2022年7月2日土曜日

広河隆一氏の沖縄での写真展、中止に

7月5日から那覇市民ギャラリーで開催予定となっていた、広河隆一氏のウクライナ写真展が中止となったことが、7月1日に明らかになった。那覇市民ギャラリーを運営するパレットグループがfacebookに「中止のお知らせ」をポストしたほか、メディアでも報道されている。

琉球新報 「広河隆一氏の写真展が中止 女性への性暴力問題 那覇市民ギャラリー 沖縄」

沖縄タイムス 「広河隆一氏の写真展が中止 性加害への謝罪なし 抗議の動き受け決定 那覇市民ギャラリー」

共同通信 「広河氏の那覇の写真展、中止に 性暴力問題で抗議相次ぐ」

また、この広河氏の写真展問題を報じてきた沖縄タイムスの阿部岳編集委員のツイートによれば、中止は「会場側の提案で、広河氏は自らやめようとはしなかった」という。

 

さらに7月2日付『琉球新報』記事によれば、広河氏は写真展の中止に関して「この件については電話でのお答えはしない」と答えたとのことで、主催者としての説明責任も果たしていない。

広河氏は被害者への謝罪もしないままに今回の写真展の開催を企画した。しかも取材に対して「何をもって性暴力というのか」などと開き直り、仕事と性暴力事件を切り分けることも希望した。広河氏が今もまだ自らの性暴力を認めておらず、真摯な謝罪をする気もないことが露呈した。

SNSでは、広河氏が復活の場として沖縄を選んだことについての植民地主義を批判する声もあった。また、沖縄の市民たちがただでさえ選挙運動で大変な時期に、写真展への抗議行動もせざるを得なくなることで負担がさらに大きくなることも予想されていたので、ひとまずは安心と言えよう。


2022年6月29日水曜日

広河隆一氏、加害への謝罪もないまま沖縄でウクライナ写真展を開催予定

広河隆一氏が7月5日から、沖縄の那覇市民ギャラリーで「私のウクライナ――惨禍の人々」と題された写真展を開催することが、6月29日に『沖縄タイムス』で報道された。その前日、6月28日にウクライナ大使館がこの写真展を宣伝するツイートを行ったことで批判を受けたためか、そのツイートが間もなく削除されたという展開もあった。

 『沖縄タイムス』の報道によれば、「戦争の犠牲になるのは子どもや女性だという事実を、緊張が高まる沖縄で伝えたい」が目的だとしつつ、広河氏は同紙の6月28日の取材に対して、「何をもって性暴力というのか」などと述べたという。広河氏が今に至っても、自らの性暴力加害について全く理解もせず、認めてもいないということが明白である。 

 さらに、当該記事を報じた阿部岳編集委員のツイートによれば、広河氏は「仕事と性暴力事件を切り分けることも希望した」という。

   
 阿部編集委員も言うように、広河氏の性暴力やセクハラ、パワハラはまさにデイズジャパン編集部や、取材の現場などといった仕事の場で権威を利用して行われたものであり、自分の都合で切り離したりできるものではない。こうした広河氏の反応からも、自らの加害を全く真摯に受け止めていないことがよくわかるといえるだろう。 

 さらに、現在このサイトは消えているが、広河氏は展示のためにボランティアを募集していたこともわかっている。 アルバイト料も払わずボランティアを募集しているのもどうかと思うが、広河氏は「フォトジャーナリズムに興味ある方、写真が好きな方、学生(18歳以上)歓迎します。最終日は懇親会、意見交換など行いたいと思います。」のだという。広河氏による被害を受けた人たちは「フォトジャーナリズムに興味がある方」たちだったのだが、自らの加害を認めず反省もないままに、そうした人たちを募集し、さらに「懇親会」まで行う予定だという。

  TwitterやFacebookなどでも抗議の声が上がり始めており、『沖縄タイムス』紙は地元でも抗議の動きがあると報じている。写真展をめぐる今後の動きについて、当会も注目しつつ、謝罪もないままの広河氏の活動再開について強く批判していくつもりだ。

2022年6月3日金曜日

広河隆一氏がnote弁明文で、木村嘉代子氏が広河氏擁護ブログで、それぞれ裏付けもなく『文春』取材で金銭授受があったかのように記述。記者と元社員3人は否定。

2022年3月8日、広河隆一氏は、自らの性暴力を認めることもしないまま、前文と8章で構成されている長文を「note」に発表した。女性の人権をこれだけ侵害した人間が、よくも「国際女性デー」に当てつけるかのごとくの投稿をしたと思う。自分の性暴力の禊を目的とした投稿で被害者の傷に塩を塗る行為ではないかと思うと同時に、アンチフェミニズム的な挑発にも見える。 

また、広河氏はnoteのプロフィール写真に子どもの写真を使っているが、無垢な幼い子の写真で汚れた自分のイメージを洗浄しようとでもいうのだろうか。広河氏はこの被写体に許可を取っているのか。報道写真では被写体すべてに許可を取れないときもあるだろうが、これはよりによってプロフィール写真であり、広河氏は自分自身を代表する画像としてこの写真を使っているのだから報道写真の場合とは事情が違う。 

広河氏が書く性暴力についての弁明文のプロフィール写真に自らの顔写真を使うことを進んで許可する人などこの世にいるのだろうか。この被写体には人格と権利がある。広河氏は、自分のイメージ洗浄のために幼い子の顔を消費することからして、今でもやはりpredator-数々の性暴力やパワハラを行ったときと同様、自分より弱い相手を獲って喰う捕食者であることに変わりはないのではないか。 

この長文の内容は全体的に、加害者である自己の被害者化、『週刊文春』の記事とデイズジャパンの「検証報告書」が信用できるものではないという印象を作り出そうとしている文である。広河氏の被害者にとっては二次加害どころではない、とても耐えられない文章であろう。いろいろ批判すべき点はあるが、今回は一点のみ最終章の重大な問題を取り上げたい。 

最終章「欠けたピース」の中で、広河氏は、YouTube に公開された対談番組(2021年3月1日ライブ配信とある)で、DAYS JAPAN の最後の編集長であったジョー横溝氏が「デイズ社の社員が会社情報を週刊文春の田村記者にリークして収入を得ていた可能性について、重要な証言をしている」と書いている。この番組で横溝氏はその情報をデイズ社の顧問弁護士であった馬奈木厳太郎弁護士から得たと言っている。 

広河氏にとって2018年のデイズ社内でのいろいろな動きに不可解なところがあるということでそれを「欠けたピース」と呼んでいたが、対談番組で横溝氏が聞き伝えで言っていることについて、 

「つまり欠けていたピースには、創刊以来およそ15年間『DAYS JAPAN』で校正を中心に働いていた『週刊文春』の田村記者が、私のスキャンダル情報を集めるためにデイズ社の社員に金銭を支払って、社内情報提供を依頼していたということを証明するものだった。」 

と、「証明」とまで言い切ってしまっている。横溝氏も「可能性」としか言っていないのに、である。それも広河氏は、「横溝編集長と馬奈木弁護士は良好な関係にあったことから、このユーチューブでの横溝氏の証言は正しいと考えて間違いないだろう」と、裏付けでもなんでもない「良好な関係」を、あたかも根拠であるかのように語っているのである。 

最後には、「直接関係があるわけではないが」と言いながら、元『文藝春秋』と『週刊文春』の編集長を務めた木俣正剛氏が自著において、週刊誌への情報提供に対し「一銭も支払っていない」と強調している部分を引用してこの長文が終わっている。 

要するに、広河氏はこの8章の長文の最後に、自分の加害行為についての話題から完全に離れ、『週刊文春』で自分の人権侵害を告発した田村記者が、週刊誌の慣行に背いて金銭でDAYS JAPANの社員から情報を買っていたと、読者に印象づけて終えているのである。 

田村氏と4月に会話する機会があった。その際にこの部分について話題になったが、田村氏は、「情報をお金で買うようなことは一切しておらず事実無根」と言っていた。広河氏が8章で触れているDAYS JAPAN 元社員のK、L、I各氏(広河氏が文中で使ったアルファベット通り)にも聞いてみたところ、自分たちが田村氏から金銭を得て情報提供していたという事実は一切ないし、他の人についてもそういうことは聞いていないと言っていた。 

広河氏が、金銭授受という重大な問題について、伝聞だけで「証明だ」と騒ぎ立てることはジャーナリストの風上にも置けない人間とはいえないか。広河氏はこれを本当のことと決めつけ、何の確認手続きも踏まず、馬奈木氏の弁護士としての倫理問題にまで踏み込んでいる。 

ちなみに、このブログでも頻繁に取り上げて批判してきた、木村嘉代子氏が主に執筆をしてきたという、事実上広河隆一氏擁護を展開しているブログ「セクハラ報道と検証を考える会」でも、「週刊文春デイズジャパンのセクハラ記事は本当に正しいか?2/2 情報のリークに金銭支払いの疑いも」という見出しの記事がトップに出てくる(2022年5月30日アクセス時)。それも、ジョー横溝氏の発言を引用し、最後に、必要もないのに『週刊文春』元編集長の木俣正剛氏を引用して終わっているところも広河氏のnoteと同じである。 

「考える会」ブログの記事のほうが先なので、広河氏は、このブログを参考にしている可能性もあるし、このブログは広河氏と直接つながりがあることをすでに明らかにしているので、何の驚きもない。ブログでは「裏を取っていないため、これが事実かはわかりません」と言っているが、見出しで「情報のリークに金銭支払いの疑いも」と書いてしまっていては、その「疑い」が真実であるように印象づける意図があることは明らかだ。 

田村氏や上記の元社員の三人が、これについて広河氏や木村氏から取材を受けたということもないようだ。広河氏も木村氏も、「裏を取る」努力もせず、ただ疑惑だけを拡散したかったのであろう。 

広河氏はその後何事もなかったように復活しており、フェースブックやツイッターでの発信も行っている。noteの長文で禊は済んだと自分で勝手に判断したかのようである。このnoteの文は、自分の性暴力を認めず、『文春』記事や検証委員会批判に明け暮れることで被害者を二度、三度傷つけ、最後は裏付けもない田村記者やデイズ元社員への誹謗中傷で完結した文である。

(文責 乗松聡子)

 

2022年4月11日月曜日

「自己の視点」に執着した弁明

広河氏の手記第3章では『週刊文春』2019年1月3・10日号が「編集長の広河氏がスタッフやボランティアを大声で罵倒する場面をたびたび目撃し、次第に「逆らってはいけない人」と考えるようになった」と報じた問題、検証委員会報告書が事実と認定した広河氏によるパワーハラスメントに関する反論が試みられている。日常的な業務中は自分が1人でいることが多く、また取材に出ていることも多かった、それゆえスタッフを怒鳴りつけたりすることが「四六時中であったとはどうしても思えない」というのである。

しかしこれは怒鳴られる側の視点に対する想像力をあまりにも欠いた弁明であろう。周囲にスタッフがいない時に広河氏が怒鳴り散らしたりはしなかったとして、それがスタッフにとってなんの意味を持つというのか。パワハラが頻繁に繰り返されたかどうかは、広河氏にとっての365日、24時間でどれほど頻繁に罵倒したり怒鳴ったりしたか、の問題ではない。スタッフが広河氏とともにいる場面で罵倒や度を越した叱責等がどれくらい繰り返されたか、の問題である。つまり「四六時中」かどうかはパワーハラスメントをうけたと主張しているスタッフの視点から評価されねばならないのに、広河氏は自分の視点から「四六時中であったとはどうしても思えない」と主張していることになる。さらに言えば広河氏が罵倒の頻度にこだわる姿勢も、パワーハラスメントが及ぼす被害を矮小化してはいないだろうか。「私に好意的に対応していた人でさえ、私が大きな声で怒っていたのを目にしたと言っている」とは広河氏自身も認めていることなのであり、まずは自分の言動がスタッフやボランティアをどのように傷つけたのかを自らに問うべきではなかったのか。

もう一つ広河氏がこだわっているのが「私の記憶の中では怒鳴るにしても叱るにしても、すべて理由があるはずだと思っている」という点である。しかしパワーハラスメントを行う側の主観的な認識として「これといった理由はない」ようなことは稀であろう。「理由」が客観的に妥当性をもつか、叱責する相手に「理由」がきちんと伝わっているか、叱責の仕方がその「理由」に照らして適切であったか。広河氏がいくつか挙げている「理由」が妥当なものであったか否かを判断する立場に私たちはないが、理由があればそれでパワーハラスメントではなかったということになるわけではない、ということは指摘しておきたい。

2022年3月19日土曜日

広河隆一氏は性暴力についてなにを「学んだ」のか?

 2022年3月8日、他ならぬ国際女性デーにあたる日に、広河隆一氏が突然 note で非常に長い文書を公開した。その目的を広河氏はこう説明している。

私は、多くの人々に現在考えていることを、議論の俎上に載せることと、説明責任の一端を果たすことを目的に、『週刊文春』の記事と、デイズジャパン検証報告(以下、『検証報告書』)を中心〔原文ママ〕、これまで考えたことをお知らせすることにしました。

この文書には非常に多くの問題があると私たちは考える。たとえば広河氏は「まえがき」的な意味あいをもつ「「文春砲」の性暴力報道」において『広辞苑』から「性暴力」や「強姦」といった単語の定義を引用してみせている。「読者と用語の概念を共有する一助とするため」だというのだが、その後の弁明を読んでいると別の意図が透けて見える。第1章「週刊誌報道の「事実」がひとり歩き」では『週刊文春』の記事タイトル(「「世界的人権派ジャーナリスト広河隆一の性暴力を告発する」 セックス要求、ヌード撮影 七人の女性が#MeToo」「「広河隆一は私を二週間 毎晩レイプした」 新たな女性が涙の告発」)を引用したうえで「これらのタイトルを目にしたときに、あなたは私がどのようなことをしたと想像したか、という質問」を読者にしてみせる。また第7章「デイズジャパン『検証報告書』」でも「私が尋ねたほとんどの人が、タイトルを見て私が女性に身体的暴力をふるったと思った、と私に述べている」と主張している。実は『広辞苑』の「性暴力」に関する定義は性暴力に関する今日の議論の水準に達しておらず(これについては別の記事で改めてとりあげた)、“殴る蹴るの暴力をふるったわけではない”という弁明に都合がよいものとなっているのだ。

しかし「検証報告書」のみならず『週刊文春』の記事も広河氏が“殴る蹴る”の暴力をふるったとはしていない。『週刊文春』の記事はむしろ、広河氏の性暴力が優越的な立場を利用するタイプのものであったことをこれ以上ないほど明快に述べているのだ。

 繰り返しセックスをしたのなら、嫌だったとはいえないのではないか――。杏子さん、麻子さんの証言に、そんな疑問を覚える人もいるだろう。

 だが、その道の先達、職場の上司、学校の教師など「指導する側の人」が優位な立場を利用して、若輩や部下、生徒など「指導される側の人」と性的行為に及ぶのは“性暴力”の典型だ。齋藤梓・目白大専任講師(被害者心理学)はこう語る。

(齋藤氏のコメントは省略) 

つまり仮に広河氏の知人のなかに「広河は身体的な暴力を行使してレイプした」と思い込んだひとが本当にいたとしても、それは性暴力に関する認識をアップデートできていないひとが『週刊文春』の記事本文を読まずに思い込んだだけのことであり、『週刊文春』の瑕疵ではないし「週刊誌報道の「事実」がひとり歩き」というのも言いがかりでしかない。報道された「事実」とは優越的地位を濫用した性暴力、だったのであるから。『週刊文春』の記事が問題にもしていないことに執拗にこだわり自分の名誉が不当に貶められたかのように主張する姿を見ると、いったい広河氏はこの3年間なにを学ぼうとしてきたのか? と疑問を抱かざるを得ない。


これと関連して私たちを非常に驚かせた記述が第4章「「レイプ」」(広河氏がレイプという単語に「 」をつけている)にある。広河氏が性交を強要する際に「女性は嫌がると妊娠しやすくなるから気を付けろ。戦地に妊婦が多いのはレイプがおこなわれているからだ」と語ったと報じられたことについての弁明で、広河氏はこれが竹内久美子氏の著作に由来するものだとしている。

この話の出どころははっきりしている。以前、私が複数の社内スタッフがいる編集部(当時の他のスタッフに確かめた)で話した雑談が、デフォルメされているのだ。そこで私が紹介したのは、動物行動学者である竹内久美子氏の著作『そんなバカな』(文春文庫)や『BC!な話』(新潮社)などベストセラーになった本についての話だ。BCというのは竹内氏の造語で「生物学的に真実」ということを意味するという。これらの本については多くの書評が掲載され、評判になったため、私も読んだのだが、内容は社内で話題になり、本を貸したりした。その場にいた元スタッフに確認したところ、そこにも翔子さんがいたという。

つまり自分がそのような発言をするのを被害者が聞いたことがあるのは認めるが、性交を強要するために言ったことはない、というわけだ。私たちは真相がどうであったかを判断するだけの材料を現時点では持ち合わせていないので、ここではその点は問題にしない(ただし、年長で優越的な立場にある男性が職場において従属的な立場にある若い女性の前でこうしたことを話題にすること自体、文脈次第では環境型セクハラの誹りを免れないだろうということは指摘しておきたい)。また筆者が確認した限りでは『BC!な話』にはなるほど広河氏が紹介するような記述がある(新潮文庫版106-112ページ)一方、『そんなバカな!』にはここでとりあげられているような記述はなく広河氏の記憶違いではないかと思われるが、これもまた些末な問題である。私たちを驚かせたのは次の部分だ。

これらすべては、私が海外取材前に会社で本の紹介として話していたことだった。最近では、竹内氏と川村二郎氏(元週刊朝日編集長)の対談の書籍『「浮気」を「不倫」と呼ぶな』(WAC)の中でも紹介されている。

『そんなバカな!』の単行本は1991年刊、『BC!な話』(同書は新潮社から刊行され新潮文庫になった後さらに文春文庫にも収録されたが、その際にはメインタイトルとサブタイトルが入れ替えられている)は1997年刊。しかし『「浮気」を「不倫」と呼ぶな』の刊行は2018年11月21日(奥付の日付)。すなわち『週刊文春』が広河氏の性暴力を告発する直前なのである。

『そんなバカな!』はベストセラーとなり講談社出版文化賞の「科学賞」を受賞しており、当時話題にするひとが多かったのは確かだ。とはいえかなり早い時点から進化論の適用のしかたが短絡的、粗雑であるといった批判もあった。1990年代から2010年代半ばまでの竹内久美子氏の著作の多くが文藝春秋社または新潮社から刊行されていることから、竹内氏の言説が中高年男性の興味関心(あるいは不安)を主なターゲットとしたものとして流通していたこともうかがえる。

竹内氏は月刊誌『正論』(産経新聞社)の2017年12月号で初登場をはたすと2020年4月からは『産経新聞』の【正論】欄寄稿者となるなど、この数年でより右派的なメディアに接近していた。『「浮気」を「不倫」と呼ぶな』の版元である WAC も右派月刊誌『WiLL』の版元として知られている。ジャーナリストである広河氏がこうした事情を知らないとは考えにくいし、知らなかったというのなら怠慢というほかない。

近年では政治的志向の左右が睾丸のサイズで決まるとする「睾丸理論」で失笑を買い、2020年のアメリカ大統領選挙に際しては「Qアノン」ばりのトランプサポーターとして数々の荒唐無稽な陰謀論に飛びついたことで知られる竹内氏だが、右派のイデオロギーに「生物学的正しさ」という装いを与える役割を果たしているのだ。とりわけ問題なのは、動物の繁殖行動に関する研究を性暴力の正当化のために利用している点だ。

動物行動学(竹内氏が自称している分野)、進化心理学、社会生物学などが繁殖行動を記述する際に「レイプ」などの表現を安易に用いる点はかねてから批判の対象となってきた。それに加えてこの年の6月に刊行された『正論』2018年7月号には、竹内久美子氏と長谷川三千子氏との対談「セクハラ? チンパンジーでは常識ですょ : 他人の尻馬に乗る「#ME TOO」運動」が掲載されている。これは財務省事務次官の新聞記者に対するセクシャル・ハラスメントを野党やマスメディアが問題視していた時期に掲載されたもので、事務次官の性暴力を擁護すると同時に #ME TOO 運動の告発を無効化しようとする意図は明白だ。

『「浮気」を「不倫」と呼ぶな』には次のようなやりとりが登場する(123-124ページ)。

竹内 (略)

 レイプについて、ロビン・ベイカーはさらに「レイプされたときわざわざ抵抗してみせて、それでもやり通せる男性かどうかを女性は見ている」と言っています。やり通せる男性であれば、その遺伝子を受け入れてもいいと。

川村 これもまた恐ろしい話ですね。

竹内 女性であれば嫌いな男性と性交したら排卵は絶対にしないように、自分の生理状態を変化させるくらいのことは朝飯前のはずです。でも、レイプされることがあり、しかもその際に子供ができやすいという現象があるのは、よくよく考えてみるとおかしい。

 ということは、抵抗してみせて、なおかつ、その抵抗を超えてできるかどうかを試しているのかもしれません。

川村 「いやよいやよも好きのうち」は性差別の典型で、今やタブー視されていますが、真理を含んでいるのかもしれませんね。

レイプが男性にとって“適応的”な繁殖戦略だと主張するにとどまらず、女性にとっても同様である、というのだ。『BC!な話』でも(こちらは竹内氏自身のことばで)「昔から言うように、「嫌よ、嫌よも好きのうち」である」「「嫌よ、嫌よ」のときの抵抗はごくごく軽いものだ」とされており(いずれも新潮文庫版111ページ)、激しく抵抗しなかったのだから同意していたのだ、という誤解を与えかねない*。

広河氏が『BC!な話』を読んだのはかなり以前のことなのであろうし、『「浮気」を「不倫」と呼ぶな』を読んだのが『週刊文春』の報道以前だという可能性も否定できない。しかし今回公開された文書においてなんら批判的コメントなしにこうした記述に言及しているのはどういうことなのだろうか? 自分の行為を正当化し、告発を無効化する手段を探し求めていたのではないか、という疑念を抱いて当然ではないだろうか? いまになってもなお竹内氏の言説に批判的問題意識を持てずにいるというのであれば、広河氏が自らに向けられた性暴力の告発を深刻に受け止めたとは思えないのである。


* 『BC!な話』では いちおう「レイプのときの抵抗、レイプに対する恐怖、嫌悪、レイプされるくらいなら死んだ方がましだというあの心理」(112ページ、原文のルビを省略)にも言及がある。しかしこうした記述は激しい抵抗こそがレイプの証であるとするいわゆる「レイプ神話」への親和性を感じさせるのに加えて、あくまで「レイプされたときの方が妊娠率が高い」という自説を理論的に説明するうえでの障害としてとりあげられているだけで、性暴力が深刻な人権侵害であることと結び付けられてはいないことも、指摘しておきたい。



2022年2月13日日曜日

#MeToo運動を歪曲し、性暴力被害者を貶める ―― 『その名を暴け』の誤訳・改変と木村嘉代子氏の書評(その3)

 3) 木村嘉代子氏による『その名を暴け』書評の問題点


今回は、「セクハラ報道と検証を考える会」の記事の大半を書いてきたと自ら名乗った木村嘉代子氏が書いた本書の書評「性犯罪を『正しく』暴く」 ジャーナリズムの神髄」(『週刊金曜日』(2021年1月29日号、 p. 55)について見ていきたい。なお「セクハラ報道と検証を考える会」とは、ブログ等で広河隆一氏の性暴力事件の被害者やその報道に疑問を呈し、検証報告書を批判し続けることによって、加害者である広河隆一氏を事実上擁護している団体だ。


こうした活動を積極的に行っている木村氏が書評で書いたことは、ニューヨーク・タイムズの性暴力報道を称賛する一方、ジャーナリストの著者たちが#MeToo運動に疑問を投げかけているかのような内容だった。

著者はまた、この報道を機に、『世界中の女性が、自分の体験を話し始め』たが社会には大きな変化が起きたのだろうかと、#MeToo運動の目的、説明責任のあり方などに答えのない疑問を投げかける。(木村嘉代子「性犯罪を『正しく暴く』ジャーナリズムの神髄」『週刊金曜日』2021年1月29日号、p.55)

書評の#MeToo運動に関する部分に注目したい。「社会には大きな変化が起きたのだろうかと、#MeToo運動の目的、説明責任のあり方などに答えのない疑問を投げかける」という箇所は、#MeToo運動の目的、説明責任のあり方などがまずかったために、社会に大きな変化が起きなかった、と著者らが考えていると思ってしまいかねない。「#MeToo運動の目的」という箇所は、すでに拙稿の第一回(その1)で取り上げた「この(#MeToo)運動の目的」という箇所(「はじめに」『その名を暴け』 p.9)をピックアップしたものと思われる。ここは、翻訳者による誤訳や改変の結果、#MeToo運動が無実の男性に罪を着せたと著者が述べているかのような内容になっていた箇所で、#MeToo運動への疑問らしき含意は、原著には全くなかったことはすでに述べたところである。

古屋氏の誤訳により#MeToo運動に批判的だと読めるように歪曲された内容だったからこそ木村氏がフェミニズム運動を批判するのにうってつけと飛びついたのであろう。なお、木村氏の書評はほぼ「はじめに」だけに言及したものである。そして「#MeToo運動の目的」に該当する箇所は、「はじめに」では上記以外には見当たらなかったことを申し添えておきたい。

次に、「社会には大きな変化が起きたのだろうかと・・・答えのない疑問を投げかける。」について見ていこう。

原著の「はじめに」で「社会の変化」という箇所を確認すると、social change が2箇所 、changeが3箇所あった。その一つである「どうすればこれほどまで世間を揺るがす社会的変化が起きることになったのか? この本を書こうと思ったのはそうした疑問に答えるためだった」という箇所について、見てみよう。


閉塞感のあるこの世界で、どうすればこれほどまで世間を揺るがす社会的変化が起きることになったのか? 

この本を書こうと思ったのはそうした疑問に答えるためだった。(『その名を暴け』 pp.6-7)


In a world in which so much feels stuck, how does this sort of seismic social change occur? We embarked on this book to answer those questions. (She Said , p.2)

著者らが、女性たちが性暴力を証言したことによって「社会には大きな変化が起きた」と考え、「大きな変化が起きたのはどうしてか」という疑問から本書を執筆した、というパラグラフの一部だ。つまり、木村氏は、著者らが「大きな変化」が起きたのか疑問視している、と著者らが言明していないこと、むしろ著者らが言っていることと逆のことを書評で言わんとしているということだ。また、木村氏が用いている「説明責任」という用語については、「男性が」「前例のない説明責任を果たすことになった」(p.6)と加害男性の説明責任に関する文章はあったが、#MeToo運動の「説明責任のあり方」という文章は、「はじめに」のどこにも見つけることができなかった。

木村氏が#Me Too運動について引用している箇所は、翻訳者の古屋氏が原文の意味を取り違えたりして、フェミニズム運動に否定的だったり、フェミニズム運動を貶めるような箇所とおおよそ合致した。つまり、木村氏は、翻訳者の古屋氏が日本語版の翻訳において#Me Too運動に厳しく、フェミニズム運動を貶めるように改変した箇所に、木村氏自身の#MeToo運動に関する否定的な見方を投影させ、さらには、「説明責任」に至っては別の文脈で使われていた用語を悪用して、また「社会の変化」については、邦訳で書かれていることと真逆の内容を入れるなど事実をねじ曲げてまで、フェミニズム運動の評価を貶めていたということになる。

木村氏の書評は、古屋氏の誤訳と相まって、本書があたかも#MeToo運動に懐疑的であるかのように読めるものとなっている。ちなみに木村氏は考える会の記事やツイートで、日本のセクハラ報道を「センセーショナルに報じる」「事実をねじ曲げた」などと非難しているが、”She Said ”を『その名を暴け』に変えてしまったことにコメントもせず、また『その名を暴け』での事実のねじ曲げともいえる翻訳の改変箇所には、目をつぶっている。木村氏は、英語の翻訳家養成講座を修了したとプロフィールに書いているのであるから、翻訳のおかしな点を原著に当たって確認をとれるはずだが、それもしていないようだ。さらには、自らも自説に都合よく、邦訳をねじ曲げた書評まで書いたようだ。これでは、木村氏や「セクハラ報道と検証を考える会」の主張は、ご都合主義以外の何ものでもなく、もはや信用に値しないのではないだろうか。


本ブログでこれまで度々、広河隆一氏の事例で問題にしているように、性暴力被害を訴えるとたちまち加害者に寄り添った反論や、あたかもマスコミにタレコミをしてお金を受け取っていたかのような被害者バッシングが湧き上がってくるという実態がある。実名と顔を出して権力者の性暴力を訴えた伊藤詩織氏への2次加害の激しさは言うまでもない。

こうした被害者バッシングが、性暴力への告発をテーマとする書籍の出版に際しても例外ではないということが、今回、見て取れた。性暴力被害者の声にフォーカスした良書が『その名を暴け』というセンセーショナルなタイトルになり、性暴力被害者を貶めたり、被害者側に立つフェミニズム運動を軽視し、否定的な内容へと改変された部分を含む翻訳書として出版された。本書が本来示していたはずのフェミニズム運動へのリスペクトや、女性たちの連帯というメッセージが弱まることになったように思われるのは遺憾である。こうした事実については、今後そのようなことが起きないようにするためにも、せめて記録として残しておきたいと思う。

翻訳者の古屋美登里氏が翻訳を通して行ったこと、そして木村嘉代子氏が書評でしたことは、相手との大きな権力差や法律の壁に阻まれる中、身を削る思いでやっと声をあげた性暴力被害女性への冒涜に思われてならない。

2022年2月9日水曜日

#MeToo運動を歪曲し、性暴力被害者を貶める ―― 『その名を暴け』の誤訳・改変と木村嘉代子氏の書評(その2)

2)性暴力、性犯罪の被害者を貶める邦訳への改変 

次に、『その名を暴け』日本語版で、誤訳によって、性暴力を告発した被害女性を貶めていると思われる箇所を挙げよう。

なお、ここに出てくるフォード博士とは、ワインスタイン報道から約1年後、当時トランプ大統領から最高裁判事に指名されていたブレット・カバノーから高校時代に性的暴行を受けたことがあると、米国上院の司法委員会公聴会で証言したカリフォルニアの大学の心理学教授クリスティン・ブレイジー・フォード博士のことである。


 フォード博士を#MeToo運動の最高のヒーローだと見なす人がいたが、その他の人々は、彼女をペテン師――増える一方のバックラッシュに対する弁護者――と見なした〔バックラッシュとは、ある動きが高まりを見せる時に生じる反撥(はんぱつ)、揺り戻し、バッシングのこと〕。(『その名を暴け』p.10)

Some saw Ford as ultimate hero of the #MeToo movement. Others saw her as a symbol of overreach –-a living justification for the mounting backlash. (She Said ,p.4).


フォード博士が悪意をもって証言したかのように受けとられる「ペテン師」と訳しているのは問題がある。「ペテン師」とは、「巧みに人をだまして利益を得ることを常習とする者。いかさま師。詐欺師。」(精選版日本語国語大辞典)である。原著の意味は、「フォード博士を#Me Too運動の究極のヒーローと見る人もいたし、逆に彼女のことを行き過ぎの象徴――増える一方のバックラッシュを正当化できてしまうような生きた例――と見る人もいた。」くらいの意味ではないかと思われる。

しかも、フォードが公聴会での証言に至る顛末を描いた同書9章「DCに行くという約束はできない」では、同じ「ペテン」という語がトランプ大統領がフォードの告発を「民主党の『ペテン』の一部だ」という非難する語彙として使われたものでもある(She Said, p.231;『その名を暴け』p.358)。9章の原文は” con job”で、「はじめに」の ”a symbol of overreach”とは異なっている。それをよりによって、証言台に立った彼女に翻訳で「ペテン師」という言葉をチョイスするのは、内容的に適切ではないだけでなく、やっとのことで30年以上も前の被害を公の場で供述した被害者に対して、あまりにも理不尽な表現ではないか。フォード博士がもし、日本で自分のことが「ペテン師」だと訳されていることを知ったとしたら、、、と想像するだけでも、やりきれない思いがする。

邦訳では、証言台に立ったフォード博士を表す表現として、「バックラッシュに対する弁護者」も使われている。これも、バックラッシュを支持したり、バックラッシャーかと誤解する人も出てきかねない、とんでもない誤訳である。日本語版を読む人は、こうした展開を見れば、著者らはフォード博士の味方ではないと受け取りかねない。しかも、Some ・・・・, Others ・・・・ というフレーズは、・・・という人もいるし、・・・という人もいるというところだが、あたかも「その他の人々は」と、「ペテン師」や「バックラッシュの弁護者」だとみなす人が多くいたかのように訳している点も、より被害女性を貶めているように見えるのではないだろうか。


古屋氏は、「ある分野に特化した専門性の強い翻訳者ではなく、広い範囲でフットワーク軽く、時代を切り取るような翻訳」をしてきたと述べているように、幅広い分野をこなす翻訳家だ。ただ、本書がテーマにしている性暴力やジャーナリズムに関する箇所での誤訳となると、原著の主旨が誤解されかねないことが、懸念される。例えば、性暴力をなくす方向性について誤訳が見られる。”In this fractured environment, will all of us be able to forge a new set of mutually fair rules and protections?” が、「このばらばらになった状況で、男女双方にとって公平な規則と保護という新しい組み合わせを作り出すことができるのだろうか。」(She Said, p.5; 『その名を暴け』p.11)と訳されている。

ここでの“a new set of mutually fair rules and protections”は、さまざまな立場、権力関係など重層的な関係においての公平な規則と保護を想定していると思われるが、邦訳では、原文にない「男女」を訳者が挿入している。これでは、性別二元論に基づき、同性間の性暴力を排除してしまうことになり、#Me Too運動や性暴力と闘う運動がめざす方向や射程が誤解されかねない。

被害女性の語りを評価する箇所でも、意味の取り違えによる誤訳が見られる。“We saw her as the protagonist of one of the most complex and revealing “she said” stories yet, especially once we began to learn how much about her path to that Senate testimony was not publicly understood.”の邦訳で、「わたしたちはフォード博士を、『彼女が語った』話のなかでも、もっとも複雑で人柄がにじみ出る話の主人公だと見ていた。・・・」と、”revealing”を「人柄がにじみ出る」と訳している( She Said, p.4; 『その名を暴け』p.10)。しかし、フォード博士については、9章に描かれているように、公聴会で証言するまでの道のりはかなり複雑なものであり、だからこそ、今後に示唆を与える要素が大きいという意味で「最も複雑で意義深い語りの一つ」と訳すのが相当だと思われる。文脈からして、フォード博士の「人柄」といった個人の属性が評価される箇所ではないはずだ。

ジャーナリズムに関しても同様に誤訳がある。” Our Weinstein reporting took place at a time of accusations of ‘fake news,’ as the very notion of a national consensus on truth seemed to be fracturing.”の訳文が 「『ニューヨーク・タイムズ』がワインスタインについて報道したのは、『フェイク・ニュース』が非難され、『真実に対する国家の合意』という概念そのものが崩壊しているように思える時期だった」となっている(She Said, p.3; 『その名を暴け』p.8)。しかし、“national consensus on truth” を「真実に対する国家の合意」と訳出するのは誤訳であろう。「フェイクニュース」か「真実」か、を決めるのは、「国家」ではなく、「人々」のはずだから、適合的な訳は、「真実についての全米の人々の合意」あたりだと思われる。


以上述べてきたように、この本の翻訳には、フェミニズム運動や被害女性を貶める改変の他、性暴力をめぐる状況に関して、誤訳や意味の取り違えが散見される。古屋氏は、担当編集者(島崎恵氏)と協力して膨大な資料を確認し、法学部出身者ネットワークも駆使して翻訳したと語っている。それにもかかわらず、これだけミスが多いのはどうしてなのだろうか。

こうした翻訳による改変は、原著の意図や意義をも毀損しかねないと思われる。訳者の古屋美登里氏は多数の翻訳書を刊行するベテランの翻訳家のようだが、性暴力というフェミニズムに密接に関わる書籍の翻訳出版に際し、出版社サイドがフェミニズムに詳しい翻訳者を探す必要を感じていなかったとしたら、出版社サイドにも、フェミニズムの専門性への軽視があったと言わざるを得ない。(次回に続く。)