ドキュメンタリー映画監督の土井敏邦氏が、広河隆一氏への「公開書簡」を出しました。
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土井敏邦氏のブログ |
フェースブックでは公開設定で〈広河隆一氏への公開書簡〉
https://www.facebook.com/toshikuni.doi/posts/10231586633784778?locale=ja_JP
(この記事をアップする直前に私は土井氏のFBからブロックされました)
X(旧ツイッター)ではここです。
「広河隆一氏への公開書簡」
— 土井 敏邦 (@doi_toshikuni) November 24, 2023
パレスチナ・ウクライナで「ジャーナリスト活動」を再開している広河氏への疑問と提言です。
4年前の広河氏への私信、「検証委員会・報告」に関する未公開のコラムも今回、初公開します。https://t.co/Z3KdD4LRr8 pic.twitter.com/mIJvw0Vzt2
ブログではここです。http://doi-toshikuni.net/j/column/20231124.html
土井氏は、『週刊文春』で広河隆一氏の性暴力告発記事が出た直後、2019年1月12日付けで「『ジャーナリスト・広河隆一』私論」と題する文章を発表しました。その文の中では、広河氏の性暴力を認め、失望しながらもその業績と自分との関係を細かく記述した上で、「ただ『紙の一部が黒いから、紙全体が黒』とする空気はどうしても納得できないのだ」と言い、
かつてジャーナリスト・広河隆一氏の仕事を仰ぎ見、目標としてきた後輩ジャーナリストとして、この「性暴力」事件で広河氏の全人格と、これまでのジャーナリストとしての、また社会活動家としての広河氏の実績が全否定されようとする動きに、私は抗(あらが)う。たとえどんな非難を浴びようともだ。
と宣言しました。そのことで土井氏は、広河氏を擁護していると多くの批判を浴びましたが、「どんな非難を浴びようとも抗う」と言っていたわりにその後全く「抗う」気配はありませんでした。それが約5年経って「本格復活」したとでもいいましょうか、①「なぜ今、広河氏の公開書簡なのか」②「広河氏への提言」③「広河隆一氏への私信」(2019年12月23日付)④「【「デイズジャパン検証委員会・報告書」を読んで】」(2020年1月9日付)と連続して一挙掲載しています(①~④と番号をつけたのは本ブログです)。③と④は過去の文書、①と②は現在の文書ということになります。
③の、2019年12月23日付の広河氏への「私信」は、「文春」報道一年後のもので、
- 19年8月時点で、広河氏は土井氏へのメールで、自分が行なったことを「あれは恋愛だった」と言っていた。
- 広河氏は土井氏に、ある弁護士の「性暴力」に言及しながら「過剰なMe TOO運動の生贄にされている」と主張していた。
など、広河氏は随所で主張しているような性暴力の否定と自己の被害者化を、土井氏に対してもやっていたようです。
この私信の内容は、被害者の「傷の痛み」に向き合いなさいと広河氏に強く訴えながらも、同時に「広河氏の業績は否定されてはいけない」という主張を繰り返し、「正義を説くジャーナリスㇳって所詮、実態はこんな連中なんだ!」という「空気」にたいして「いや違う!」ということを「自分の仕事と生き方を通して、社会に示し続ける」と訴えています。
この私信の中で土井氏は、語るに落ちるというのか、「正義のジャーナリスト」についた汚名は違うということを自分の「仕事と生き方を通して」示すと言っています。土井氏は、「仕事」と「生き方」が不可分であることを実は知っているのでしょう。それなのに、眼前で広河氏が、性暴力を否定するという、人間の「生き方」にあるまじき姿勢を示しているのに、広河氏の「業績を全否定せず死守する」という姿勢を変えないのです。
これは自己矛盾ではないでしょうか。その矛盾は土井氏の文章から察する限り、長年にわたる土井氏の広河氏への個人的尊敬と愛着といった私情から来ているものではないでしょうか。「正義ジャーナリストの名誉を汚さないでくれ!」というご自分の名誉にかけたこだわりとも受け取れます。
これらはどれも、「被害者目線」からかけ離れたものです。性暴力被害者は、「加害者の仕事をどこまで否定してどこから肯定するのか」といった次元で物事を感じ考えることはないでしょう。その男が目の前に現れたら、もしくはそれを想像するだけで全身の毛が逆立ちフラッシュバックが起こるでしょう。ましてや自らの性暴力を否定している加害者の「業績」の話ばかりする人間からは「セカンドレイプ」を感じるだけでしょう。
ちなみにこの「私信」の中で土井氏は、ジャーナリスト伊藤詩織さんが受けた性被害について語っていますが、被害者の伊藤さんをフルネームで言及しながら、当時から加害者として名前が知れ渡っていた、事件時は伊藤さんよりずっと有名な権力者であった山口敬之氏のことを「山口某」といって名前を隠しています。ここからも、土井氏が無意識に、被害者よりも加害者を守ろうとする傾向があるのではないかと勘ぐってしまいます。
④の、【「デイズジャパン検証委員会・報告書」を読んで】では、2019年1月の「私論」に来た数々の批判を「バッシング」と言い切って自己被害者化しています。検証委員会報告書を読み、広河氏の性暴力の悪質さに驚きながらも受け入れているようですが、「人格と実績を全否定する動きに同意できない」という考えは「揺らいでいない」と言っています。
現在の考えを語っている①の部分でも、
繰り返すが、私が「擁護」しているのは「広河氏の過去の仕事」であって、「広河氏の性暴力」ではない。
と言っています。と同時に、
最初のコラムで私が反省すべき点は、広河さんのジャーナリストとしての「実績」の抹殺に「抗おう」とするあまり、被害者の女性たちの“痛み”に思いを馳せられなかったことです。そのことは私が深く反省しなければならないことです。
とも言っています。
私(乗松聡子)は土井さんのフェースブックにこう書き込みました。
読んで「ホモソーシャル」という言葉がどんぴしゃだと思いながらコメント欄にいったらすでに別の方が書いてましたね。土井さんは最初から最後まで「自分」にとっての広河、「自分」の被害者化、「自分」と広河の関係の話しかしていません。被害者にとってあなたにとっての素晴らしい広河像と広河がやったことをどう落とし前をつけるかなんてどーでもいいことです。あなた以外は誰も関心ありませんよ。『私が反省すべき点は、広河さんのジャーナリストとしての「実績」の抹殺に「抗おう」とするあまり、被害者の女性たちの“痛み”に思いを馳せられなかったことです。そのことは私が深く反省しなければならないことです。』と本当に思っているのなら、その反省にもとづいた何か当時とは違う姿勢を見せるのかと思ったらゼロですよね。いまだに全否定はいけないとか言ってる。人権活動の中で女性を踏みにじることがどうしてできたのかなんて簡単ですよ。広河の「人権」の中に女性の人権が入ってなかった、それだけです。選択的人権活動家だったわけです。シオニストの、イスラエル人に人権はあるがパレスチナ人の人権などどうでもいいと一緒で。男には人権があるが女の人権などどうでもいい。外で人権や平和をやりながら家では妻を殴っている。そんなの左派の男には、はいて捨てるほどいますよ。それらの男たちを「業績は別だ」って言う人は、その人たちも選択的人権活動家、つまり人権蹂躙者だっていうことです。人権を踏みにじりながら業績をきずいた広河の人権活動を否定しないなら、同様に人権を踏みにじりながら業績をきずいたジャニー喜多川も否定しないんでしょうか?もう一度ご自分の文を、被害者の立場で読み直してみてください。被害者がこれを読んだらどう思うと思いますか?人の想像力を問題視するのならまずはご自分の想像力を磨いてくださいね。「広河隆一の擁護者」と言われたくないのならまずは広河と自分のことばかり考えるのをやめ、広河に人生を壊された被害者たちの立場に立ってみたらどうでしょうか?
「二次加害」についてよくまとまっているこのサイトにもリンクをはりました。
特に土井氏にはこの項目を読んで欲しいです。
- ■加害者の功績を持ちだして、加害行為を矮小化する
- ■公に加害者を応援する、励ます
単純に言えば誰のために書いているのかということです。土井さんのは自分のためにしか見えないです。被害者ではなく。
土井敏邦さんからの「公開書簡」が届きました。
— 広河隆一 (@RyuichiHirokawa) November 24, 2023
私は弁護士と相談しました上、次のようにお答えするにとどめます。
記
私としては、事実を争い、文藝春秋社に対し訴訟を提起していることでもあり、主張の詳細については訴訟のなかで明らかにいたします。
広河隆一