2023年11月25日土曜日

ドキュメンタリー監督土井敏邦氏による広河隆一氏への「公開書簡」は、さらなるセカンドレイプを誘発した

ドキュメンタリー映画監督の土井敏邦氏が、広河隆一氏への「公開書簡」を出しました。




土井敏邦氏のブログ

フェースブックでは公開設定で〈広河隆一氏への公開書簡〉

https://www.facebook.com/toshikuni.doi/posts/10231586633784778?locale=ja_JP

(この記事をアップする直前に私は土井氏のFBからブロックされました)

X(旧ツイッター)ではここです。

ブログではここです。http://doi-toshikuni.net/j/column/20231124.html 

土井氏は、『週刊文春』で広河隆一氏の性暴力告発記事が出た直後、2019年1月12日付けで「『ジャーナリスト・広河隆一』私論」と題する文章を発表しました。その文の中では、広河氏の性暴力を認め、失望しながらもその業績と自分との関係を細かく記述した上で、「ただ『紙の一部が黒いから、紙全体が黒』とする空気はどうしても納得できないのだ」と言い、

かつてジャーナリスト・広河隆一氏の仕事を仰ぎ見、目標としてきた後輩ジャーナリストとして、この「性暴力」事件で広河氏の全人格と、これまでのジャーナリストとしての、また社会活動家としての広河氏の実績が全否定されようとする動きに、私は抗(あらが)う。たとえどんな非難を浴びようともだ。

と宣言しました。そのことで土井氏は、広河氏を擁護していると多くの批判を浴びましたが、「どんな非難を浴びようとも抗う」と言っていたわりにその後全く「抗う」気配はありませんでした。それが約5年経って「本格復活」したとでもいいましょうか、①「なぜ今、広河氏の公開書簡なのか」②「広河氏への提言」③「広河隆一氏への私信」(2019年12月23日付)④「【「デイズジャパン検証委員会・報告書」を読んで】」(2020年1月9日付)と連続して一挙掲載しています(①~④と番号をつけたのは本ブログです)。③と④は過去の文書、①と②は現在の文書ということになります。

③の、2019年12月23日付の広河氏への「私信」は、「文春」報道一年後のもので、

  • 19年8月時点で、広河氏は土井氏へのメールで、自分が行なったことを「あれは恋愛だった」と言っていた。
  • 広河氏は土井氏に、ある弁護士の「性暴力」に言及しながら「過剰なMe TOO運動の生贄にされている」と主張していた。

など、広河氏は随所で主張しているような性暴力の否定と自己の被害者化を、土井氏に対してもやっていたようです。

この私信の内容は、被害者の「傷の痛み」に向き合いなさいと広河氏に強く訴えながらも、同時に「広河氏の業績は否定されてはいけない」という主張を繰り返し、「正義を説くジャーナリスㇳって所詮、実態はこんな連中なんだ!」という「空気」にたいして「いや違う!」ということを「自分の仕事と生き方を通して、社会に示し続ける」と訴えています。

この私信の中で土井氏は、語るに落ちるというのか、「正義のジャーナリスト」についた汚名は違うということを自分の「仕事と生き方を通して」示すと言っています。土井氏は、「仕事」と「生き方」が不可分であることを実は知っているのでしょう。それなのに、眼前で広河氏が、性暴力を否定するという、人間の「生き方」にあるまじき姿勢を示しているのに、広河氏の「業績を全否定せず死守する」という姿勢を変えないのです。

これは自己矛盾ではないでしょうか。その矛盾は土井氏の文章から察する限り、長年にわたる土井氏の広河氏への個人的尊敬と愛着といった私情から来ているものではないでしょうか。「正義ジャーナリストの名誉を汚さないでくれ!」というご自分の名誉にかけたこだわりとも受け取れます。

これらはどれも、「被害者目線」からかけ離れたものです。性暴力被害者は、「加害者の仕事をどこまで否定してどこから肯定するのか」といった次元で物事を感じ考えることはないでしょう。その男が目の前に現れたら、もしくはそれを想像するだけで全身の毛が逆立ちフラッシュバックが起こるでしょう。ましてや自らの性暴力を否定している加害者の「業績」の話ばかりする人間からは「セカンドレイプ」を感じるだけでしょう。

ちなみにこの「私信」の中で土井氏は、ジャーナリスト伊藤詩織さんが受けた性被害について語っていますが、被害者の伊藤さんをフルネームで言及しながら、当時から加害者として名前が知れ渡っていた、事件時は伊藤さんよりずっと有名な権力者であった山口敬之氏のことを「山口某」といって名前を隠しています。ここからも、土井氏が無意識に、被害者よりも加害者を守ろうとする傾向があるのではないかと勘ぐってしまいます。

④の、【「デイズジャパン検証委員会・報告書」を読んで】では、2019年1月の「私論」に来た数々の批判を「バッシング」と言い切って自己被害者化しています。検証委員会報告書を読み、広河氏の性暴力の悪質さに驚きながらも受け入れているようですが、「人格と実績を全否定する動きに同意できない」という考えは「揺らいでいない」と言っています。

現在の考えを語っている①の部分でも、

繰り返すが、私が「擁護」しているのは「広河氏の過去の仕事」であって、「広河氏の性暴力」ではない。

と言っています。と同時に、

最初のコラムで私が反省すべき点は、広河さんのジャーナリストとしての「実績」の抹殺に「抗おう」とするあまり、被害者の女性たちの“痛み”に思いを馳せられなかったことです。そのことは私が深く反省しなければならないことです。

とも言っています。

私(乗松聡子)は土井さんのフェースブックにこう書き込みました。

読んで「ホモソーシャル」という言葉がどんぴしゃだと思いながらコメント欄にいったらすでに別の方が書いてましたね。土井さんは最初から最後まで「自分」にとっての広河、「自分」の被害者化、「自分」と広河の関係の話しかしていません。被害者にとってあなたにとっての素晴らしい広河像と広河がやったことをどう落とし前をつけるかなんてどーでもいいことです。あなた以外は誰も関心ありませんよ。『私が反省すべき点は、広河さんのジャーナリストとしての「実績」の抹殺に「抗おう」とするあまり、被害者の女性たちの“痛み”に思いを馳せられなかったことです。そのことは私が深く反省しなければならないことです。』と本当に思っているのなら、その反省にもとづいた何か当時とは違う姿勢を見せるのかと思ったらゼロですよね。いまだに全否定はいけないとか言ってる。人権活動の中で女性を踏みにじることがどうしてできたのかなんて簡単ですよ。広河の「人権」の中に女性の人権が入ってなかった、それだけです。選択的人権活動家だったわけです。シオニストの、イスラエル人に人権はあるがパレスチナ人の人権などどうでもいいと一緒で。男には人権があるが女の人権などどうでもいい。外で人権や平和をやりながら家では妻を殴っている。そんなの左派の男には、はいて捨てるほどいますよ。それらの男たちを「業績は別だ」って言う人は、その人たちも選択的人権活動家、つまり人権蹂躙者だっていうことです。人権を踏みにじりながら業績をきずいた広河の人権活動を否定しないなら、同様に人権を踏みにじりながら業績をきずいたジャニー喜多川も否定しないんでしょうか?もう一度ご自分の文を、被害者の立場で読み直してみてください。被害者がこれを読んだらどう思うと思いますか?人の想像力を問題視するのならまずはご自分の想像力を磨いてくださいね。「広河隆一の擁護者」と言われたくないのならまずは広河と自分のことばかり考えるのをやめ、広河に人生を壊された被害者たちの立場に立ってみたらどうでしょうか?

「二次加害」についてよくまとまっているこのサイトにもリンクをはりました。

サバイバーを踏みにじる「二次加害」の暴力

特に土井氏にはこの項目を読んで欲しいです。

  • ■加害者の功績を持ちだして、加害行為を矮小化する
  • ■公に加害者を応援する、励ます
土井さんの文①を読めば、いまなぜ広河氏に「公開書簡」を書くかの理由として一つに、「広河さんのイスラエルからの報告をFBで散見したこと」、またもう一つに、最近パレスチナ、ガザについて土井氏の仕事が多く露出しているが、5年前「広河氏擁護」と批判されたブログをそのままにしていいのかとの声があると、尊敬するジャーナリストから言われたからと言っています。

要するに、いまガザの出来事をうけて、広河氏の性暴力事件についての自分の考えが自分の現在の仕事に悪影響を及ぼしては困るから、というのが今回の「公開書簡」の主要な動機であることがわかります。

私は土井さんのFBにこうも書き込みました
単純に言えば誰のために書いているのかということです。土井さんのは自分のためにしか見えないです。被害者ではなく。
が、まさしく土井氏は自分の仕事に支障があると困るから5年間放置して全く「抗う」こともしてこなかった問題を掘り起こして名誉挽回をはかったということなのでしょう。

土井さんに問いたいのです。あなたはどこを見ているのですかと。5年前は「被害者の痛みに思いを馳せなかった」と反省しているのなら、その反省に基づいた言動をしてください。

広河氏は「公開書簡」について11月24日こう返答しました。
広河氏が反省するどころか自分の性暴力を発信した媒体を訴えているという事実がまた被害者の眼前で確認されることになってしまいました。土井さんの「公開書簡」がセカンドレイプなだけではなく広河氏からのさらなるセカンドレイプを誘発したのです。


これが私から土井さんへの「提言」です。

乗松聡子

2023年4月1日土曜日

「広河隆一『ウクライナ・戦禍の人々』中止のお知らせ」が「平和写真プロジェクト」のHPに画像発表された

 広河隆一『ウクライナ・戦禍の人々』中止のお知らせ」が「平和写真プロジェクト」のHPで発表されました。URLはhttp://hppp.jp/ です。

下にテキスト形式で貼り付けます。 


広河隆一「ウクライナ・戦禍の人々」中止のお知らせ

私たち「平和写真プロジェクト」は、2023年4月4日〜9日に広島県立美術館の市民ギャラリーで「平和写真展」と同時開催を予定しておりました広河隆一「ウクライナ・戦禍の人々」および広河氏によるギャラリートークを、中止することを決定いたしました。

企画当初は、広河隆一氏の引き起こした性暴力事件の深刻さについて、私たちの理解が不十分でした。多数のご指摘を受け、これまでの報道や検証報告などを確認する中で、心からの反省や謝罪をしていない広河氏の写真展は開催すべきではないと思うに至りました。

また、報道にもありますように私たちは当初「個人の問題と写真は別である」と考えておりましたが、フォトジャーナリストとしての活動の中で、その地位を利用して多数の性暴力をおこなった人物の作品を展示することは被害者をさらに傷つけ、「平和写真展」にもふさわしくないと判断しました。

私たちの性暴力に対する認識の甘さによって、被害者の方に苦痛を与えてしまったことについて深くお詫びし、二度とこのようなことがないよう肝に銘じます。

なお、4月4日~9日までの「平和写真展」については予定通り実施いたしますことをお知らせいたします。

平和写真プロジェクト 工藤一義


広河氏の写真展示反対のために立ち上がったアカウント「0404阻止行動@広島県立美術館前」はこの謝罪文が発表されるのに先立ってこのようなツイートをしています。 

以上速報です。 

2023年3月28日火曜日

広島「平和写真展」、広河隆一氏の写真展示を企画するも急遽中止

 『週刊文春』を提訴したことをSNSで報告した翌日の2023年3月24日、広河隆一氏は次のような告知を行った。


写真展のちらしや報道などから明らかになったところでは、主催者の「平和写真プロジェクト」(工藤一義会長)が過去に刊行した写真集から選んだ110点の写真と「同時展示」のかたちで広河氏の写真が65点展示され、さらに初日の4月4日には広河氏本人によるギャラリートークも予定されていた。「個展」とまでは言えないにせよ広河氏を大きくフィーチャーした企画であったと言えよう。

この情報がSNSで知られるようになるとたちまち抗議の声が上がり、「平和写真プロジェクト」や広島県立美術館に直接抗議、問い合わせを行う市民も現れた。 『週刊文春』を提訴することで自らの加害を否認する姿勢を明確にしたばかりであることが、批判の広がりにつながった可能性がある。

そして週が開けた3月27日午前、広河氏はツイッターで展示の中止を告知、共同通信の速報を皮切りにメディア各社が取り上げる事態となった。

当ブログでも報告したように広河氏は昨年沖縄で写真展を企画し、やはり批判を受けて中止している。主催者は当然今回の抗議を予測できたはずだが、問い合わせを行った市民や報道によれば「広河氏個人と作品は別」という論理で展示を正当化できると考えていたようだ。この論理は広河氏の性暴力が告発された当初から現れていたものだが、「写真家としての活動の中で、フォトジャーナリストとしての地位を利用して振るわれた性暴力なのだから、個人と作品を切り離すのはおかしい」といった反論もまた早くから行われていた。そうした反論に対して再反論することばを主催者はもっていなかったようである。

さらに『産経ニュース』『日刊スポーツ』によれば主催者は「写真活動の権利や自由を理解してもらえず残念」というコメントを出したとのことである。加害責任に向き合おうとしない広河氏の態度を容認した自分たちの認識の甘さを棚に上げ、また自らが謳う「写真活動の権利や自由」について「理解」を得るための努力も放棄したまま、抗議者に責任を帰するかのようなコメントは、それこそ「残念」としか言いようがない。

2023年3月24日金曜日

速報:広河隆一氏が文春を訴えた

 広河隆一氏は昨年12月初頭からぱたりとFacebookやTwitterでの発信をやめていたので何かが起こるとの予感があったが、3月23日、TwitterとFacebookで、株式会社文藝春秋を名誉毀損で訴えたとの報告があった。以下は氏のTwitter。Facebookでも同じ内容の報告をしている。

さる3月14日には、性犯罪の実態に合わせた刑法の改正案などが閣議決定された。「強制性交罪」を「不同意性交罪」に、「強制わいせつ罪」は「不同意わいせつ罪」に変更し、従来は「暴行や脅迫」を用いたことが構成要件になっていたが、そのような「暴行や脅迫」の要件が見直され、構成用件として、1)暴行又は脅迫を用いる 2)心身に障害を生じさせる 3)アルコール又は薬物を摂取させる 4)睡眠その他の意識が明瞭でない状態にする 5)拒絶するいとまを与えない 6)予想と異なる事態に直面させて恐怖させ、又は驚愕させる、いわゆる「フリーズ」状態、7)虐待に起因する心理的反応を生じさせる 8)経済的又は社会的関係上の地位に基づく影響力によって受ける不利益を憂慮させる の8項目が加わった。その他、時効の延長、性行為の同意ができるとされる年齢を13歳以上から16歳以上に引き上げる、性的行為を目的に子どもを手懐ける「グルーミング」にあらたな罪を設けるなどの刑法改正が、政府は今国会で成立を目指すという。(参考:NHKハフポストなどの報道)

広河隆一氏の性暴力の場合は、フォトジャーナリストを目指す等の目的で氏の事務所で働いたり、ボランティアをしたりしていた若い女性たちが被害に遭っており、明らかに氏の経済的、社会的関係上の地位を利用した性暴力であった。日本でも刑法の規定が変わり、「同意なき性」が性犯罪であるという当たり前のことがやっと認められるようになるという矢先に、広河隆一から、自身の性暴力を告発した媒体に対して訴訟を起こすという行為は、社会の動きに完全に逆行しているとしか思えない。

当の広河氏は、「この数年間、社会的なバッシングを浴び続けてきました」と言っている。自分が性暴力の加害者であることを認めていないことで受けてきた批判を「バッシング」としてしか受け止められず、自分を完全に被害者化している。そこには氏の性暴力の被害者への配慮などは片鱗も感じられず、これから裁判が進行するにおいて、被害者たちがあらゆる形でセカンドレイプ(二次加害)を受ける可能性も全く考慮していないようだ。

わたしたち「忘れない会」は、この裁判を注視し、情報を収集し、このブログ上で随時報告していくつもりだ。



2022年11月13日日曜日

広河隆一氏のツイッターアカウントが公開アカウントに

 2022年11月12日、広河隆一氏が突如自身のツイッターアカウントの「鍵」を外し、公開アカウントに移行した。

リツイートが可能になったことをアピールしていることから、氏が自身の活動を広く周知させることを望んでいることが伺われる。

私たちは「告発」以降の広河氏の活動のうち公になっているものを把握し、彼が自身に対する告発の意味を依然として理解できていないことを当ブログで明らかにしてきた。きちんとした反省も謝罪もないままに公然と活動を再開することは被害者に対する二次加害になりかねない。公開アカウントへの移行を批判するとともに、今後とも氏の活動を注視してゆくことを宣言しておく。 

2022年8月6日土曜日

『週刊金曜日』が広河隆一・写真展問題を報道

昨日発売の『週刊金曜日』2022年8月5日・12日合併号に、広河隆一氏が沖縄で写真展を企画し批判を浴びて中止になった件に関する記事が掲載されている。執筆者は『沖縄タイムス』の阿部岳記者(編集部渡部睦美氏による囲み記事も)。全部で4ページの特集記事だがそのうち1ページ強を割いて広河隆一氏へのインタビューが掲載されている。印象に残るのは広河氏が「極端なフェミニストから攻撃されている」と漏らしたという点だ。その言葉こそ用いられていないが自らを「キャンセル・カルチャー」の被害者ととらえているのだろうか。しかし当会が把握している限りで、広河氏は未来永劫公の場で活動すべきでないと主張している者はいない。まず被害者に対する責任をきちんと果たすことが求められているだけだ。

お盆の合併号であるため通常より長く書店に並ぶはずである。ぜひ広河氏の“弁明”を読んで、活動再開が許されるようなしかたで告発に向き合っているのかどうか、ご確認いただきたい。




2022年7月3日日曜日

広河隆一氏が否定し続ける「性暴力」問題と『広辞苑』のつまみ食い

広河隆一氏が7月5日から、沖縄の那覇市民ギャラリーで「私のウクライナ――惨禍の人々」と題する写真展を開催する予定であることがわかり、『沖縄タイムス』や『琉球新報』が批判的に報道した。その後、抗議が殺到し、写真展は中止になったというが、報道では、広河氏が「性暴力」を行ったかどうかについて、新聞社と広河氏の理解とに齟齬が見られた。

 『沖縄タイムス』(6/30)では、広河氏の性暴力やセクハラについて「性暴力が判明している人物」、「性暴力を重ねてきたことがわかっている人物」などと広河氏がしたことを「性暴力」と認定している。また『琉球新報』(6/30)でも、「性暴力を受けたというデイズジャパンの元アルバイト、アシスタントらの証言が報道され」、「(検証委員会の)報告書は深刻な性被害やセクシュアル・ハラスメント、パワハラが多数あったことを認定した」と、報道や検証委員会に依拠した上で、広河氏の行為を「性暴力」とする報道をしている。  


 しかし、広河氏本人は、一連の問題について、「自身の見解を3月にネット上で掲載したと説明」した上、「自分の中では結論に至っていない」(『琉球新報』6/30)と、一貫して自分のしたことが「性暴力」であるとは認めていないのだ。 さらに沖縄タイムスの阿部岳編集委員の6月29日付けツイートによれば、

「広河隆一氏は私の取材に対し、加害への謝罪どころか、『何をもって性暴力というのか』などと事実関係を争う姿勢に終始した。」という。そして同編集委員は「まさか、性暴力の事実全体を否認しているのか」と何度も確認したところ、広河氏は『定義による』『該当しない人はいない』などと、ごまかし続けた。」という。

この発言から見る限り、広河氏は自身の「性暴力」を否認しているようだ。自分のしたことを「性暴力」だと認めていないのであれば、やったことの反省もしていないということになり、問題の解決にはほど遠い。

阿部氏によれば、広河氏はさらに「仕事と性暴力事件を切り分けることも希望した。」という。

広河氏の性暴力は仕事上の関係者との間で起きているのだから、切り分けろというのは無理というものだ。また、「仕事」が「写真展」を指すとしたら、広河氏が自らの性暴力を認めず、反省もしていない以上、そうした人物の「写真展」を行うことに反対する人や組織が出るのは当然のことだ。そして、この写真展は中止されることになった。 


広河氏の性暴力やセクシュアル・ハラスメント、パワーハラスメントについては、被害を受けたと複数の女性が名乗り出ており、設立された検証委員会で、それらが性暴力だったと認定されている。それにもかかわらず広河氏はネット上に掲載した「手記」で、「性暴力」を否定した上で詭弁に満ちた言い訳を展開している。


 広河氏の「手記」での「性暴力」に関する記述の特徴のひとつは、自らの行為が「性暴力」ではなかったと正当化するために、『広辞苑』の「暴力」や「性暴力」の語釈を利用していることだ。冒頭で、以下の説明がされている。 

読者と用語の概念を共有する一助とするために、ここに広辞苑(岩波書店)の最新版である第7版(2018年1月12日発行)に書いてある説明をいくつか表記しておく。これは広辞苑が最も信頼できるという意味で用いているのではないが、あくまで私がどのような意味付けでこれらの言葉を用いているかということの参照のためである。  なぜならこれらの言葉を巡る環境がいま大きく変化しており、様々な解釈が表れていて、用語の統一がなければ意味がかみ合わないことがあるからだ。広辞苑による解説は専門家や活動家にとっては古い解釈とみなされることがあるかもしれないが、これを読まれる大多数の人々の解釈と理解を判断するには助けとなるのではないかと思えた。 ぼうりょく〔暴力〕 = 乱暴な力。無法な力。なぐる・けるなど、相手の身体に害をおよぼすような不当な力や行為。 せいぼうりょく〔性暴力〕 = 主に女性や幼児に対する強姦や性的ないたずら、セクシャル・ハラスメントなどの暴力的行為。 レイプ = 強姦 強姦 = 暴行・脅迫の手段を用い、または心神喪失・抗拒不能を利用して女子を姦淫すること。無理やり女性と交わること。  (二次加害、セカンドレイプも紹介されているが、割愛した) 


広河氏は、『手記』で「身体的暴力」を行使していないという点を強調し、結果的に「性暴力」も行使していないと詭弁を弄する。しかし「性暴力」は必ずしも「身体的暴力」の行使を伴うものではないことは周知の事実である。 広河氏は、『週刊文春』が「レイプをおこなった」「性暴力をふるった」と書いたのは、読者に「悪質なイメージ」を抱かせるための誇張であったと主張し、その根拠として『広辞苑』を持ち出した。

『広辞苑』では「レイプ」や「強姦」は「暴行・脅迫の手段を用い」る、あるいは「無理やり」性行為をすることだと定義している。広河氏は、そうした解釈をご都合主義的に持ち出し、自分はレイプと書かれたから、「身体的・物理的暴力による性交をおこなった」と受け止められるはずで、それは『週刊文春』が部数を伸ばすために誇張した結果なのだと、自分のしたことを棚に上げて、次のように『広辞苑』と『週刊文春』を手前勝手に我田引水している。

 広辞苑第7版(2018年刊)では、レイプと引けば強姦と書かれ、強姦を引けば「暴行・脅迫の手段を用い、または心神喪失・抗拒不能を利用して女性をおかすこと。無理やり女性と交わること。強淫。婦女暴行」と書かれ、身体的暴力の意味合いが非常に強い言葉だということが分かる。 週刊文春の読者の大多数である一般の人にとっては、私が「性暴力をふるった」と書かれれば、それは私が女性に身体的な暴力をふるったと理解される。「レイプをおこなった」と書かれれば、「身体的・物理的暴力による性交をおこなった」とほとんどの人が受け止める。


 広河氏は、これまでも自分は「強姦」や「レイプ」をしていない、「性的関係には合意があった」「恋愛だと思っていた」などと強弁している。つまり広河氏は、自分がしたことは「性暴力」ではないと否認するために「レイプ」や「性暴力」=「身体的暴力」という解釈を可能にするかのような『広辞苑』に飛びついたのだろう。 「性暴力」を「主に女性や幼児に対する強姦や性的ないたずら、セクシャル・ハラスメントなどの暴力的行為。」とする『広辞苑』の語釈だと、「女性や幼児への強姦や性的ないたずら」という表現で、女性に対し男性が一方的に性行為を強要する性犯罪のイメージが連想され、文末でも「暴力的」が強調されていることから、広河氏からすると好都合と受け止めたのかもしれない。 


『広辞苑』の語釈が、一見してわかる古い解釈であることも事実だが、広河氏はこれを「古い解釈」とみなすのは「専門家や活動家」だけであって「大多数の人々」はそうは思っていないと考えているようだ。 しかし「本人が望まなかった性的なできごとは、すべて性暴力」という上にあげた定義は、本当に、一部専門家のみが用いる用語だろうか。いや、そうではない。性に関する認識や政策が古く、後手後手に回ることが多い日本政府すら認めている定義である。日本政府の「性犯罪・性暴力とは」の説明は、以下の通りだ。 

いつ、どこで、だれと、どのような性的な関係を持つかは、あなたが決めることができます。望まない性的な行為は、性的な暴力にあたります。(内閣府・男女共同参画局) 


2001年に制定された「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律(いわゆるDV防止法)」では配偶者や恋人など親しい間柄にある相手からの「暴力」とは「身体に対する不法な攻撃であって生命又は身体に危害を及ぼすもの」「又はこれに準ずる心身に有害な影響を及ぼす言動」と定義されている。「暴力」は、決して殴る・けるなどの身体的暴力だけではないのだ。 さらに、内閣府による親密な関係における「暴力」に関する調査では、身体的暴力以外にも、心理的攻撃・経済的圧迫・性的強要などを「暴力」に含めて「暴力」の有無を調べている。どうみても、『広辞苑』が時代遅れだということになる。


 その一方広河氏は、『広辞苑』を正しく活用しているわけではなく、『広辞苑』の中で自分にとって都合のよい語彙だけをつまみ食いしているのだ。例えば、性暴力が身体的な暴力だという主張をしているが、『広辞苑』の性暴力の中には「セクシャル・ハラスメント」が含まれる。そこで「セクシャル・ハラスメント」の語釈を見てみると、「性にかかわって人間性を傷つけること。職場や学校などで、相手の意に反して、とくに女性を不快・苦痛な状態に追い込む性的なことばや行為。性的いやがらせ。セクハラ。」とある。つまり、「人間性を傷つける」や「不快・苦痛な状態に追い込む」は、決して「身体的暴力」に留まらない。むしろ、「精神的暴力」など精神面に影響をあたえる行為だと『広辞苑』は解釈しているのだ。


したがって、『広辞苑』の解釈をそのまま活用するなら、セクシャル・ハラスメントを含む「性暴力」が「身体的暴力」に限定されるとは言えなくなる。 しかし広河氏は、そうした都合の悪い用語や解釈は見なかったことにし、あくまで「性暴力」を「身体的暴力」であると強弁しているのだ。『広辞苑』に依拠しているから「大多数の人々の解釈」だと言い張っているが、実際は『広辞苑』の中からご都合主義的にピックアップして『広辞苑』の権威を悪用しているのだ。 


その一方で『広辞苑』を刊行する岩波書店には、性暴力の加害者に言い逃れの余地を残すような時代遅れの定義を見直すよう求めたい。『広辞苑』が性をめぐる実情や差別に疎い傾向があることは、第7版発行直後にLGBTの定義が間違っていたことが発覚したことからも伺える。その際は、修正を検討するということだったが、LGBTのみならず、「性暴力」のみならず、「強姦」「和姦」「性犯罪」など性に関わる関連語でも、強固な性別二元論及び、偏ったジェンダー観・セクシュアリティ観に基づいた誤った解釈がなされているように思われる。性暴力や、ジェンダーやセクシュアリティに関して、時代に立ち遅れた語釈問題は、早急に抜本的な見直しに着手する必要がある。 


『広辞苑』に問題はあってもそれで広河氏の行為の正当化が許されるわけではないことは明白だ。広河氏は自分の権力を乱用して自分のところに憧れて来た若いフォトジャーナリストの女性たちがNOとは言えない状況を作って性行為に及んだ、つまり職場での優越的立場を利用して若い女性たちの意に反する性行為を強要したのである。これが性暴力であることに疑問を差し挟む余地は微塵もない。広河氏は事前に『広辞苑』を見て、大丈夫だと思ってそれらの行為を行ったはずはなく、性暴力を行ったということを認めたくないからそれを否定するために使えそうな材料として後付けで『広辞苑』を動員したに過ぎない。『広辞苑』を悪用した広河氏の「性暴力」の解釈は、どんなことをしてでも自分の性暴力を認めないという広河氏の姿勢を顕わにしたものといえる。 


広河氏は、沖縄での写真展のために「フォトジャーナリズムに興味ある方、写真が好きな方、学生(18歳以上)歓迎します。最終日は懇親会、意見交換など行いたいと思います。」と懲りもせずに、ボランティアの募集をかけていたようだ。しかしこれまで広河氏による性暴力などの被害を受けた人たちは「フォトジャーナリズムに興味がある方」や、「写真が好きな方」たちだった。「性暴力」を誤魔化して言い逃れをするなど姑息な手段はもはや通用しない。広河氏は、まずこれまでの被害者にきちんと謝罪し、問題の解決を図るべきだ。その上で、これまで繰り返してきた性暴力やセクハラ、パワハラをもう二度と起こさないようにするのが 人としての誠実な対応だと思う。