報じる側に女性の関与があれば、避けるであろう不快な表現も多々みられます。たとえば、避妊方法の明記です。避妊は加害性を軽減したり、サバイバー(生還者)にとって有利になったりせず、性暴力の酷さとは関係がありません。それをわざわざ書いく(ママ)のは、いかにも男性視線の猥談的な興味からに思えます。 

 もちろん加害者がたとえ避妊をしたとしても、同意を得ずに性行為を行うということは紛れもない性暴力であり、許されないのは当然だ。だが、被害者が性行為に同意をしていない中で、さらに加害者が避妊具を使わずに性暴力行為を行なったということは、被害者にとってはとてつもなく恐怖だろう。性暴力の中で避妊したかどうかは、被害者にとって自分の身を守る上で重要なことであり、だからこそ重要な情報として、証言をしたのではないか。被害者の側に立った立場を装いながらも、「考える会」は被害者の思いを全く考えず、避妊について報じることそのものを問題視しており、被害者軽視の視点を打ち出している。「考える会」は広河氏が、被害者の同意も得ないままに避妊をせず性行為を行ったことは、広河氏の性暴力行為の深刻さとは無関係だといいたいのだろうか。「考える会」の筆者が「男性視線の猥談的な興味からに思えます」というのは、自身がそう思っているということなのではないのか。

 そして、「考える会」は「日本のセクハラ報道は、加害者の悪質性を強調した個人攻撃型で、問題の背景や全容、今後の解決策につながるような内容にはなっていません。」と結論づける。ここで「加害者の悪質性」すなわち広河氏の悪質性を強調すべきではない、という「考える会」の広河氏擁護の主張がますます明らかになっている。

 「考える会」は「こうした報道は、#MeToo 運動の盛り上げの一助になるのでしょうか。」とも書くが、#MeToo 運動へのバックラッシュとしか言いようがない言論を展開している「考える会」に、上から目線でフェミニズム運動に対して、盛り上げの一助にならないなどとコメントする資格はない。これこそ性暴力の被害を軽視し、フェミニズムを見下して専門家ぶる「男性視線」以外の何者でもないだろう。

「考える会」のサイトには、性暴力報道に関する、英文ガイドラインの邦訳が掲載されていて便利だと思う人もいるかもしれない。だが、ここで見てきたように、「考える会」が提示する翻訳が「加害者擁護」の目的に影響されたものであり、時に致命的なミスや、恣意的な誤訳、文脈を無視したつまみ喰い的な引用が巧妙に混ぜられた邦訳であることを忘れてはならない。すなわち、「考える会」の翻訳に基づきこれらのガイドラインを活用することは、被害者の人権を侵害する報道につながる恐れが高く、大変危険だということだ。

 

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